8 お迎えが来ました①

「マルツィア、マルツィア。おい、目を覚ますのだ」


 軽く身体を揺すられて、マルツィアは薄らと目を開く。


 ぼんやりとした細い視界の中に、端麗たんれいな青年の顔が浮かぶ。マルツィアはなぜか、途轍もない寂寞せきばくを覚え、胸の奥をぎゅっと握りしめられたかのような息苦しさを感じた。


 青年は痛ましげに眉間に皺を寄せ、長い指でマルツィアの頬を拭った。頬がひんやりとして、自分が涙を流していたことに気づいて動揺する。


「あ、あれ。すみません、私どうしたんでしょう」

うなされていたぞ。悪い夢でも見ていたのか」

「ああ、そういえば何だか、悲しい夢を見ていた気がするんですが、あんまり覚えていなくて」


 何度か瞬きをするうちに青年の輪郭が鮮明になり、状況を理解する。マルツィアは、砂浜に座るミネの腿の上にいて、彼に抱かれるようにして背中を支えられていた。そのため、綺麗な顔が大変近い。冷静に考えれば恥ずかしい体勢なのだが、マルツィアの全身はむしろ、安心感に満たされている。


 ミネはマルツィアの頬を撫でて言った。


「前世の記憶が断片的に蘇ったのだろう。哀れな」

「前世?」

「そなたがそなたになる前の人生のことだ」


 いったいどういうことだろう。マルツィアは少し考えてから、恐ろしい可能性が脳裏をよぎり、ミネの腿に片腕を突いて上体を起こした。


「え、もしかして私死んじゃいました? ここは天国?」

「うん?」

「はい?」


 鼻先がこすれそうなほどの距離に、怪訝そうな表情をしたミネの顔がある。互いに、会話にどこか噛み合わないものを感じつつも、ミネは少し身体を離し、マルツィアを起こして座らせて、背後から抱えるようにした。


「まあとにかく、その夢は私との記憶の断片だろう。そなたは以前から私に仕えてきたのだ」

「前にお会いしたことがありました?」

「もう何百年も共に過ごしたぞ」

「え、百って。あはは、何言ってるんですか」

「しかしマルツィア。前世のことを覚えていないそなたが、これほどまでに私を慕ってくれていたとはな。全ては、魂に刻まれた記憶の賜物ということか」

「へ? 何のことです」

「背中の入れ墨」


 背を軽く撫でられて目を向ければ、上衣の肩甲骨辺りが盛大に破れており、忌まわしい蛇の刻印が覗いていた。マルツィアはぶるりと身震いをする。


「あ、これですか。封魔ふうまの刻印といって、使い魔を得られなかった人がハルーンを出る時に刻まれるものなんです。本土では魔術は禁止されているので。あれ、そういえばミネさんは」

「……清純なそなたが肌に私を刻むなど、案外激しいところもあるのだな、うむ、ならばその思いにはしかと応えてやらねば……ぶつぶつ……」

「あの、聞いてますか?」

「うん? 何だ」

「いいえ、もう良いです。それよりも、ミネさんは何者ですか。さっき火の魔術を使っていたように見えたんですが、ハルーンの出身ですか?」

「いいや、私は遥か東の島国からやって来た」

「東方の方ですか」


 ミネは答えず、マルツィアの肩に後ろから顔を埋める。


「え、ちょっと」


 さらりとした黒髪の先が首筋を撫で、全身が沸騰したように熱くなった。美形とはいえほとんど知らない男性に変態すれすれのことをされても、どうしたことか嫌悪は抱かない。もしやミネとは本当に旧知の仲だったのだろうか。


「すーはー、すーはー。やはりそなたの匂いは落ち着く。いつも変わらぬ甘くて清らかな」

「やめてくださいっ!」


 本気の変態か! と飛び出しかけた言葉は、ミネの深刻な口調のおかげで呑み込んだ。

 

「とにかく、やっと見つけたのだから、もう離さぬぞ。そなたが島国を出て遠方へ旅立った時から、もう何年世界中を彷徨ったことか」


 熱い吐息が耳にかかる。


「いつの世も、そなたを探して地の底、天の果て、海の中まで行った。そなたの魂が宿っているならば、人ではなく牛でも魚でも何でも良いと思った。現に二つ前の生ではそなたは蟻だった。私も蟻になり短い蟻生ありせいを共に過ごしたが、なにぶん彼らの命は人よりもさらに短い。その後、時は過ぎ、今世でもやっと出会うことができた。それなのに、いきなり船が転覆して、それきりそなたが目覚めぬものだから、まさかこれほどの短期間で次の生に向かってしまったのかと深い絶望を……」

「え、転覆!」


 マルツィアは思わず振り返り声を上げた。


「船員の皆さんや、ついでに悪徳っぽい商人のパオロさんは無事ですか」

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