第29話
何も口にしていないはずなのに、見透かしたように彼は笑う。
「私、口に出してた……?」
「いや、出してないよ?」
「それならどうして――」
「だって、君に足りないものは自分に対しての自信。自分を信じる力だもの」
そう……サラリと告げた。
分かっている。それが圧倒的に足りないことくらい。
けれど、どうしようもない。あんな小さな世界でさえ上手くいかない自分に、自信を持つことなんて出来るはずがない。
「僕の昔話をしようか」
落ち込む私を気遣ってなのか、彼は自分の過去を話し始めた。壮絶な過去を……
「僕ね、妹がいたんだ」
「妹さん……?」
「うん。もう何十年も前に亡くなって、今は天国にいるけど」
「あっ……」
私は思わず顔を伏せる。悪いことをしたわけではないのに、申し訳ない気持ちになってしまう。
「澪ちゃんがそんな顔をする必要ないよ。僕が話したくて勝手に話し始めただけだから」
「それはそう……だろうけど」
「澪ちゃんは優しいね」
何度彼にそう言ってもらえば私は気が済むのだろう。心地よく感じてしまう自分が気持ち悪い。
「あれは……僕が十歳で妹が七歳の時に起きたんだけどね……」
口調は穏やかだけど、とても苦しそうな顔をしていた。無理をしてまで話してほしくない。そう思う。けれど、彼は話すことを止めなかった。
「寒い、肌を刺激するほど寒い日に、僕と妹は捨てられた」
「えっ……」
「今でも覚えてる。その日の母はとても機嫌が良かった。怖いと思ってしまうほどに」
海凪さんが言うには、両親は離婚しており、父親は女を作ってどこかへ消え、母親と生活していたらしい。
「じゃあ、妹さんは御両親が離婚する前に産まれたの……?」
「いや、妹はその後に誕生したよ」
「え、それって――」
「うん。だから、僕と妹の間には血の繋がりがないんだ」
――中々重たいお話になってきた……人にペラペラ話せるような内容じゃない。私が聞いてしまっていいのだろうか……
「僕の母は父親と離婚した後、別の男と子供を作った。そこで産まれたのが僕の妹。母はいつも不機嫌だった。僕がいるから妹の父親が一緒になってくれないって」
「そんな言いがかり……」
「まあ、今なら一緒になれない理由を察せられるけど、当時の僕は何も分からない子どもだったから。ただ謝ることしか出来なかった。母が許してくれる日は来なかったけど」
私は何も言えなかった。ただその場に、海凪さんの声だけが谺する。
「僕に対して暴力は日常茶飯事だったけど、時々、憂さ晴らしをするかのように、妹のことも殴っていた」
今の海凪さんじゃない。まだ十歳の子どもだ。抵抗なんて出来ないだろう。
「幼い妹は、声を出して泣き噦ることしか出来なかった。そんな妹に母は手を上げた。僕は庇うことしか出来なかった」
「…………」
「妹は僕に巻き込まれたんだ。僕さえいなければ、殴られることはなかったと思う」
『黙れ。うるさい。泣くな。耳障りだから、黙って大人しくしていろ』
それが母親の口癖だったと、海凪さんは悲しそうに言葉を零した。
「母は妹に言った。『お前は一体誰に似て、そんなに泣き虫になったんだ? 本当にうるさい。迷惑だから静かにしていろ』ってさ。そう言って、妹に暴力を振るった。その行動が、妹の涙を作っているとも気付かずに」
海凪さんが小さく溜息を吐いた。当時のことを思い出しているかのように。
「僕たちを捨てたあの日、母は僕たちを車に乗せて出発した。その時の表情は、思い出したくないほどに笑顔だった」
ゆっくりとその瞳を閉じる。
「何時間その車の中にいたのか、もう覚えていない。それでも、当時の感情は何十年と経った今でさえ、嫌でも思い出せる」
「…………」
「――母の手から逃れられないと思う恐怖感。そして、母のことを信じたいと思う、縋る気持ち。この二つが僕のことを支配した」
縋ってしまったのがいけなかった。期待してしまったのがいけなかったと、海凪さんは呟いて拳を握りしめた。爪が食込み血が垂れる。それでも、海凪さんはそのままの状態で言葉を重ねた。
「あの時に逃げるという選択肢を選んでいれば、もっと別の未来が……妹と共に生きるという未来があったかもしれない」
「海凪さん……」
「僕が妹を殺したようなものだ」
「そんなこと……!」
「そんなことあるんだ」
力なく首を横に振る海凪さんに、私は何も言えなくなる。
「実はね、気付いていたんだ。母が何をしたいのか。どうして僕たちを車に乗せて、長距離の運転をしているのか。幼いながらに察してしまっていたんだ」
――それでも、信じたい自分がいた。だから気付いていたけれど、気付かないふりをした。何も知らない子どもを演じた。
結果的にそれがいけなかったと、海凪さんは言った。
「――車に揺られ暫く経った時、車がゆっくりと動きをとめた。母はシートベルトを外すと外へ出て……それから俺と妹が乗っている後ろのドアを勢いよく開けた」
海凪さんは一度そこで言葉をとめた。無理をしているのなら、止めさせようと思った。それでも、海凪さんがそれを許さなかった。
「大丈夫だよ、無責任に辞めたりなんてしないから」
「でも――」
「僕の心配をしてくれるなら、お話聞いてもらえると嬉しいな」
「――分かった」
幾ら私を慰めるためとはいえ、こんなに重い話を進んでしたくはなかっただろう。それでも続けるということは、彼の中に誰かに話を聞いてほしいという想いがあるからだろう。
それに気付けたのだ。その気持ちを無碍にすることなんて……出来ない。
「ありがとう」
彼は私にそう言うと、言葉を続けた。
「――ドアを開けた時、母と目が合った。その時、僕は母に殺されると思った。汚物でも見るかのような視線を、僕たちに向けていたから」
「うん……」
「けど、それが直ぐに笑みに変わる。気味が悪かった。母が笑顔でいる理由が分からなかったから。呆然とするしかない僕と妹の手を、母は掴んで引っ張った。躊躇なく道端に投げ捨てたんだ」
「笑顔で……?」
「うん、笑顔で」
「それは……怖いね」
怖かったよ、と海凪さんは笑った。今はもう笑って言えるだろうけれど、その当時は笑いに変えることなんて出来なかっただろう。
「何が起きたのか分からなかった。母のその時の最後の言葉で、僕は理解した。母親に捨てられたんだと」
「その時の言葉……聞いてもいいの……?」
「うん……母の最後の言葉は――」
『あんたたちなんて、産まなければ良かった』
私は絶句した。実の子どもにそんなことを言う母親がいるのかと。私の味方になってくれない母親に絶望していたけれど、側にいてくれるだけで本当は有難いことなのかもしれない。彼の話を聞いて、そんな風に思う。
「その時、母の顔から笑みは消えていた。僕たちにそう吐き捨てた母は、放心状態の僕たちを無視して車に乗り込んだ」
「え、じゃあそのまま――」
「うん。去っていったよ」
「そんなことって……」
「僕は母から嫌われていたから、今思えばしょうがなかったのかなって思う。けど、妹まで捨てられる必要はなかったんだ。僕がいたから、だから妹は……」
海凪さんはギリっと歯を噛み締めた。
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