クロと黒歴史:補完篇
ムツナツキ
第一章『ハクと黒歴史──壱──』
第1話「光の覚醒」
最後に覚えているのは、真っ白な光だった。
何も見えない。何も聞こえない。その輝き以外、何も感じることができない。
昼なのか、夜なのか。どこに行けばいいのか。それ以前に、ここはどこなのか。
自分は何者なのか。
わからない。
己の内に渦巻く絶望とは対照的な光の中を、少年はただひたすらに歩き続ける。何故そうしているのかすらも、わからないままに。
眩しいだけで、温かみのない光。いっそうんざりする程のそれだけが、唯一、自らの意識が明確に存在しているのだと実感させてくれた。
だが、やがてその光すら、次第に遠くなっていった意識とともに消失することとなる。
(────ここ、は)
次に少年が意識を取り戻したとき、またしても一面の白が彼の目に飛び込んできた。ただ、先程とは違い、左右に首を動かせばまた別の景色が広がっている。
どうやら、ベッドの上で眠っていたらしい。そう気づいた彼は上体を起こし、状況の整理を試みた。
今いるのは、ベッド一つしかない殺風景な部屋。見覚えどころか、そもそも自分でここまで辿り着いた覚えもなかった。
いや、更に言うならば。
(僕は…… 誰だ?)
どれだけ思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは眩い輝きだけ。自分の名前や出自を含め、ほぼ全ての過去が頭から抜け落ちてしまっている。随分と長い間、光の中を彷徨い続けていたような気がする、程度の記憶しか持ち合わせていなかった。
記憶喪失。混乱してもおかしくない状況に陥っているはずだが、不思議と冷静な思考を保つことができている。そう思い込むことで、彼は崩壊しそうな自らの心を繋ぎ止めていた。
「あ、あー……」
喉に手を当てながら、少年は枯れきった声を上げる。どれだけの間眠っていたのかはわからないが、かなり喉が乾燥しているらしい。唾液を分泌することすら、上手くできなかった。
考えるべきことは山程あるが、まずは水分補給をしなければ。彼は立ち上がって歩みを進め、たった一つしかない扉に手をかけた。
開いた先、正面には、壁。左右には通路が伸びていた。少年は直感的に右へと進み、その先にあった角を今度は左へと曲がる。大して疲労が残っていないのは、充分な休息が取れたためか。あるいは元からそこまで疲れていなかったということか。
「ここは……」
下方に見えたのは、棚の羅列。目当てのものがあるとは到底思えなかったが、少年は誘われるようにそこへと続く階段を下っていった。
「書庫、のような場所なのかな」
棚の中いっぱいに並べられているのは、本だ。人一人が人生で読み切ることはできない程の量が、この空間に存在している。
「…… 何か、手掛かりがあるかもしれない」
今、自身が置かれている状況について少しでもわかればと、一冊の本に手を伸ばそうとして────やめた。
背表紙に記されている文字が、読み取れなかったからだ。その一冊だけでなく、周辺の本は全て同じような文字が使用されていた。
これだけの蔵書数を誇っているのだ。少し探せば自分にも読めるものが見つかるだろうと、少年は他の棚も確認して回った。
だが、一向に見つからない。どの棚の、どの本も、彼が読めない文字によって綴られていた。
「どういうことだ……?」
一冊を手に取り、中身を確認する。やはり、背表紙同様の文字で埋め尽くされていて、解読することは叶わなそうだった。
文字を読む能力が失われている、とは考えづらい。今こうして独り言を呟けているということは、言語能力には異常がないはずだ。自身の言語を表す文字も、はっきりと脳内に浮かべられる。
更に言うなら、常用的に使っていたであろうものの他にも、いくつか思い浮かべることができていた。それらの読み書きが流暢にできそうにないのは、記憶喪失前に勉学に励んでいなかったことの表れか。
ともかく、一連の本に記されている文字は、見たことすらないと思えるものだった。
記憶喪失になっているため、自身の脳が役に立たないであろうことは重々承知しているが、それを抜きにしたとして、考えられる可能性は────そう思考を巡らせようとした瞬間、少年は振り返る。
背後から、人の気配を感じたためだ。
それは、気のせいではなかったらしい。先程まで誰もいなかったはずのそこには、いつの間にか一人の老人が立っていた。
(…… 誰だ?)
