第七話『黄色い花びら』

 手術から数日後。


 明は、リハビリに励んでいた。

 もうとっくに、ギプスは外れている。

 膝の縫合痕ほうごうこんはまだ目立つが、痛々しさはもう、ほとんど感じられない。

 しかしそれは、あくまで見た目の話。

 両脇にある、長い鉄の棒を、細い腕で掴む。

 右足に預けた体重を、体を振り子のように揺らして、恐る恐る、左に移動させる。

 立つことはできるようだ。

 鉄棒を握る両手をそっと上げて、左足を、前に踏み込む。

 左足が着地。

 が、すぐにバランスを崩してしまう。

 体は左へ傾き……

 再び両手は、鉄棒へといざなわれる。

 

「どうしてなのよ……」 


 牢屋の鉄格子の一部を切り取ったような鉄棒を、強く握りしめる。

 明は、走り方を、足の動かし方を知っている。

 しかし、思うように、動かない。


「頭ではわかってるのに! イメージは完璧なのに、どうして、ちゃんと動かないの? どうして……どうしてなのよ!!」

 

 明は、泣いた。

 啜り泣く声が、部屋に響いた。


 明はふと、ベッド横の棚を見る。


 ほっそりとした、黄色い花瓶がある。


 そこには、見覚えのある、一本の花が刺さっている。


 黄色い、ガーベラだ。


 花瓶のそばには、一枚の封筒が添えられていた。


 明は我を忘れ、鉄棒をすんなりと離し、そちらへ歩いていく。


 容易く、棚のところまでたどり着く。


 長く真っ直ぐな茎に、手が伸びる。


 抜き取って、花びらに鼻を近づける。


 ほんのりと、懐かしい香り。


 封筒を手に取る。


 封をあけ、中から、一枚の便箋を取り出す。


 短い文章が書かれている。 

 

「『この黄色いガーベラは、お兄ちゃんだ。いつでも見守ってるぞ。リハビリ、頑張ってな』か。へぇ……優しいじゃん」


 ふと振り返り、自分の歩いてきた軌跡を目で辿る。


 そう。


 明は確かに、自分の右足と、左足とを使って、歩いたのだ。


「お兄ちゃん、ありがとう。だけど……もう、歩けるようになっちゃった。だから、このお花、いらないかも」


 そう言うと明は……


 花びらを一枚ずつ、ちぎりだした。


「すき、きらい、すき、きらい、すき、きらい…………」


 丁寧に、数え上げていく。


 十枚、二十枚と、床に散っていく黄色い花びら。


「すき、きらい、すき、きらい、すき、きらい…………」


 そして五十一枚目。


「好き」


 明は、丸禿げになったガーベラの茎に向けて、そう言った。


「お兄ちゃん……大好きだよ。嫌いなんかじゃないよ! また、お兄ちゃんと同じように、走りたいもん! 走り方一緒じゃんって、言われたいもん!!」


 明の涙が、床上の黄色い花びらに落ち、つゆとなる。


「花びら、なくなっちゃった」


 明は、真っ直ぐの棒になったガーベラを……


「はいこれ、私からのお返し」


 『好き』がこもった茎のバトンを、そっと、ほっそりとした黄色い花瓶の中へと、入れた。


〈第八話『バトンパス』に続く〉

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