ユキ2

 ふと気付くと、夢の世界の砂浜に、釣りをする青年が現れていた。いつの間に。私は人魚に会えた興奮冷めやらぬまま、その人に近付き、話を聞いてみる。あの人魚の知り合い? 

 元恋人です。そう答える幸薄そうな顔は、夢の世界のモブなんだなぁという感じで、話しても楽しくなさそうだ。

「あの人魚のいる時に来ればいいのに」

 せめて夢の中だけでも会いたいだろう。そういう気持ちで今ここに出現しているのではないか。そうなんだろう。

「もう会えないんです」

 その言葉を聞いて、私の小さな胸がきゅっとなった。会えないのは切ないな。わかるよ、私もずっと雪山の主に……ユキに会えなかったから。


 人魚の元恋人、イスズさんの釣り道具を借りた。釣りの腕前をユキに披露する。たくさんの長靴を釣ったぞ。なんで私はいつも長靴ばかり釣ってしまうんだ。

 そんな風に時間を潰していたら、世界がぼやけて、イスズと名乗った青年もふっと消えた。人魚が夢に帰ってくる。

「イスズさんっていうんですね、前の恋人さん」

「えっなんでイスズ君のことを知ってるの!?」

 そこで私たちは人間ではないことを明かした。

 ここは夢の世界で、今あなたの夢にお邪魔しています。旅をしています。あなたが起床している間にイスズ君の姿を見ました。釣りをしていました、と。

「へぇ……獏みたいなものだね。そっか、旅かぁ。いいなぁ。私も旅に出ようかな。人間になって……足を得て……イスズ君の元へ」

 ユキが急に大きな声を出す。

「そんなことが可能なのか!?」

 あまりの食いつきの良さに、私は肩をびくつかせた。

「可能だよ。人魚に古くから伝わるおまじない。代償を払わないといけないから、私は悩んでいるんだけど。声をなくした人魚の話はおとぎ話じゃないんだよ」

「それは僕のようなものでも使えるおまじないかな」

 ユキは確か人間になりたいと言っていた。まさか本当になれるとでも思っているのだろうか。なんという愚者だ、と吐き捨てたい。なぜこんな気持ちになるのだろう。

「えっ人間になりたいの? 使えるよ。あなたの代償は……記憶」

「ユキ!」

 記憶だなんて! せっかく旅をしてきたのに、その経験全部無駄になっちゃうじゃないか。私は強く反対する!

「僕は人間になりたいんだ。夢から出たいんだ」

 ユキがそう言うと、人魚はにやりと笑った。

「いいねぇ、そんなに強い願いなら叶えないといけないね。お兄さんの記憶なら楽しそうだし、おまじないしてあげよう」

 私はユキの腕を強く掴む。

「待って、やだよ、一緒に旅するって言ってからまだ全然経ってない、寂しいよ」

「……ごめん」

 わかってくれたか、と彼の顔を見上げる。でもどう見ても視線が合わない。首の方角が明らかに人魚に向いたままで、私のことなんて眼中に入っていないみたい。

「憧れは止められないんだ」

「そんなの!」


「お別れの時間を作ろうか?」

 人魚がそう言うと、場所は鮮やかにページをめくるように海底へと変わった。暗くて静かだ。サンゴが厳かに生息している。

 私はなりふり構わずユキにしがみついた。

「ユキにユメって呼ばれるたびに嬉しかった。ネモフィラ、綺麗だった。一緒に泳いだのも楽しかった。これからこんな旅が続くんだってすごく期待してた」

 水中なのに呼吸がスムーズにできる。水に対する恐怖も忘れていた。目頭が熱くて、多分私は泣いているのだけど、涙は海水に溶けて消える。

「恋してたんだね……」

 人魚は呟く。こいつは夢を渡り続ける孤独を何もわかってない。恋なんてものではない、救いだったのだ。救いだったのだ!

 ああ、再会なんてしなければよかった!

 そうすればこんなに楽しい思い出なんてできなかった。これを抱えてこれから生きていくだなんて、背筋が冷える……。

「ごめんね」

 ここまで言っても彼の気持ちは揺らがない。

「ユメに会えたこと、僕も本当に嬉しかった。猫の姿でも一目であの子だってわかったよ。これから長い旅をするんだと思ってた。でも、僕はこのチャンスを逃すわけにはいかない」

「現実なんかのどこがいいのさ。人間なんて楽しくないよ……」

 本当はわかっている、人間の生活は魅力的だ。

 もっとたくさんの国に……現実に訪れることができる。

 想像と記憶だけでできた夢ではできないような、たくさんの経験ができる。美味しいものだってあるだろう。大人数で語り合う夜を過ごすこともできるだろう。

 自分の望む場所へ、望む体験をするために、自分で選び取って訪れることができる……夢を渡り歩く運の旅ではない。本物の旅だ。

 それは旅人にとって、なんて魅力的なことなんだろう。

「わかってくれ」

 私は苦虫を嚙み潰すような顔をしていたはずだ。

「……わかった」

 

 人魚が鱗を引きちぎって海底の鍋に投げ込んだ。ユキの髪も混ぜて、しばらく煮込むと、とても美味しくはなさそうな紫色の飲み薬ができた。

 ユキがそれを飲み下そうとするのを人魚は止める。

「おまじないをしなきゃ!」

「何をすればいいんだ?」

「噛まずにこれ言って。いくよー……『2,3,5,6 -テトラフルオロ-4-メチルベンジル=(Z)-(1RS,3RS)-3-(2-クロロ-3,3,3-トリフルオロ-1-プロペニル)-2,2-ジメチルシクロプロパンカルボキシラート』嚙まないで!」

「え、な、なんだって?」

「だからぁ、2,3,5,6……」

 ユキは噛み噛みになりながら、必死の形相でその呪文を繰り返した。私はそれに失敗しろ失敗しろと念じていた。……彼は根性でそれをやりきった。

「これで、いいのか……」

「あっあっ!」

 少しずつユキの姿が消えていく。ここは人魚の夢だから、人間は出入りできないのだ。

 きっと彼は、現実で、記憶のない行方不明者として発見される。もちろんそこに私はいない。

「さよなら……」

 私の無理矢理口角を引き上げた顔を、彼がどう思ったかはわからないが。

 彼は片手をあげて、さよならと返してきた。黒い影で相変わらず、表情が読めない。最後なのに、ユキがどんな感情を持っているのか、全然わからないよ。

 彼のいた場所に記憶の球が残る。おぼろげに光っている。人魚はそれを手に取り口に入れた。

「美味しーっ! 最高!」

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