第2話「異端」
老人に拾われてから、早二週間。少年は、与えられた自室で読書に耽っていた。
老人の指導が的確だからか、それとも少年の物覚えが良かったからかはわからないが、この世界での彼の言語能力は既に読み書きには困らない域まで達している。
そんな彼でも、未だ理解できない単語があった。
魔力、魔法、魔物────記憶喪失のせいかもしれないが、実在するとは信じ難いものだ。
お伽噺なら、そういったお約束として流すことができるが、少年が読んでいるのは歴史書や学術書といったもの。虚偽や行き過ぎた誇張表現があるとも思い難い。
本当に、魔力とやらが存在するのだろうか。老人に尋ねるべく彼が立ち上がろうとした瞬間、それを見計らったかのように部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
返事から程なくして、扉が開かれる。この部屋に訪れる者など、少年の他には一人しかいない。
「調子はどうじゃ?」
灰色のローブを着た老人。少年を拾い、部屋を与え、言語の習得にまで付き合ってくれた恩人だ。
「ええ、おかげさまで」
栄養ある食事に、充分な睡眠。大きな怪我をしていたわけでもないため、少年は心身ともに健康な状態を取り戻していた。
「何か、ご用ですか?」
「うむ。お主も、こちらの言語にだいぶ慣れてきたじゃろう。そろそろ、するべき話をしようと思ってのう」
「わかりました」
二人は未だ、互いのことについて深くは知らない。今の今まで老人が少年の出自を尋ねなかったのは、拙い言語から誤った情報を得ないようにという考えがあったためだろう。
「ではすまんが、応接室まで来てくれんか。茶を淹れたのでな。それを飲みながら、ゆっくりと進めることにしよう」
「ありがとうございます」
老人の後に続いて、少年も部屋を出る。廊下をしばし歩いてから彼らが足を踏み入れたのは、目覚めてすぐにも訪れた、目に悪そうなあの空間だった。
部屋の奥の方に置かれた机。二人はそれを挟むように、向かい合って座った。
「まずは、自己紹介といこうかのう」
老人は机の上のカップを手に取り、中身の紅茶を啜ってから再び話し始める。
「わしの名はレマイオ。しがない魔導士の一人じゃ」
(まどうし……?)
乱読していた本のどれかに記されていたような気もするが、少年は思い出せなかった。言葉の意味が気になりはしたものの、話の腰を折らぬよう後回しにする。
「さて、お主の名を教えてくれんか」
「…… わかりません。記憶がないもので」
僅かに揺れる紅茶の液面を見つめながら、少年は続けた。
「自分の名前も、過去も。貴方に拾われたであろうことは推測できますが…… その直前に何があったのかも、よく覚えていなくて」
「記憶喪失、か……」
顔を上げる少年。その瞳には、困ったような表情を浮かべるレマイオが映っていた。
「教えてください。僕はいったい、どこでどのようにしているところを、貴方に拾われたのですか」
「そうは言ってものう…… わしは、家の周辺で倒れていたお主をたまたま見つけただけじゃ。お主の素性に繋がるような手掛かりは、何も見受けられんかった」
「そう、ですか……」
「じゃが、二週間程経過してわかったことがある」
少年は再び俯きかけたが、レマイオの言葉が続いたことで首の角度をなんとか持ち直す。
「お主が使っていた言語じゃが…… どうも、この世界には存在しないもののようじゃ」
「それは、どういう……」
「扱う者が極端に少ないわけでも、遠い過去に使われていたものというわけでもない。この世界で、お主一人しか知らない言語ということじゃよ」
丁寧に説明されても、受け入れ難い。
使い慣れていたであろう言語が、自分以外の誰にも通じないなんてことがあるのかと、疑念を抱かずにはいられなかった。
「そんなことが、あり得るのですか」
「にわかには信じ難いが…… どの文献にも、該当するものは記されていないからのう。そう考えるしかなかろうて」
ここから考えられる可能性は二つ。
一つは、少年が誰にも通じない言語を構築し、一人で日常的に扱っていた変人だった、というもの。
そして、もう一つは。
「つまり…… 僕は、この世界の人間ではない、と?」
「的外れな仮説ではないと思うがのう」