やはりと言うべきか、老人の姿は少年には見覚えがない。長く伸びた白髪と同色の髭が印象的だが、特筆すべきなのは、放たれる雰囲気だ。
ただそこに存在するだけで、この場の空気が一変している。何が起こっているのか少年は理解できていなかったが、目の前にいる老人が只者ではないということは感じられていた。
それでも彼が緊張を覚えなかったのは、相手が柔和な笑みを浮かべていたためだ。少なくとも、危害を加えてくる人物のそれとは、少年には思えなかった。
ならば、言葉を交わす余地はあるだろう。
自身の失った記憶について何か知っているかもしれないと思い声をかけようとしたが、相手の口が先に開いたことでそれを断念した。
否。言葉を飲み込んでしまった。
相手の言葉が、何一つ聞き取れなかったためだ。
なんらかの言葉が発されていることは理解できた。だが、その音の並びは聞いたこともないようなものだったのだ。
聞き逃しや、聞き間違いとも思えない。音自体ははっきりと耳に入ってきていた。
先程の件も含めて、考えられる一つの可能性。それを確かめるべく、少年はようやく口を開いた。
「僕をここまで連れてきてくださったのは、貴方ですか?」
そう言葉を紡ぐが、老人からは何も返ってこない。頭を指で掻くような仕草をしているあたり、恐らくは困っているのだろう。
その様子を見て、少年は確信を得る。
扱う言語が、根本から異なるのだ。そう考えれば、先程の本を全く解読できなかったことにも説明がつく。
老人はしばし考え込むようにして唸ってから、朗らかな表情で手招きをした後、振り返って歩き始めた。
ついてこい、と言いたいのだろう。身振り手振りで表現したということは、老人もまた、少年と同じ結論に至ったと考えられる。
(…… ここは)
本を手早く棚に戻し、階段を上ってから更に廊下を進んで辿り着いたのは、先程とは別の、これまた奇妙な部屋だった。
部屋に入ってまず抱いたのは、目に悪そうだという印象。
家具の色が統一されておらず、赤、青、黄、緑、紫────濃淡の違いを含めれば更に多くの色が、この部屋にひしめいている。そのせいで、そこまで狭くないはずの空間に余計な圧迫感が生まれていた。
そしてその中で異彩を放っているのが、少年をここまで連れてきた老人だ。
その老人は灰色のローブを身に纏っていた。また、肌がやけに色白で、不健康そうな見た目をしている。加えて、蓄えられた髭と白髪。
総じて、老人から放たれる色素の印象が薄い。まるで部屋中の家具という家具に、色を吸い取られてしまったかのようだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか老人が一冊の本を手にし、それを机の上に広げていた。
再び手招きをされたため、覗き込むようにして少年も本の方へと視線を向ける。
描かれていたのは、猫だ。老人はその絵を指差してから、なんらかの言葉を発した。それから、少年に視線を向ける。
(…… もしかして)
言葉こそ聞き取れなかったものの、その意図を読み取ることはできた。それが合っているか確かめるべく、彼もまた言葉を紡ぐ。
「ね、こ」
ゆっくりと、正確に、大きな声でそう発音した。
老人は何度か頷いた後、本のページを捲って次の絵を指し示す。それから、再び発音。
渇ききった喉では即座に反応することが難しく、数秒程の間を空けてから少年も続けた。
「つ、き」
老人は満足そうに頷いた後、またしても本のページを捲っていく。どうやら、この返答で間違いないらしい。
二人が始めたのは、互いの言語を習得するためのやり取りだ。情報を得るにも、言葉が通じなければ始まらない。勝手のわからないこの場所で、その問題を解決するための策が相手から提案されたことは、少年にとってかなりの幸運だったと言えるだろう。
何故、言語の異なる地域で目覚めたのか。そもそも、自らの出身地はどこで、現在地からどれだけ離れているのか。未だ不明なことは多いが、解決に向けて一歩踏み出すことができそうだ。
喉の渇きが気になりはしたものの、ひとまず意思疎通を図れるまでにはしておくべきかと思い、彼は気合いを入れて取り組むことにするのだった。
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