6 船上の愉快なみなさん③

 マルツィアは思わず顔が引きつるのを感じた。変な人には関わらないに限る。さりげなく後ずさりながら、マルツィアはにっこり笑顔を崩さない。


「神、神様ですか。そうですか」

「うむ。我が名は高峰焔夜那大神たかみねほやなのおおかみ

「はい?」

高峰焔夜那大神たかみねほやなのおおかみ。夜と火を司る神だ」


 表情はいたって真面目。冗談を言っている様子はない。つまり本気の危ない人だ。


「その、たかみ……さん」

ミネと呼んでくれ。そなたはいつも私のことを峰様と呼んだ」

「じゃあミネさん。変なことをあまり大きな声で言わない方が良いですよ。神様はただ一柱。万物を司る偉大な存在です。もしかして異教徒の方ですか? 不本意でしょうがこの辺りでは隠した方が良いと思います。最近物騒ですから」


 そこまで言って、はたと気づく。先ほど、変なことを耳にした気がする。


「あの、私、いつもあなたをミネさんって呼んでいたんですか? どこかでお会いしたことありましたっけ」

「ああ。もう何度も共に過ごしたぞ」

「ええっ!? 覚えていなくて、なんだかごめんなさい」

「気にすることはない。人の子は輪廻を繰り返す度に記憶を失うものだ」

「りんね?」


 脳内が大混乱し、目が回り始めた時だった。不意に空が光り、遅れてゴロゴロと遠雷が響いた。目を向ければ、地平線の彼方から暗雲が迫っている。嵐の気配に、船員たちが慌ただしく甲板を駆け回り始めた。


 波が高くなり、船体が大きく揺れる。大きな波が舳先へさきを打って砕けた拍子にマルツィアはよろめいた。すかさずミネに抱き留められて、不覚ながら少し鼓動が速まる。言動がおかしな人だけれど、近距離で見上げた顔はやっぱり綺麗だ。


「うわ、すみませんっ!」

「来る」

「はい?」


 ミネは目をすがめ、暗い影が落ちた海面を睨むように凝視している。そのまま視線を動かさず、唸るように言う。


白竜はくりゅう


 海の奥から、雷鳴とはまた異なる、腹の奥に響くような重低音が湧き上がって来る。陽光が雲に遮られたせいで灰色がかっていた海面が、次第に黒さを増した。そこでやっとマルツィアは、それが空から落とされた色ではなく海中に潜む巨大な何かの影であると知った。


「ふえっ!? あ、あれは」


 重低音が迫り空気が震え、産毛が振動する。やがて、歯がかちかちとこすれるほどに空気の揺れが大きくなった時、ミネがマルツィアの手を引いて背に庇い、海の方へと腕を伸ばした。


 時の流れがゆっくりになったかのようだった。ミネは、海に向けてすっと指を向ける。人差し指で示された辺りの海面がこんもりと盛り上がり、波が割れ、薄い日差しの中でもキラキラと煌めく白銀の細長いものが、細長いものが、細長……。


「へ、へへへへへへびーーー!」


 しかもでかい。


 マルツィアは甲高い悲鳴を上げ、卒倒しかけてミネの上着にしがみついた。荒波に揺れる甲板で、船員が大騒ぎしている気配がするが、背後に目を遣る余裕はないので、実際の様子はあまりわからない。


 ミネは片腕でマルツィアの肩を抱き、もう片方の腕で巨大〇〇ピーを牽制する。マルツィアの亜麻色の頭頂を、怒気を孕んだミネの声が揺らした。


「故郷から遠く離れた西方まで追って来るとは、執念深い奴め。なぜ我らを追う?」


 海面から鎌首をもたげた白銀。その全長は、多分客船くらいある。白銀のにょろ長いそいつは、ずらりと並ぶ牙に覆われた口を微かに開いた。牙、というか歯もある。あれ、蛇に歯などあっただろうか。いいや、今はそれどころではない。


 白銀の口の隙間から、中性的な声が発せられた。


「その娘に我が至宝を奪われたのだ。取り戻し次第あちらへ帰ろう」

「ん? マルツィア、何か盗ったのか」

「蛇さんのお家にあったものなんて恐ろしくて触れません」

しらを切るかミコよ!」


 白銀が、くわっと牙を剥き出した。


「見える。魂が放つ光に隠されてはいるものの、我には鮮明に見えるのだ。おぬしの魂と融合して光る、朝の宝玉が。己の神を守るために他神から神器を奪った破戒のミコよ。今ここに、天誅てんちゅうを下そう」


 ミネが弾かれたかのように顔を動かしマルツィアの胸辺りを見た。しばらくじっと見つめてから一瞬息を呑み、ああと呻く。


「そうか、そういうことだったのか」

「どういうことですか、ミネさん」

「話は後だ、マルツィア。ここは逃げるぞ」


 言うなり答えも待たず、ミネはマルツィアを横抱きにして、甲板の端に向かって走る。その先には薄暗い空と、巨大〇〇の巨躯の下半分がにょろめくだろう海。


「え、ちょっと待って。待ってください!」

「歯を食いしばるのだ」

「うぐっ」


 顎で頭頂を押され、悲鳴を封じられる。


火霊かれいよ集え」


 ミネが呟くように言った直後、二人を覆うように漆黒のほむらが上がる。焼かれる、と思ったが声が出ない。そして不思議なことに、炎は温かいだけで、肌を焦がそうとはしなかった。そして。


「焔よ、我らを守り給え」


 神妙な言葉と共に、ミネは躊躇いなく海へと飛び込んだ。

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