4 船上の愉快なみなさん①

 清々しい海風。燦燦さんさんと降りそそぐ陽光。煌めく宝石のようなエメラルドグリーンの浅瀬!


 なんて素敵な旅立ちだろう。マルツィアは気分上々。この分ならば束の間の船旅を楽しめると思った。楽しみたかった。そう、楽しみたかっのだ。あいにく、人生ままならないものである。


(え、何? あの人、ずっとこっちを見てる? いいえ、私のことなんかに興味ないよね。じゃあ気のせい? え、でも)


 マルツィアは、甲板の手すりに手を突き海を眺めるふりをしつつ、背後に意識を向けてだらだらと汗をかく。


 眼球だけ動かして後ろを見れば、帆柱の陰からマルツィアの方へじっとりとした視線を向ける男の姿があった。


 上質なジャケットを羽織っているので、船員ではなく乗客なのだろう。艶やかな黒髪が、風を受けてさらさらと揺れている。怖いので直視できていないため、それ以上のことはわからない。だって、振り向いた途端にばっちり目が合ってしまったら、これぞ好機と近づいて来るかもしれないではないか。


(どうしよう。確かめる? 確かめるしかないよね。よし、とりあえず動くのよマルツィア。ええええい!)


 意を決して勢い良く首を後ろに向けたのだけれど、なんと帆柱の陰には誰もいなくなっていた。マルツィアは拍子抜けしつつも、ほっと息を吐く。


 もしかすると彼は、マルツィアではなくその先にある海面に目を奪われていたのだろうか。そして、さすがに見飽きて客室に戻って行ったのだ。そうだ、きっとそうに違いない。


 昔から「気弱なのか度胸があるのかわからない」と評されてきたマルツィア。その性格形成にはきっと、唯一の家族である父の愛を求めても満たされたことのなかった幼少期の経験が影響している。何事も執着してしまえば、期待が外れた時に強く苦しむことになる。それならば、最初から深刻に考えすぎない方が良い。そうして生まれた楽観人間マルツィア。座右の銘は「まあ、良いか」だ。


 勘違いだと思い始めたら、不審者に見つめられているのではないかという不安は急速に衰えて、爽やかな気分が戻ってきた。


「ううーん、良い風」


 両腕を天へと伸ばし、大きく伸びをする。本土までは約半日の航海だ。自意識過剰に勘違いなどしていないで、せっかくなのだから楽しまねば。


 マルツィアの新たな人生への旅立ちを祝福するように、空は晴れ渡り、地平線のきわまで青々と……青々?


「って、ええっ!?」

「やあ、お嬢さん。一人? 本土の人?」


 不意に声をかけられて、びくりと肩を震わせ振り返る。そこにいたのは、黒髪ではなく金髪の男だった。人好きのする笑みが印象的な好青年だ。


 悪い人ではなさそう。マルツィアは強張っていた全身の力を抜いて、朗らかに答える。


「あ、いいえ。私はハルーン生まれです。この度、本土に移住することになりまして」

「移住?」


 青年は大仰に眉を上げて驚きを表した後、ふっと笑みを浮かべた。少し馬鹿にしたような表情に見えたのは気のせいだろうか。


「ああ、じゃあ君が噂のヴィスアニ家のご令嬢か」

「噂?」

「いやいや、お気になさらず。あ、申し遅れました。僕はパオロ。本来、本土人は出入りできないはずの魔術都市ハルーンとの商取引を許された、超名門商会の次期社長なのさ」

「へえ、社長令息さんってことですよね。すごいですねえ」

「だろう? そうだ、君はハルーンを追放されたんだろ。どうだい、僕が本土で面倒を見てあげよう。そうすれば君も僕と一緒にいつでも里帰りができる。……ふふふ、出来損ないとはいえこの娘は名家の娘。ならば、縁を繋いでおいて損はない。まずは僕の煌びやかな魅力で愛人にでもして、それで、ぶつぶつ……」

「あの、心の声が漏れていますよ?」


 前言撤回。悪い人だ。マルツィアは引きつった笑みを顔に張り付かせつつ、さり気なく一歩引く。パオロは気にした様子もなく、一歩距離を詰めた。


「とにかく、あちらで一緒に紅茶でもどうですか? あ、この小汚い船にはティーセットなんてないのかな。しかたない。商品の茶器を一つ開けようじゃないか」

「あーいえいえ、せっかくの商品をダメにしてしまうのはもったいないですからどうかお気になさらず。あと、私はお父様にあまり好かれていないので、身代金とかは取れませんよ」

「身代金? ははは。君、面白いね。さあ、どうぞこちらへ」


 紳士然とした自然な所作で背中に手を添えられた。軽く抱き寄せられ船室へと促される。まさか大衆の面前でひどい目に遭わされることはないだろうけれど、このお坊ちゃんに好感は持てない。マルツィアは身をよじりパオロの腕から抜け出した。


「ごめんなさい。私、お茶は飲まないんですよ。お水最高勢なので」

「ああ、それならちょうど良い。先日、新大陸の古代神殿に湧く不老長寿の水を手に入れてね。貴重な商品だけど、君にならば一口くらい分けてあげても」

「何ですかその水。すごすぎて怖いです」

「遠慮はいらない。さあ、君の永遠の美しさに乾杯」


 会話が噛み合わない。マルツィアはぞぞぞと粟立った肌をさすり、触れようと伸ばされたパオロの腕を、宙を舞う蝶のように身を翻して避けた。捕えようとする者と逃げようとする者。まるで踊るような足取りで迫り後ずさる。両者とも表情だけはにこやかだが、徐々に苛立ちを纏い始めている。


「何やってんだあれ?」


 離れた場所で仕事に精を出していた乗組員が、怪訝そうな目を向けてくる。その横を、突如として黒い影が横切った。


 それは、まるで風のように颯爽と現れて、甲板の端で謎の戯れを繰り広げる男女の間に割り込みパオロの腕をがっしり掴む。


「な、君は、誰」

「そなたこそ何者だ」

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