タルハ3
案内された場所は、ベタベタする綿飴の地面ではなく普通の土で、一面青い花が地平線まで咲き誇る美しい花畑だった。
「綺麗……」
「ネモフィラの花畑だよ。君に見せたかった」
君に見せたかった? どういう意図でこんな発言が飛び出したんだろう。
「今日まで、旅を続けてきたの?」
「え? どうしてそれを?」
「君は旅に出たがっていたから。良かった、旅ができたんだね。どんな旅だった?」
「まさかあなたは……雪山の夢の!? どうやって夢から出たの!?」
雪山の夢の主。黒く塗り潰された顔はその名残がある。
彼は猫ではなく、人間だったはずだ。
「まだ気付いていないの? 僕たちは同じ存在じゃないか。夢を渡るもの。旅する存在……あの雪山は、別の主がいたんだよ」
そう言うとユキは初めて会った時の人間の姿に戻った。その姿は、私が何度も再会を夢見た影絵のようなその人そのままで……。
私は感極まって目頭が熱くなった。
何度も言葉に詰まって、ようやく吐き出す意味のある音声。
「あなたに話したいことが、たくさんあるんだ」
「いいよ、話して聞かせてよ」
ユキは優しい。穏やかな口調で、私に椅子を勧める。いつの間にか私の背丈は人間に戻っていて、ネモフィラの花畑の中にティーセットの置かれたテーブルと椅子があった。
ヒビの中のタルハは、夕食が僕の嫌いなゴーヤチャンプル、と落ち込んでいる。そんなことは気にせずに私達はいつまでも語り合った。
雪山では彼の話を一方的に聞くだけだったが、今は私の方が多く話していた。時間なんてものはここにはなかった。
首のない男、ダカタに恋人だと間違われて不快だったこと。イマイが作った魚が突き出たスターゲイジーパイの見た目の衝撃と味の良さ。
あのパイはまた食べたいが、もう作ってくれる人はいない。ユキにも食べさせてあげたかった。連れていければよかったのだけど。
それから、ヨシダの縫われた赤い糸を頑張って切り開いたこと。血が出るたびに胸がきゅーっと痛くなって、あれが罪悪感ってものかと思った。
糸を切って解放してあげようとしてたのに、傷つけるばかりで……しかも眼球がすごく近い瞼の部分をぴっちり縫われていたものだから、失明させてしまうのではないかと怖かった。あの時はよくやったと自分でも思う。でも、救えない人もいる。
彼は終始穏やかにうんうんと頷いて、表情は見えないが嬉しそうだった。
「旅っていいだろう?」
「うん、とっても!」
それから、とてもあなたに会いたかったこと。
まさか会えるとは思わなかった。彼は少しも変わっていない。
「ずっとあなたと旅がしたかった。憧れていた」
「旅をしよう。でも僕はいつか人間になって、あのヒビの向こうに行きたいんだ。方法はまだわからないけど、見つかったら、必ず」
私は目を見開いた。そりゃもう大きく。
「ヒビの向こうって、現実? あそこでは生きられない……」
「この姿のままではね」
頭がクラクラした。荒唐無稽だ。今の命尽きるまで夢を旅して回るのではないのか。そっちの方が余程現実的だ。夢を生きる私達として、この現実的という言葉は皮肉だが……。
夢の中にいる方が現実的、とはおかしな言葉だ。しかし、実際そうなのだからしかたがない。
そして、検尿戦隊ジャージャージャーに飽きたタルハが我々を探しにネモフィラの花畑までやってきた。
「猫ちゃんたちが消えちゃった! どこ!? お兄さんお姉さん、喋る猫ちゃん知らない?」
「あー……」
私は言い淀んだ。ユキが実は、と言いにくそうに言う。
「僕たちが猫ちゃんなんだ。夢を旅する存在、その姿は変幻自在」
タルハは変幻自在の言葉の意味がわからなかったようで、首を捻っていた。
「猫ちゃんなんだね。良かった。どこかに行っちゃったかと思ったよ」
さすが子供は順応性が高い。
「ごめんね。もうそろそろどこかに行っちゃう時期なんだ」
ユキが言った。私は少し驚いて声が出そうだった。せっかく会えたのにまた離れ離れか、と。
「僕たちは二人で旅に出る」
でも次に続いた言葉に、私は天にも昇る心地だった。一緒に旅? 夢に思い描いていた通りの展開だ! ユキと旅ができるだなんて!
「喋る猫ちゃん、さようなら……」
タルハは目に涙を浮かべている。
背を向けて歩き出そうとするユキを追いかけて、「待って!」とタルハが声を投げかけた。
その手にはリコーダーを持っている。
「お別れ会の曲、演奏するね」
そして大気を震わせたのは、地を這うような低音と、頻繁に荒ぶる外れた高音ばかりで、思わず耳を覆った。さすがに失礼だと判断したらしく、ユキに手を下ろされた。
子供って可愛いよね。今は猫じゃないから、巨大にも見えない。小さな存在だ。
ネモフィラの花畑を抜けて、雪山の主と共に次の夢へ歩き始めた。彼は旅をするだけでなく、人間になりたいという大きな夢を抱いている。私の彼と再会したいという夢は叶ってしまった。次はどんな夢を抱こう。私も彼と同じように人間を目指そうか。私たちは夢を旅する。そういう生き物だ。
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