第31話「聖樹」

 聖樹ガ=テッリテ。木の国の結界外にて根を下ろす、世界最大級の樹木だ。樹齢千年を越えているであろうそれそのものが特別な魔法の役割を果たしていて、本来の群生地、季節や気候に関係なく、多種多様な木々、草花があちこちに見受けられる。

 また、この周辺で魔物の出現報告が上がっていないことから、冥王の瘴気に対する抵抗力を宿しているのではないかと推測されている────というのが、フランから聞いた説明だった。


「ハクでも、知らないことってあるんだね」


 そう。大抵の知識を備えているはずのハクだが、彼は聖樹についての情報を一切有していなかったのだ。


「当然だよ。さすがに、なんでも知っているわけじゃない」


 レマイオから脳に直接知識を送り込まれたとは言え、この世界について網羅できているわけではない。

 脳が一度に記憶できる情報量の限界。歳に見合わない知識を宿していることによる、周囲からの疑いに対する懸念。そして、知られては困る情報の存在。様々な理由の下、レマイオ自身の意思によって授ける知識を制限したのだろう。


「特別、植物に興味があるわけじゃないけど、こうして見るとなかなかいい眺めね」


 フィーマが周囲の景色をぐるりと見回し、微笑みながらそう呟く。

 番人ルスタと別れた後、早めの昼食を済ませた一行は、現在、件の聖樹周辺に足を運んでいた。

 天にも届きそうな程に高く幹を伸ばす、一本の樹木。あれこそが、聖樹なのだろう。それを囲むようにして形成された森林の中に、三人はいた。


「でしょでしょ! ずっと前から、来たいと思ってたんだ!」


 目を輝かせながら、忙しなく動き回るフラン。大袈裟な反応だが、別段おかしなことではないかと、ハクは一人納得する。

 世界中の花を、自身の眼で見たい。彼女が旅に同行したいと願った元々の理由は、それだ。途中でこの旅の本来の目的を知り、共に使命を果たそうと強く意識したためか、ここしばらく彼女からそれらしき発言はなかったが、今も尚、抱いている願いに変わりはないのだろう。


(…… 喜んでるなら、良かった)


 フランを自身の旅に巻き込んでしまったことを、ハクは今でも申し訳なく思っている。だからこそ、彼女が今までにない笑顔を見せてくれたことが、嬉しく感じられた。

 せめて今だけは、何者にも邪魔されることなく、穏やかな一時を過ごしたい。花々に囲まれる彼女を見ながら、そう願った。


「これはこれは皆様お揃いで」


 どこからか発された、声。初めて聞くそれに、三人の視線が一斉に向けられた。


「まあワタクシ皆様のことを見るのも聞くのも初めてなのですが」


 なんの気配もなく現れたその男は、丈の長い背広を風にはためかせながら空中を揺蕩っている。

 重力を無視した動き。なんらかの魔法を行使しているのだろう。


「…… 貴方は?」


「そう警戒なさらないでください。ワタクシはただ皆様を歓迎したいだけなのです」


 満面の笑みでそう告げてくるが、三人の警戒が緩むはずもない。目の前の男は、ただならぬ雰囲気を纏っていた。

 否。何も、感じられなかったのだ。魔力反応も、気配も。人間が感知できるはずの何もかもが、その男には存在しなかった。

 目が、耳が、男の存在を認めているが、第六感がそれを否定する。


「おやおや逆効果でしたか。ですが確かにこの状況で『歓迎』と告げられても邪推してしまうでしょうねえ。ワタクシ一生の不覚でございますですはい」


 紳士帽の鍔をくいと持ち上げる男。言葉とは対照的に、未だ気味の悪い笑みを浮かべ続けている。


「失礼失礼。自己紹介が済んでおりませんでしたね」


 音もなく着地すると、男は帽子を外してから一礼した。


「ワタクシの名はセメ。聖樹ガ=テッリテ周辺の管理および案内をしております。以後お見知りおきを」


 その言葉を受け、ハクがフランに視線を送る。彼女はそこからしばし考え込んでいたが、やがて何か思い出したかのように目を見開いた。


「噂だけど、この辺りを案内してくれる人がいるって、聞いたことあるよ」


「噂、か……」


 文献等に残された情報でなければ、信用することは難しい。怪しまれないよう、セメと名乗った男自身が吹聴したものとも考えられるからだ。

 何か仕掛けられる前に、この場を離れるべきか。その考えは、直後に状況が変化したことで霧散した。


(なんだ……?)


 ぞろぞろと、動物たちが集まり始める。

 鹿、馬、リス、小鳥、蝶────数は数十匹といったところ。ここを訪れた直後からもその姿は見受けられていたが、それらを累計してもここまでの数には至らない。


(…… 来るか?)