これもまた信じ難い可能性だと少年には思えていたが、レマイオは全く逆の考えを抱いていたらしい。その理由を知るべく、彼は耳を傾け続ける。
「お主、魔力や魔法といったものに馴染みはあるか?」
「いえ…… 棚の本に記述されているのを目にした程度です。詳細は何も」
「やはり、そうか」
一人納得した様子のレマイオ。
訝しむような表情を浮かべながらも、少年は続く言葉を待った。
「魔力とは、大気中や生物の体内に存在する、不思議な力のことじゃ。魔法は、魔力によって引き起こされる現象じゃな」
まさか、そんなものが本当に存在しているとは。信じ難いことの連続だが、少年はひとまず言葉を飲み込む。
目の前の人物が、意味のない嘘や冗談を言うとは思えなかったからだ。反論するにしても、全て聞いてからでも遅くはないだろうと判断し、必要な情報を得ることにした。
「生物の…… であれば、人も、その魔力とやらを宿しているということですか?」
「そのとおりじゃ。基本的に、全ての人間が生まれつき魔力をその身に宿しておる。じゃが、お主からは、お主由来の魔力を全く感じられん」
「そう、なのですか?」
魔力の有無など、自分ではわからない。口ぶりからしてレマイオには宿っているのだろうが、それも少年には感じ取れなかった。
「魔力を宿さない人間が生まれることも稀にあるようじゃが…… お主の場合は、魔力が存在しない他の世界から来たため、と考えるのが妥当じゃろう」
筋は通っている。この仮説を否定できる理由は、今のところ見当たらない。ただ、憂慮すべきことが、一つ。
「もしその仮説が正しいとしたら、僕はどうすれば……」
「ふうむ…… 別世界への移動どころか、そもそも観測することすらできてはいないからのう…… 元の世界に帰るのは、難しいじゃろうな。この世界で記憶の手掛かりを探すことも、同様じゃろう」
不思議な力と言えど、何もかもを思いどおりにできる程、万能なものではないらしい。自力で調査するにしても、そもそもの原因がわからないのでは困難を極めるだろう。
自分は何をするべきなのか、少年には答えが出せなかった。
「…… お主の方にも当てがないのであれば、一つ、頼まれてはくれんか?」
「僕で良ければ、なんなりと」
思い悩みながらも、少年は問いかけに即答する。
理由は一つ。レマイオに恩義を感じていたためだ。その人物からの頼みを断ることなど、できはしなかった。
否。力になりたかった、と言うべきだろう。
「内容を聞く前に受け入れるでない…… わしが『死ね』と言ったらどうするんじゃ?」
「そのようなことを仰る方ではないでしょう」
微笑とともに返すと、少年もカップを手に取って中身の紅茶を口内へと流し込んだ。それから、音を立てないようそっと机に戻す。
「…… 出会ったばかりのわしに信頼を寄せてくれるのは嬉しいが、今から頼もうとしているそれは、お主の身を危険に晒すようなものじゃ。よく聞き、よく考えてから決断してほしい」
「わかりました」
少年が頷くと、レマイオは咳払いをした後に再び口を開いた。
「まず、この世界には、『冥王の瘴気』というものが蔓延している」
「冥王の…… 瘴気?」
「動物を暴走させる効能がある、危険な存在…… と言ったところかのう」
名称からして、『冥王』という存在もいるのだろうか。そう推測したものの、少年が口に出すことはなかった。
「人々を守るための結界が居住圏に張り巡らされておるから、被害は抑えられておるが…… それも、いつまで持つかわからん。一刻も早く、瘴気を祓わなければならない」
「その役目を僕に、というわけですか…… ですが、そんなものを僕にどうこうできるのですか?」
「むしろ、お主にしかできないとわしは踏んでおる」
その言葉の後、レマイオが初めて見せた鋭い眼差しに、少年は射抜かれる。
「お主には、特別な魔力が流れておるからのう」
「…… 先程、僕には魔力が流れていないと仰っていませんでしたか?」
「お主由来のは、な。その代わりかどうかはわからんが…… お主には、第三者から直接与えられたであろう魔力が宿っておる」
それを受けて少年は今一度全身の感覚を研ぎ澄ましたが、やはり、魔力らしき存在の感知はできなかった。半信半疑ながらも、彼はレマイオの説明を待つ。
「光属性の魔力…… それも、かつて『英雄』と呼ばれた者のそれと、全く同じものがな」
(属性、英雄……?)
