近すぎ

 携帯のアラームが鳴る数分前、自然と目が覚めて立ち上がる。

 アラームで起きるためにセットしているのに、わたしはアラームを止めるために起きている。

 身近にも相反している出来事は沢山なのだ。

 さすがに寝起きから考え込む体力はないけれど。

 

「はる、朝だよ」


 隣の部屋は妹が使っている。

 毎朝彼女に声をかけるのがわたしの習慣。

 朝に彼女の顔を見たのは随分前だけれど。

 と言うにも、妹は絶賛反抗期。いや反抗期とは少し違うか。

 中学二年生の多感な時期。

 あの子は所謂引きこもり状態で、夜中はともかく日が出ている時間に部屋から出てくることは珍しい。

 学校にも随分登校していない。わたしは別に行かなくてもいいと思ってるし、お父さんやお母さんも同じスタンスで彼女の意思を尊重してる。

 わたしみたいにはならないでほしいけど。

 当時のわたしは随分ひねくれていたから。


「……おはよ、お姉ちゃん」

「うん、おはよう」


 返事をしてくれれば、それでいい。

 何かあれば自分から出てきてくれるし、話してくれる。お部屋にもわたしは入れてくれるし。

 はるはただ考える時間が必要なだけだ。


 二階から一階に降りると朝ごはんの匂いがする。

 今日は何をつくってるんだろう。


「お母さん、おはよ。お父さんも」

「おはよぉあき」

「おはよう」


 お父さんはソファに座ってニュースを見ている。

 政治にうるさい人ではないけれど、時事ネタやブラックジョークが好きな人だ。わたしによく話を振ってくるけど、何を言ってるのか分からない。 


 キッチンで調理をしているのはお母さん。

 わたしよりも身長が高くって、茶色い髪を頭の上で団子にしてる。わたしの髪も親ゆずりの赤茶色。

 キリッとしてる立ち姿に反して中身はとてもふわふわしてる。

 お母さんに怒られたことは多分ない。

 一度だけ叱られたことはあるけれど。

 

「はるは?」


 テレビを見たままお父さんがわたしに尋ねる。

 いつも通りの朝のやり取り。


「んーん」 

「そうか……」

「朝ごはん、食べれるようになるといいけどねぇ」

「ね」


 簡単なやり取りの後、洗面台へ。

 ここで身支度を済ませてしまう。

 髪梳いたり、乾かしたり、お化粧したり。

 まあ色々。校則でお化粧は禁止されているけれど、誰もそんなこと気にしてない。

 先生も建前上、整容検査の時だけは緩めにな、とだけ言っている。こんな適当でいいのかな。

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃい、気をつけてね」


 我が家のルール、挨拶だけはちゃんとする。

 中学時代、唯一お母さんがわたしに叱ったこと。

 例え、喧嘩してようが外で嫌なことがあろうが、挨拶だけはしっかりしなさいと、叱られた。

 叱る、と言うよりは諭す様な感じだった気がする。

 穏やかな人なのに、その実この家では一番発言力がある。有無を言わせない頑固さは、今思えば中学時代のわたしに似ている、とお父さんが言っていた。お母さん似なのかな、わたし。


「あき」

「ん、なあにお母さん」


 呼び止められて振り返る。

 ニマニマとなんとも言えない顔をしたお母さんがわたしを見てる。


「やっぱなんでもないわぁ。あきもそういうお年頃かぁ」

「な、なんの話?」

「んーん。気をつけてね、いってらっしゃい」


 やっぱりお母さんは、変な人。何を考えているのかイマイチわからない。




 電車を乗り換えて、ようやく沖野さんに話しかけるチャンスができる。

 相変わらず、沖野さんはウトウトしながら長く黒い髪を指先で弄っている。青みがかった、そんな髪。手入れはやっぱりしていないのか、所々ボサボサだ。

 だけど、それ含めて何故か彼女に似合っている。

 アンニュイ感が実に彼女らしい。

 それに、やっぱり顔が良い。

 いつ見ても惚れ惚れするような美人さんだ。

 どんな格好してても似合うんだろうな。

 ファッションに興味はなさそうだけど。

 スカートだって膝下で、夏にもかかわらずタイツのまんま。暑くないのかな。


「おっおはよう、沖野さん」

「ん、おはよ伊藤さん」


 今までとは違う、この感じ。

 コミュニケーションを取れる喜びに、彼女がわたしの存在を認識しているこの事実。

 これが随分わたしを喜ばせてくれる。

 