 魔物のような、闇属性の魔力は感じられなかった。

 だが、油断はできない。目の前にいる男と同じように、ただ感知できないだけという可能性があるからだ。


「それでは一期一会の重奏が紡ぐ旋律をお楽しみください」


 再び帽子を被ったセメが両腕を上げたことで、一斉に動きを見せる動物たち。

 それを見て、交戦の合図だと判断した三人は武器を構える。だが、数秒程経過しても相手から攻撃を仕掛けられることはなかった。


「これは……」


 動物たちが鳴き声を上げ、自らの体の部位を使って音を立てる。それらの音色は互いに混じり合い、支え合い、補い合って旋律を奏で始めた。


(魔法では、なさそうだな……)


 音を利用した魔法は、確かに存在する。だが、今聴こえているそれはただの音でしかないようだ。聴き続けていてもなんら悪影響を及ぼされていないことが、そう証明している。


「ではここでワタクシの独唱として注意事項の説明を」


 再び体を浮かせ、自由に飛び回るセメ。数匹の動物たちと触れ合ってから、その独唱とやらを始めた。


「ご存知のとおり聖樹周辺には様々な動植物が存在します。本来の生息域であっても珍しいような生物までもがこの地では容易に発見できるでしょう」


 ですが、と続いた瞬間、逆さまになったセメの顔がハクの眼前に現れる。

 当然驚いたが、直後に姿が消えたことによる新たな驚きに相殺され、落ち着きを取り戻した。


「どうかこの場所から持ち出すようなことは致しませんようお願い申し上げます。かの者も言っていました。『在るべき場所に在るからこそ、万物は儚く、美しいのだ』と」


「もし持ち出したらどうなるの?」


 三人全員が思い浮かべたであろう疑問を、フィーマが口に出す。このような状況でも、彼は大して驚いていないようだった。


「そうなれば皆様には聖樹の呪いが降りかかることでしょう」


 呪い。聖なる樹木とは程遠い表現だ。

 変わらず陽気な声色で告げられたが、不思議とただの脅しではないように感じられた。禁じられた行為を働く理由はないため、気にすることでもないが。


「それともう一つ。動植物を故意に傷つけるようなこともなさらないでください」


 そう述べた直後、セメはある一本の木に拳を叩きつけた。

 人並み程度の威力しかないためか、その木には傷一つついていない。

 それでも、この場で定められた規則を破った扱いになったのだろう。彼の腕は突然捩れたかと思うと、そのまま圧縮され続けて弾け飛んだ。


「ひっ……」


 フランが声を漏らす。美しい景色が広がるこの場所で、このような惨状を目の当たりにするとは思っていなかったのだろう。


「驚かせてしまい申し訳ございません。ですが心配は無用です。見せしめのためだと聖樹もわかっておられますからね。そのためこのように本来の恩恵を賜れるわけですはい」


 その言葉の後、撒き散らされた血液が彼の傷口へと戻っていく。地面や植物を染めていた赤色が全て宿主に吸収されると、失ったはずの腕が再生された。衣服までもが、元通りになっている。


(これが、恩恵……)


 そして、呪い。

 自然が奏でる音楽に耳を傾ける余裕もなく、ハクはごくりと唾を飲み込んだ。


「さてさて。我ら聖樹の音楽隊による演奏もそろそろ幕引きとさせていただきましょう」


 動物の姿が、一つ、また一つと次々に消えていく。

 自らの足で去っていったわけではない。転移魔法を使われたかのように、一瞬で消滅していた。


「優しき心根の来訪者を我々は歓迎します。過度に恐れることなくこの地を楽しんでいただければ幸いです。それでは」


 そう告げると、最後まで残っていたセメも姿を消す。結果、奏でられていた音楽も終了し、彼が現れる前の状況へと回帰した。


「なんだったのかしらね」


「さあ…… あまり滞在するべきではないと思うけど」


 ただ見物しているだけならば、セメの言う呪いを受けることもないだろう。だが、相手が何も企んでいないという保障はない。

 それでも、フランの意思を確認しなければならないと思い、ハクは彼女に視線を向ける。


「…… 私は、もう少し、ここを見て回りたい」


 不意に見せつけられた衝撃的な光景に対し、今も体を震わせているようだったが、出てきた言葉は正反対のものだった。


「不思議な感じの人だったけど…… セメさんが悪い人には見えなくて。それに、動物も植物も、私たちを歓迎してくれてるように思えるから」


「…… そっか」


 やはりハクには、出会ったばかりの相手に信頼を置くことはできない。

 だが、仲間であるフランの言葉なら信用できる。自分とは異なる印象を抱いたらしい彼女のことを、彼は信じることにした。


「なら、もう少しだけ見ていこうか。でも、危険だと思ったらすぐに脱出しよう。二人とも、離れすぎないようにね」


「了解」


「…… ありがとう」


 顔を見合わせてから、三人は歩き出す。

 フランとフィーマの二人は景色に目を向けているようだったが、ハクだけは先程セメから告げられた言葉に意識を引っ張られていた。


『在るべき場所に在るからこそ、万物は儚く、美しいのだ』


 誰かから聞いたらしいその言葉が、ハクの心を締めつける。

 別の世界から来たであろう自分は今、『在るべき場所』にはいない。たとえ、冥王の瘴気を祓うという使命を背負っているとしても、この世界にいることは間違っているのではないかと、そう思わされていた。


(…… これしきのことで揺さぶられるなんて、僕もまだまだってことかな)


 そう自分に言い聞かせるが、気分は晴れない。

 そこから日暮れ前になるまで、今の自分を否定されたように感じたハクの心に、周囲の景色を楽しめるような余裕は生まれなかった。

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