またしても、知らない単語。詳細を尋ねたい気持ちもあったが、少年はなんとかそれを飲み込んだ。気にするべき点は他にあると考えたからだ。
「それがあれば、瘴気とやらを祓うことができるのですか?」
「…… 確証はない。じゃが、それに縋るより他に、策がないんじゃよ」
レマイオが視線を落とす。自身の髭を揉むように撫でながら、気まずそうに続きを話し始めた。
「瘴気の発生源と思われる場所に調査団が派遣されたことが、過去に何度かあったが…… 一組どころか、ただの一人も生還することはなかった」
「それは、いつ頃から……」
「数百年以上前からじゃな」
そう聞いた直後、少年は絶句する。
せいぜい数十年程度だろうと考えていたが、甘かった。彼の予想以上に、冥王の瘴気とやらは猛威を振るっているらしい。
「瘴気に当てられて暴走したのか、それとも、何かしらの脅威に襲われたのか…… 詳細は不明じゃが、少なくとも、腕っ節に自信があったり、魔法に精通していたりするだけの、『普通』の範疇を超えられない人間には、どうすることもできんのじゃろう」
「それで、僕、というわけですか……」
どう特別なのかはわからないが、レマイオが希望を抱けるだけの何かが、自身にあるらしいということは少年にも理解できた。
「無論、強要はせん。かの地に向かえば、命の保障などできんからのう。そもそも、お主の目的とは全く関係のないことじゃ。わしがとやかく言えることでも────」
「やりますよ」
レマイオの言葉に、少年は声を被せる。
「冥王の瘴気を祓うという使命、僕が果たしてみせましょう」
「…… 命を落とす危険があると、わかっておるのか?」
いつになく引き締まった表情で、レマイオが問いかけた。提案者こそ彼だが、子供を危険に晒すことには気乗りしないのだろう。
そんな心情がわかっているからこそ、少年は深く頷いた。
「そのつもりです」
「ならば、何故……」
「記憶を取り戻すこと。元の世界に帰ること。これらが叶いそうにないのなら、僕は僕にできることをしたい」
他人に成し得ないことなら。
それが、恩人の望みなら。
断る理由など、最早存在しなかった。
「魔力には意思が宿る、か……」
レマイオの呟きに、少年は首を傾げる。だが、その疑問が解消されることはなかった。
「わかった。この世界の命運、お主に託すことにしよう」
「お任せください」
「じゃが、一つ約束してほしい。お主の目的が達成できそうになった場合、迷わずそちらを優先するのじゃ」
「そんな、途中で投げ出すようなことは……」
「構わん。この世界が抱えている問題の解決を別世界の人間に頼むこと自体、おかしな話なのじゃからな。良いか、約束じゃぞ」
「…… わかりました」
食い下がっても埒が明かないだろう。そう判断し、少年は首を縦に振った。
「さて、冥王の瘴気を祓うにしても、今のままでは圧倒的に実力が足りん」
「そう、なのですか?」
「下手をすれば、発生源へ辿り着くまでに命を落としてしまうじゃろう」
それ程までに、この世界で生きるのは過酷ということか。
ごくり、と少年は唾を飲み込む。
「そこで、お主にはしばらく、わしの下で修行に励んでもらう」
「修行とは、どんな……」
「聞くより実践した方がわかりやすいじゃろう」
レマイオの腕が、少年の方へと伸ばされた。
年季の入った皮膚が織り成す、ごつごつとした感触。それが自身の頭頂部から伝わってきたと思った直後、突如発生した眩い輝きによって彼の視界は埋め尽くされてしまった。
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