かえでがいない 前編

 季節の変わり目、テレビの中の名前も知らないニュースキャスターがそう話している。

 お父さんが気だるそうに耳を掻いた。


真冬まふゆさん、今日から梅雨入りで暫く雨みたいだ」

「そっかあ、嫌な時期ねぇ」

「頭痛薬まだあるかい?」

「大丈夫よ、ありがとうねぇ」

「あきも大丈夫かい? 傘とか、新しいの欲しかったら言うんだよ」

「大丈夫だよ、お父さん」


 物持ちはいい方だと自負している。同じビニール傘をずっと使っているぐらい。

 かれこれ五年ほど使っている。

 もしかしたら過去のわたしの髪の毛とかがどっかに挟まっているかもしれない。

 

「あき、風邪に気をつけてね。まあ言うだけ無駄かしら」

「あきが風邪をひいてるとこなんて見たことないんじゃないかな? むしろひかなすぎてちょっと心配だよ」

「ひいたことぐらい……あるよ。あれ、あるよね?」


 生まれてこの方、病院にお世話になったことがない。歯医者は除いてだけど。

 予防接種とか、そのぐらいで。

 丈夫な体で生んでくれたこととか、まあ色々感謝してる。

 わざわざそんな事言わないけれど。

 でもちょっと欲張るならもうちょっと身長が欲しかった。後2cm……いや4cmぐらい。


「あきのことなら心配はないだろうね。ただ、滑って転ばないように気をつけるんだよ。昔からどこかそそっかしい所があるからね」

「わかってるよ、行ってきます」


 テレビを見ているお父さんに手を振って玄関へ向かう。大きな姿見で身だしなみを確かめる。

 メイク……髪……スカート、全部よし。

 にーっと口の端を持ち上げて笑顔の練習を一つする。いつかは自然に笑いたい。かえでの前では上手くいかないから。

 そのまま玄関で靴を履いていると、お母さんから声をかけられた。

 お弁当を手に持って、からかうようにニマニマしている。


「あき、お弁当」

「あっ……忘れてた。ありがとう」

「あきはやっぱり性格はお父さん似ね。いつまでも可愛いまんま」

「……うるさいよぉ」


 少しの不服を唱える前に顔を摘まれる。

 んふふ、と少しざらついた手で頬をもちもちされた。家事をして荒れた、細いのに力強い母の手だ。

 ほのかに桃の香りがする。

 先月の母の日に送ったハンドクリーム、使ってくれているんだ。心の端がじんわり温まる。

 普段出てこないはるを連れて一緒に選んで買ったやつ。

 

