第4話

 時間が経ち、私は落ち着きを取り戻した。その間、海凪さんはずっと私の手を握ってくれていた。


「あの……すみませんでした」


「別に大丈夫だよ。それと、こういう時はすみませんじゃなくて、ありがとうでいいんだよ」


「え……えっと、ありがとう」


 彼は私の言葉にニコリと笑った。


「それじゃあ、澪ちゃんが落ち着いたところで、改めて自己紹介させてもらうね。僕は海凪風優人。普段は探偵をしているよ。君は栗花落つゆり澪ちゃんで合ってるかな?まだ中学生……だよね?」


「そうです。えっと、私は――」


 海凪さんが改めて自己紹介したから、私も言わないとって思った。


 けれど、今日出会った時に思った違和感を、今も抱く。


 あ……れ? 私……名前名乗ったっけ……?


 名前を口にされた時は、もしかしたら名乗ったかもしれないと、違和感を頭の片隅に追いやって、気付かないふりをした。


 けれど、今は違う。フルネームで私の名前を口にした。それは教えて……いない。いないはず。そこまで記憶力は悪い方じゃない。


「あ、の……ひとつ聞いてもいいですか?」


「うん? 構わないけど、どうかしたのかい?」


 聞いてはいけない。何故かそう思った。それでも、聞かなくてはならない。聞いても聞かなくても、自分の身が危うくなる可能性があるなら、聞いておいた方がいい……と思う。


「どうして私の名前、知っているんですか? まだ話してない……と思うんですけど」


 その瞬間、彼の纏っている雰囲気が変わる。実際に何か見えているわけではない。それでも、優しい彼が纏っていたオーラが、急に怖くなったのを感じた。彼の周りだけ、空気が冷たくなった気がした。


 聞いてはいけないことを聞いてしまった。それを瞬時に理解して、私の身体は情けなく震えた。


「えっと、あの……」


「僕……探偵って話したよね。だからなのかな……君が通う学校に関する依頼が、昨日来たんだ。だから調査するのと一緒に、君のことを少し……調べさせてもらった」


 彼は一度、そこで言葉を区切る。私のことを見る彼の瞳が、少しだけ揺れた。その時には、冷たくなったと感じた空気は、元のように温かいものに変わっていた。


「覚えていたから訊ねてしまったけれど、知らないふりをした方が良かったね。不安にさせてしまってごめんよ」


 怖いと思った。けれど、それも一瞬だった。


「大丈夫……です。少し驚いただけなので」


「そうだよね。名乗っていないのに知っていたら驚いちゃうよね。僕に……相談したくなくなったかい……?」


「えっ……?」


 彼のことを見ると、そこには怒られたあとの仔犬のような表情をしている海凪さんがいた。全くそんなこと思っていなかった私は、その言葉に驚いてしまう。


「相談しても大丈夫ならしたい……ですけど……」


「本当かい?」


「え……もちろん。私の相談に乗ってくれる人なんて、今までに一人すらいなかったので、寧ろ相談に乗ってもらえると有難いんですけど……」


「僕のこと……嫌いになってないかい?」


「海凪さんを嫌いに……?」


 どうしてそういう話になるのか分からない。分からないけれど――


「嫌いになる理由がないです」


 私は首を横に振ってその言葉を否定した。その瞬間、海凪さんが嬉しそうに微笑んだ。


「そうかい。それなら良かった」


 彼が紅茶に口をつける。その一つ一つの所作を、美しいと思いつい見入ってしまう。その様子に気付いた海凪さんが、ニコリと笑う。


 どうして、この人はここまで――


 心臓を鷲掴みにされたような、そんな感覚。彼を失うなんてこと、したくなかった。


「そういえば、一つ気になっていたんだけど、聞いてもいいかい?」


 紅茶を置いた彼が、そんなことを口にする。私は不思議に思いながら頷いた。


「もちろん構いませんけど……」


「そうかい。それじゃあ、聞くけれど、どうしてずっと敬語なんだい?」


「えっ……?」


 突然の質問に、素っ頓狂な声を出す。


「えっ、どうしてですか……?」


「いや、僕だけタメで話してるの変な感覚してさ……僕の方が大人だから、敬語の方がいいのかなと思って」


「あ、そういう……」


 納得した。確かに中学生ならば、相手がタメで話しかけてきたらタメで話すかもしれない。私も何もなかったら、タメで話していると思う。その方が、友達みたいな感じがするから。だけど――


「タメで話して……馴れ馴れしいって思われたら嫌……だし、海凪さんは私より大人だから、敬語で話した方がいい……と思ったんです。何より、嫌われたくない」


 誰に、とは言わなかった。もしそれ伝えてしまったら、優しい彼を困らせてしまう。いや、この言い方だと、きっと気付く。それでも、私の口から直接伝えるのは嫌だった。


「名前で呼びあって、敬語なんて使わずにお互いタメで話した方が、より仲良くなれると思うし、距離感を感じなくて良い事だとは分かっているんです。でも――」


 きっと、それが出来るだけで仲がいい証明になる。友達というのは、そういうことが当たり前に出来る人のことを言う。


 けれど、私はそれが怖い。友達だと思っていた人から裏切られる苦しみを、私はもう……知っているから。


 私の気持ちを汲み取ってくれたのか、彼は直ぐに謝罪の言葉を口にした。


「ごめんね、無理をさせたいわけじゃないんだ。ただ、澪ちゃんとはこれらからもっと仲良くなれるような気がしたから、敬語じゃなくてタメで話していいよって、言いたくて訊ねたんだ。だけど、返って澪ちゃんを苦しめちゃったね。こめんね」


「いや……私の方こそすみません。せっかく海凪さんが気軽に話しかけてくれているのに、それを無碍にしてしまって……」


「いやいや、そんなことないよ。人には苦手なことやものが必ずある。澪ちゃんの場合はそれだった、というだけの話。気にすることじゃないよ」


 彼は苦笑する。それから再度「ごめんね」と謝った。


「同級生でもない、会ってまだ二回目というのに距離が近すぎたね。君は何ひとつとして悪くないから謝らないで」


「いや、でも――」


 私が口を開いた時だった。


「お待たせ致しました」


 タイミングが良いのか悪いのか。店員が料理を持ってこっちに来た。


「ビーフカレーで御座います」


「あ、僕です」


 海凪さんの目の前にそれが置かれる。


「ありがとうございます」


「御注文は以上で宜しいでしょうか」


「はい、大丈夫です」


「ごゆっくりどうぞ」


 飲み物を届けに来た時と同様に、店員さんはお辞儀をしてその場を後にする。これが普通のやり取り。二回見たけれど、私には出来そうもない。


「僕だけ頼んじゃってごめんね。お腹空いちゃってさ」


「いえ、気にしないで大丈夫ですよ」


「ありがとう。そうだ、一口食べるかい?」


「え、でも――」


「見てるだけだとお腹空くだろう?きっと、学校頑張った後だろうし、ご褒美ってことでさ」


 彼はカレーをスプーンに乗せ、私に差し出す。どうしようか迷ったが、彼の優しさに甘えることにした。


「……! 美味しい」


「そう言ってもらえてよかった。まだ食べるかい?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


「じゃあ、食べちゃうね」


 私は頷き、クリームソーダを口にする。


 彼が食べ始めて十分後、彼の携帯が小さく震えた。


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