「んーそういやさ、伊藤さん」

「ひゃい!」


 眠そうな目でこちらを見る沖野さん。 

 彼女に見つめられると、体が、顔の筋肉が上手く動かない。メデューサみたいな魔性の瞳。

 長い髪の隙間から大きな銀河が私を覗いてる。

 当の本人はそんなわたしを意に返さず、んふふ、と笑ったあと大きく欠伸をする。

 大きな欠伸を手で隠しながら、一つ息をついて口を開く。


「かえで、でいいよ。かえで」

「きゃ、きゃえづ!」

「そんなキャベツみたいな……」


 呆れたようにくすくす笑う。

 笑うとその瞳が横長に曲がり、少し頬が赤くなる。相変わらず口元は手で隠してしまうけど、その仕草が幼い外見に似合わず随分と色っぽい。


「ね、あき」

「あ、あき?」

「あれ、君の名前。伊藤あきさん……でしょ」

「うひゃい! 伊藤あきです!」

「大袈裟だねぇ」


 うひひ、と鈴が転がる音がする。

 妙に蠱惑的で、背筋に冷たいものが走る。

 彼女の大きな目が細まると今度は扇情的な雰囲気すら帯びはじめて。その笑顔から目が離せない。


「どうしたの? 私の顔ずっと見て。なんか変なものでも着いてたりする?」


 そう言うと彼女はわたしの方へ顔を突き出して、目を瞑る。

 まるでキスでも待っているみたいなその仕草。

 例えば無意識だとしても犯罪的だ。

 やめて、もう、おかしくなる。


「や、やめてっ」

「んや、ええ?」

「せ、セクハラ!」

「え」


 そう言うと一応は身を引いてくれる。その間にわたしは少し彼女から距離を置いて座り直す。

 最終的には元いた二倍ぐらいのスペースが出来る。そのそのスペースを見た沖野さんが絶句しつつ口を開く。


「な、なんで? わ、私……また変なこと言った、かな」


 途端に銀河が萎れて曇ってしまう。

 雨すら降ってきそうな雰囲気に、たじろいで。

 体感温度が一気に下がる。地雷を踏み抜いたような気配。

 さっきとは別に、また背中に冷たいものが走る。


「ち、違う! その、……あー……」

「ごめんね、伊藤さん」

「ち、ちち違うって! か、かえで!」 

「じゃあなんで……そんな露骨に避けるの」

「きょ、距離が近いからっ!」

「……えっ何、そんなこと……?」


 ギョッとした顔のかえでが目を開く。

 電車の中なのも忘れて、悶え苦しむ。


「か、かえでの顔は体に悪いっ……。いや違っ違う! ……あーもう……おかしくなる……!」

「……私、身だしなみ気にしてないから。お目汚しだった?」


 まずいまずいまずい。誤解が誤解を呼んでいる。

 

「か、可愛すぎるの!」

「は?」

「ちょちょっとダメ! 好きになる……」

「え、なんて?」

「なんでもない! あんまりわたしの方見ないで……おかしくなっちゃう」

「変なの」


 だけど、と続けて言う。


「面白い子。情緒不安定すぎるでしょ、あき」

  

 んふふふ、とかえでが笑い出す。

 口も隠さず、お腹を抱えて大笑いする。

 車掌さんがガラス越しにこっちを伺っていた。


「あー、ごめんなさい。ツボに入って」


 かえでが車掌さんの方になんでもないように手を振って、また笑い出す。

 勘違いが解けたのは言いけれど、わたし、もしかしてかなり変なことを言ってしまったのではないだろうか。


「あーあき。いいね、あきは」

 

 かえでが顔を紅くして「暑い暑い」とワイシャツのボタンを一つ外す。そのままだらけきった姿勢で体を伸ばして、手で首元を仰いでいる。

 ……その姿を何故か直視出来なかった。


「あ、これもダメ? これだけで?」


 水を得た魚のように、かえではわたしの反応に味をしめてしまったのか、今度は一気に距離を詰めてくる。

 肩と肩がぶつかるぐらいの距離まで近づいて、わたしはまだ端の方へと逃げていく。

 ついに追い詰められてしまって身動きが取れず、結局横に密着したまま固まってしまう。


「や、やめてっ」

「やめなーい」

「ゆ、許して、お願い……」


 うーん、そうだな。かえでがそう呟いて静かになる。ろくでもないこと考えてないだろうな。

 かえでから顔を背けているものの、柔らかい匂いが鼻をくすぐる。

 ふわふわした、甘い匂い。

 おかしくなる……! おかしくなるっ。

 なんなんだ、この感じ。


「仲良くなろうね、あき。ね、約束」

「ひゃ、ひゃい……」


 尻すぼみに返事をする。

 返事がかえでに届いていたかはわからない。

 自分でもわかるくらい、小さな声量。

 かえでの表情は見えなかったけれど、満足そうな笑い声が隣で鳴った。

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