タルハ1

 やれやれ、酷い目に遭った。あそこまで気遣っても返ってくるのが刃ばかりとは、人間とは恐ろしいものだ。生きてて楽しいのか? 楽しくないからああなっているのだろうけど、ならなぜまだ生きている?

 ヨシダは不思議な人だった。あがいているのだろうか。私にはその全ては理解できない。

 ひゅー、と風の音がする。あのブランコから落ちて、もうそろそろ別の人の夢に到着してもいい頃だと思うのだが、まだまだヨシダの悪夢から抜け出せないのだろうか。落ちる感覚はなんだか心臓がひっくり返るような拒否反応が出る。口が「い」の形になって歯がむき出しになる。そろそろ地面が欲しい。今一番欲しいものは地面だ。

 ……どのくらいそう願っただろう。私は気を失っていたのかもしれない。

 私は恋焦がれた地面に横たわっていた。硬い感触に安堵したのも束の間、やたらに狭いということに気が付いた。右足、左手にも壁の感触がする。

 息が苦しくて暗い。ここはどこなんだ。壁は紙でできているようで、私はそれを破れないかと爪でずっとひっかいていた。

「動いてるー!」

 すると、甲高い声が私を揺り動かした。がさがさと持ち上げられる。男児の声だ。小学低学年頃だろうか。舌足らずな喋り方が、そんな気にさせる。おい私を揺らしすぎだ、痛いだろ! 私は箱の中にいるようだ。この子供は巨人だろうか。そんな夢もある。

 開けてくれ、と思った頃に射出された。何を言っているのか自分でもわからない。空中に放り投げられた、垂直に。びよんと。

「びっくり箱だー! 可愛い猫さん! 僕タルハ、よろしくね」

 巨大な少年が私を掴んで言う。あどけない頬の膨らみ、癖のある柔らかそうな髪。可愛らしいが、でかい。

「よ、よろしく……」

 タルハは目を輝かせた。

「わー喋るの!? 賢いねえ!」

 私の姿が猫に見えているらしい。猫から見た人間って大きいな。


「楽しいねぇ」

 私はタルハの膝に乗って回転木馬に乗っていた。前に上下にと揺れ動くそれの高さは、今の私からすると恐ろしい。落ちたらと思うと血の気が引く。よって、タルハの服に爪を立ててしがみついていた。彼は文句を言わず、楽しそうに笑い声をあげている。

 タルハの夢は遊園地のような遊び場だった。楽しげで、ヨシダとのギャップが強い。

 同じ人間でもこんなに違うのだな。

 賑やかな音楽が大音量で辺りに響き渡り、タルハの声が聞き取りにくい。

「学校にも猫がいるよ。僕は学校に通っているんだけど、リコーダーが上手く吹けなくて憂鬱なの。そう、僕憂鬱なの」

 憂鬱、という言葉を悦に浸って言っていた。難しい言葉を使って喜ぶ年頃らしい。

 話す内容が子供らしくて微笑ましい。

 タルハは少し汗ばんだ手で、私の毛に引っかかりながらずっと撫でている。あまり触られるのは得意じゃないのだけれど、なぜだか心地良い。

「今度お別れ会があるんだ。そこでリコーダー吹くの。ゆっくり息を入れるって言われても、いつもピーってなっちゃうんだよ」

「そうなんだ……ね、ねぇ、そろそろこの馬降りない? 高くて怖いよ、コーヒーカップに乗りたいよ」

「わーい、コーヒーカップも好き! ガンガン回すぞー!」

 そんなに回さなくていい! と焦って止めようとした。このままでは絶叫マシンが生み出されそうだ。

 急停止した回転木馬からタルハは乱暴に降りた。地面についても私を腕に抱き抱えたままで、歩くたび揺れる。転びそうな走り方をするから子供って怖い。

 コーヒーカップに向かう途中の道は綿飴の雲だった。タルハが綿飴だと言っていたのだからそうなのだろう。飛んだり跳ねたり、タルハはご機嫌だ。私はそれに振り回されている。放り出されて雲にキャッチされ、肉球がベトベトになった。砂糖でできている。甘い。

 不意に空からプレゼントボックスが落ちてきた。タルハが大声でキャハキャハ笑って、包装を破り捨てる。蓋を開けると、二匹目の猫が現れた。さっきの私と同じ登場の仕方だ。この世界のモブか。

「こんにちは! 僕タルハ!」

「こんにちは。僕は……ユキとでも呼んで」

 どくん、と心臓が跳ねる。ユキ。否応なしに雪山の夢の主を思い出した。

 名乗る前に私をちらりと見たように見えた、その猫は、黒くて目まで影に塗り潰されている。猫の影だ。黒猫なのに名前がユキ。雪は白いのにこいつは黒猫。

 ふと思い立って私は何猫なんだろうと思ったが、手は茶色と白の毛並みで背中もそうだ。上品な気品漂う猫の姿、流石私だ。

「よろしくね、ユキ! そういえばこっちの子は名前何ていうの?」

 タルハは私の方を振り返る。好きに呼んで、と言おうとしたが、ポチとか呼ばれたら嫌だし、少し考えた。

「ユメでいいよ」

 完全に思いつきだった。だって私は夢を渡るものであること以外、自分のことを全く知らないのだ。名前もないし、性別もない。国籍も人種も顔もない。夢を渡るもの、そのアイデンティティに縋っている。

 タルハは嬉しそうに、何度も何度もユキちゃんユメちゃんと繰り返していた。

 彼は私とユキを両腕に抱きしめ、その場に座り込んだ。目を閉じて名前を繰り返す。それがどんどん小声になっていって、静かになったと思ったら頭にたらーっとねばっこい涎が落ちてきた。

 そして抱えられていた腕が消え、タルハは涎だけ残して夢から覚めたらしい。ユキが私を見ている気がする。気の毒そうな視線を感じる。べたべただ。

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