第16話

 栗花落澪が屋上から飛び降りたと報道される一週間前、私は海凪さんと会っていた。


 私が海凪さんに電話をしたあの時――


『今から僕の言うことに従ってくれるかい?』


「……? うん」


『ありがとう。あのね、今から屋上に行ってほしいんだ。難しかったら、屋上へ行ける階で待っていてほしいんだけど、可能かい?』


「……? もう屋上にいるよ」


『本当かい? 流石は澪ちゃんだ。そうしたら、今から迎えに行くからそこで待っててもらってもいいかい?』


「迎えに……? え、どうやって――」


『それはすぐに分かるよ。それじゃあ、ちょっと待っててね』


 私の返事を待たずに電話は切れた。私は携帯を見つめる。けれど、いくら見つめていても電話は掛かってこない。私は大人しく埃を被ったベンチに腰をかける。


「……また海凪さんに甘えちゃった……もう迷惑かけたくないって思ったのに……」


 ギュッと自身の腕を掴む。何も返すことが出来ない。それなのに、人には甘えようとする。本当に私は救えない。こんなだから、クラスメイトにも……友達になってくれた子にも嫌われる。ダメな部分を指摘されても、また同じことを繰り返す。


「…………私、このまま生きていていいのかな……海凪さん、会いたいよ……」


「ごめんね、お待たせ」


 声が聞こえ、私は自身の耳を疑った。ここは屋上だ。ドアを開けなければ入ることは出来ない。それでも、私が見る限りそのドアは開いていない。


「そっちじゃないよ、こっちだよ」


 それは背後から聞こえた。私は勢いよく振り返る。そこにいたのは――


「海凪さん……? え、本物……?」


「ふふっ。澪ちゃんは可愛い反応をするね。そうだよ、本物だよ」


 海凪さんは優しい笑みを浮かべる。

 何故だろう。海凪さんがいると分かるだけで、安心出来る。


「海凪さん……」


「澪ちゃん、よく頑張ったね」


 電話越しでも言われた言葉。その言葉を直接聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。


「ご、ごめんなさい」


「大丈夫だよ。ここには僕と君しかいない。遠慮せず泣いていいよ」


 それから彼は、その大きな腕で私を包み込むと、優しく背中をさすった。


 その優しさに、更に涙が零れてしまう。どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。本来なら、私と一緒にいることなどありえない。私なんかが一緒にいていいはずがない。


「大丈夫かい? まだ使っていないから、これで拭いて」


 そう言ってハンカチを渡してくれる。


「ありがとう……ございます」


 感謝の言葉しか言えない。感謝することしか出来ない自分が情けなくて涙が止まらない。


「ごめんなさい……私なんかのために、大切な時間を――」


「私なんかって言わないで。自分を卑下しちゃだめだよ。僕は君だから自分の時間を使ってでも助けたいって思ったんだ。だから、謝らないで」


「私だから……? どうして……? だって、私は海凪さんに何も……」


「君が僕にとって、小さな希望だったから」


「えっ……」


「まあ、とりあえずここから出よう。前行った喫茶店でもいいんだけど、今後のことを考えて僕の職場で話そうと思うんだけど、いいかい?」


 話を逸らされた。


 けれど、詮索しようとは思わなかった。それをして嫌われたくないから。


「大丈夫です。ご迷惑じゃなければ」


「迷惑なんかじゃないよ。迷惑なら初めから提案しない」


「そう言ってもらえると少し安心します」


 私は安堵する。海凪さんの言葉は嘘に聞こえない。だからだろう。気になったことを訊ねる。


「あ、そういえば、どうやってここまで来たんですか? 屋上まで登るロープなんてもの、なかったと思いますけど……」


「…………」


「海凪さん……?」


「どうやってこの場所に到達したのかは、降りる時に分かるよ。ここまで来たのは、警備員の目を盗んでちょっと……ね」


「それってつまり――」


 彼は頷いた。きっと、私の予想は当たっている。そして、彼は言った。


「所謂……不法侵入っていうやつだね。澪ちゃんは悪い大人になっちゃだめだよ」


 冗談めいた様子で笑った。私はそれに頷くことしか出来なかった。


「さてと……そろそろ行こうか」


「分かりました」


 私はドアに向かって歩き出す。すると、彼が私の腕をとる。


「――え、海凪さん?」


「言ったでしょ。降りる時に分かるって。一緒に降りるよ」


 そう言うと、私のことを抱き抱えた。


「えっ……え?」


 困惑する私に構わず、彼はゆっくりとそのフェンスを超えた。人を抱えているとは思えないほど軽やかで、思わず魅入ってしまう。


「それじゃあ、降りるね。僕にギュッて掴んで離さないでね」


 そう言うと、彼は何の躊躇もなくそこから飛び降りた。情けないことに、声が出なかった。目を瞑り、必死に彼の洋服を掴んだ。離したら死ぬ。そう思ったから。


 やがて、彼が「もう大丈夫だよ」と口を開いた。私はゆっくりとその目を開ける。


「生きてる……」


「ふふっ。心中なんてさせるわけないでしょ。僕の都合で勝手に殺すなんてことしないから安心してよ」


「別に……海凪さんとなら心中してもいいよ」


 ポロッと零れた言葉に、海凪さん当然、私も目を見開いた。


 あれ……私、何を言って――


「澪ちゃん、それがどういう意味か、分かってて言ってる……?」


「えっ……あの……」


「…………いや、ごめん。今の澪ちゃんの精神状態なら、そうなってしまっても仕様がないのに、変なことを聞いてしまったね。忘れてくれ」


「いや……私こそ変なこと言ってしまってすみません……自然と言葉が零れてしまって……けど、その言葉の意味は理解しているつもりですし、本音です」


「……そっか」


 海凪さんは静かに頷く。それから何かを考えるような素振りを見せる。暫くして、彼が口を開く。


「澪ちゃん、僕は――」


 海凪さんが何か言おうとしたその時、生徒の声が聞こえた。その声が段々と近づいてくる。


「……チッ」


 ――え、今舌打ちした……?


 私は海凪さんのことを見る。

 けれど、海凪さんの表情は変わっていない。私の視線に気付いたのか、にこりと微笑む。


「――何か聞こえたかい?」


「いや、何も……」


 私は首を横に振った。聞こえなかったことにした。彼の笑顔が怖いと思ったから。


「じゃあ、行こうか。ちょっと失礼するよ」


 そう言うと、ひょいと私を抱き上げる。困惑する私に、彼は囁いた。


「僕不法侵入者だから、見つかると困るんだ。それに、ここで君も見つかったら、この後の計画が台無しになっちゃうからね。ちゃちゃっと移動するよ」


 そう言うと、私を抱えたまま脱兎のごとく駆け出した。




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