5 船上の愉快なみなさん②

「ひえっ?」


 パオロが裏返った声を上げた。無理もない。マルツィアの目の前にある黒い上着に包まれた闖入者の背中からは、燃え盛る炎のような強烈な怒気が滲み出ており、発せられた声音は不用意に近づけば斬られそうなほど鋭利。


「不老長寿の水か。ふむ、神の領域に足を踏み入れるとは、身をわきまえぬ奴め。その商品を私に見せろ」

「な、なぜ君なんかに」

「なぜ、だと? 不老長寿の水とやらが真に存在するならば、それは神がもたらす恩恵だ。つまり相応の代償が必要だということ。そなたの呑気な顔を見る限り、まだ代償は支払っていないようだな。良いか、身に余る力を求めれば」


 黒い男は長身を軽く前傾させ、パオロの耳元に何かを囁いた。その途端、パオロの顔から血の気が引いて、瞳孔が開く。しまいにはがたがたと震え始めた。


 黒い男は身体を戻し、冷酷に言い放った。


「まあ、それが本当に力ある水だというのなら、そなたは代償を支払い消える運命にある。一方、不老長寿の水とやらがただの液体だというならば、そなたは詐欺師。どちらにしても、身を滅ぼすだろう。それが嫌ならば水を海に流して早々に去れ」

「わ、わかったよ。くそっ、あんなちんちくりんに、声をかけるんじゃなかった」


 地味に胸に刺さる捨て台詞と共に、パオロは客室へと去って行く。その背中を見送ってから鼻を鳴らし、黒い彼は「覚悟せよ、神罰が下るだろう!」と声を張り、大人気ない追い討ちをかけた。


 結果的にマルツィアは助けられたのだから、黒い男は敵ではない。それなのに、彼が先ほどまで纏っていた怒りの気配に、ぞくりと背筋が冷える。なんだかこの人、ちょっと怖い。けれど。


「娘よ、大丈夫だったか」


 青年がおもむろに振り向いた途端、マルツィアは心の声が飛び出してしまわないように口元を両手で押さえて内心で叫んだ。


(ええええ、すごい美形)


 青年の容姿は、この世のものとは思えないほど整っていたのだ。


 雪のように白い肌、対照的に、少し伸びた髪は星空を溶かして固めたかのように深く艶やかな黒。柔らかな毛先が撫でる頬の輪郭には無駄がない。琥珀のような瞳が埋め込まれた目を縁取るのは長い睫毛。すっと通った鼻梁は少し鋭い印象を与えるけれど、まるで作り物のように美しい。


 特別面食いだという自覚はないが、男に絡まれて困っていたところを助けてくれた人が美青年だなんて、ときめくしかない。ちょっと喋り方が特徴的な人だけれど。


「おいどうした。恐怖で身が竦んで動けぬのか」

「あ、いえいえ。私は大丈夫です。それよりもあの、助けてくださってありがとうございます。私、マルツィアと言います。ヴィスアニ家という家の出身でして」

「知っている」


 ヴィスアニ家は火の魔術の名門だ。そして悲しいかな、名家にはお約束のスキャンダルにも事欠かない。落ちこぼれ令嬢が使い魔と契約できず、都市伝説を体現したことも、ばっちりゴシップ新聞に載っていた。


 とにかく、ハルーンと本土を繋ぐ船の乗客ならば、マルツィアのことやヴィスアニの家名を知っていても不思議ではない。マルツィアは、そうですよねと頷いた。


「火のヴィスアニ、そりゃご存じですよね」

「ヴィスアニ?」

「それはそうとさっきの商人さん、神様の奇跡を騙ろうとするなんて、不敬ですよね。あの、あなたは聖職者の方なんですか?」


 服装や容貌にはむしろ貴族感があるものの、言動からは神への忠実さが垣間見えたのだ。だから、半ば確信を持って訊ねてみたのだが。


「聖職者? いいや、私は神だ」


 この人の方が不敬だった!

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