「お母さん、手、まだざらついてる」

「そうかしら? 随分良くなったわよぉ、ありがとねぇ」


 ふふ、っと笑いながらわたしの頭をむしゃむしゃ撫でる。整えた髪が崩れていくけど、何か言うのも照れくさくて、黙って撫でられていた。


「最近可愛いねぇ、あき。もちろん、昔から可愛いけれど」

「……ありがと」


 それに、とお母さんが少し屈んで私と目を合わせて言う。


「気合入ってるわねぇ、もしかして……出来ちゃった?」

「ななな、なっ何が?!」

「あらあらぁ」


 普段から柔和な笑顔をした口が更に曲がって、ニヤニヤし出す。犯罪的な笑顔だ。


「機会があったら連れてきなさいねぇ、私の可愛いあきに寄り付く虫は、はらわなくっちゃね?」

「む、虫ではない…………」

「冗談よぉ、ほら行ってらっしゃい。遅刻しちゃう」

「あ、うん……行ってきます」


 お弁当をしっかりカバンに入れて、ようやく玄関のドアを開ける。外は雨がパラパラ降っていた。

 振り返って傘を取ろうとすると、既にお母さんが傘を持って微笑んでいる。


「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」


 うちのお母さんはエスパーなのだろうか。

 お母さんに隠し事を出来た試しがない。

 多分、わたしよりわたしに詳しい。

 ……そもそも自分の心を言語化するのが苦手なんだけれど。

 ただ珍しいことに、お母さんは一つ大きな勘違いをしてた。

 別に好きな人とか恋人が出来たわけじゃない。

 憧れの人が出来ただけだ。それにかえではそもそも女の子だし。

 わたしは初めてお母さんを出し抜いているのかもしれない。




「いない……」


 バスにかえでがいない。もちろん電車にもいない。寝坊だろうか。

 一本逃した……となると着くのはお昼休みぐらいかな。天気も相まって朝から憂鬱だ。


 かえでがいない学校はいつもより一層退屈。

 感情の大事な所を持ってかれたみたい。

 わたしの心はいつもごちゃごちゃしていて、多種多様な色に溢れている。嬉しい時は明るい色、落ち込んでいる時は暗い色、すごくシンプル。

 ……という訳でもなくて、心が喜一色だとしても、考えすぎると明るい色がどんどん混じっていって真っ黒になる。いつも余計に考えすぎてしまうから。

 でも、かえでと仲良くなってからは、心の真ん中に大きな白く輝く一本線が走っていて、そこに集中していれば心が曇ることは無かった。……あんまり。

 その大事な一本の主張が、輝きが、心許ない。


「あー……」

 

 こんなこと考えているうちに、また嫌な感じになってしまう。

 ――心が曇る。久々の感覚だった。


 別、別のことを考えよう。

 そう、かえでの真似の話だ。

 かえでの真似事は一応続いていて、授業を一応は真面目に聞いている。

 担任の先生も「いやあ、ちょっと心配してたんだけど、最近は調子良さそうで安心してるよ」とのこと。ついでに「沖野さんとも仲良くな」と。

 余計なお世話だよ。


 お昼になってもかえでは来ない。

 クラスのみんなは特に何も思っていないのか、かえでを気にする素振りはない。――かつてかえでと一緒にいた子達ですら。

 所詮、最初だけなのだろうか。四月、五月は白雪姫の話をよく聞いたものだけど。

 あの時とは違い、今はもうグループが固まってきているからかな。

 要するに気が合うもの同士が集まっているのだから、白雪姫なんてクラス共通の話題は品薄になりつつあるんだろう。そもそもだって寝てるだけだし。

 

 ……少し、複雑。かえでについて誰も興味が無いのはなんかムカつく。

 それとは逆に、かえでと一番仲がいい、なんて独占欲めいたものが満たされる感覚を否定できない。

 変な感じ。


 昼休み、保健室に顔を出そうとしたのだけれど、あいにく中は女の子で溢れていた。

 その中に入っていける勇気もなく、あえなく撤退。どうにかして話を聞きに行きたい。

 かえでがなんで来ないのか。

 担任に聞くのはなんかいや。

 あの人、口が軽そうだから、他の人に話しそうだし。例えば『伊藤さんは沖野さんの連絡先持ってないのかあ』とか。

 いや別に気にしてなんてないし。

 聞く機会がなかっただけだし。


 そうこうしている内に迎えた五時間目。

 優等生の振りは一旦やめだ、少し目立ってしまうけど、保健室に行くためには仕方がない。


「先生すみません。ちょっと体調悪いので、保健室で休んできます」


 白髪を短髪にした定年退職間近の先生。

 ちょうどわたし達が卒業するのと同時に迎えるらしい。あまり話したこともないし、授業も黙々と進めるタイプだから、詳しくは知らない。

 ただ、伊達に歳を重ねてるだけあって、物腰が柔らかく、クラスで地味な人気がある。


「あーうん、気をつけてね」


 呆気なく受諾されて、そそくさと教室から離れる。わたしの席は窓側の上から二番目。

 扉から地味に遠くて嫌になる。ちなみにかえでの席は隣の列の一番前。

 わたしからは一方的に見える位置だ。

 今日そこに彼女はいないけど。

 かえでは今、何してるんだろう。




 あとがき


 台風が来たと思えばその後に待ち受けていたのは圧倒的な湿気。

 たかだか三十度前後とはいえ、脅威の湿度80-90が支えるパワーは半端ではありません。

 もちろんエアコンなんてない我が家では家がサウナになっていました。

 そんな中、食あたりして吐き気にも襲われ、なんとも辛い二日間。

 まだ少し苦しいですが、頑張ります。

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