イマイ2

 イマイ不在の夢の世界は、丘と家だけの退屈な世界だ、と、思っていたが、結構そこかしこにおかしなものが落ちている。古ぼけた人形や古くなったハンカチなど。あの人の持ち物だろうか。みんな古ぼけている。ちょっと薄気味悪い。

 古くて黒い煤のようなもので汚れた、人形が落ちていたので拾った。そうすると、幼い女の子が人形を持っている光景が流れ込んでくる。女の子は大きい音が響き渡る中、赤い空から降ってくる無数の弾から逃げ回っていて、人形はその道中で落としてしまったらしい。何度もほつれては直された跡のある人形。イマイに届けてあげようと思った。腕に抱えて歩く。


 勝手知ったるイマイの家に入り込んで、あの美味しかったシチューが残っていないかと台所を物色した。鍋の中にまだごろごろ野菜のシチューが残っているのを見て、食べてしまおうか、いや勝手に食べてはいけないんじゃないか、少しくらいならバレないんじゃないか? などと葛藤していた。そうすると、がちゃりと音がして続いて扉のきしむ音もする。イマイが帰ってきた。不躾に鍋の蓋を開けている私を見て、イマイは上品に笑う。

「あらあら、お腹がすいてるの?」

 空腹なわけじゃなく、ただ、美味しかったから……と言い訳するが、言い訳なのだ。恥ずかしい。早く食べるか食べないか選ぶんだった。まさか悩んでいるうちに帰ってくるなんて。

 イマイは嬉しそうに袖をまくっていた。台所までやってくるので、そうだ、と思い、私は拾った人形を彼女に見せた。

「あら、それ、昔なくした人形にそっくり!」

「あげます」

「まぁ、まぁ……」

 イマイは感慨深げに人形の煤を落としていた。

 大事にされた跡のある人形だから、何十年たっても夢に見て、覚えていたのだろう。手元に戻せてよかった。ダカタと違ってイマイは、距離感が心地よいので純粋に人として好きだ。この人の笑顔を見ていたい。

「これは腕によりを振るってお礼をしなきゃね」

 イマイは嬉しそうに、台所の鍋の前に立った。待っているように言われたので、暖炉の近くの肘掛椅子に座ってゆらゆらと揺れていた。この椅子揺れるのが面白い。でもすぐに飽きて、家の中を無暗矢鱈と歩き回った。本棚には絵本や児童書や古い小説があって、黒猫が石を投げられながら旅をする本を私は読みふけった。

 黒猫は旅をしていた。安住の地を求めていた。嫌われ者の黒猫は、どこへ行っても爪はじきにされる。何度か幸せになりかけるんだけど、そのたび救いの手が振り払われてしまう。今度こそいよいよ本当に幸せになれると思ったその時、イマイに呼ばれて本を閉じた。いいところだったけど、いい匂いがしたから。

「うちではシチューの次の日はこれなのよ。息子も私も大好きだった」

 息子の話がよく出るなぁと思う。かくしてイマイが持ってきたものは、コロッケだった! さくさくの衣に中はクリーミーなシチューのリメイク料理だ。クリームシチューコロッケ。食べたことないこんなの。聞いたこともない。どうやって作ったんだろう。ほくほくの湯気が立って、非常に美味しそうだ。いや、美味しかった。

「息子さんが大事なんですね。いやぁこれ美味しい」

「独り立ちして上京してから、もうずっと帰ってこないけどね」

 それは寂しいね。私ならこんなに美味しい料理、食べに帰ると思うんだけどな。

 イマイが少し寂しそうに見えたから、親孝行したいような気持ちで、外へ散歩に行かないかと誘った。


 腰の曲がったイマイが、ゆっくりとした足取りで丘を歩く。

「なんだか体の調子がいいわ。どこまでも歩いて行けそう」

 とても上機嫌に見える。

「何か面白い話ない? ですか?」

 イマイの顔や手に刻まれた深い皺は、これまでの人生の経験を物語っているかのようで、それに対して私は敬意を払う。だけど普段敬語なんて使わないから、慣れない。

「何もありゃしません」

 そうか、何もないか……と納得しかけた時、続けてイマイが「あなたぐらいの歳の人は戦争を知らないんでしょうね」と言った。「知らない方がいいわよ」

 そこからイマイの昔話が始まった。

「戦後の経済成長はすごかった。誰もが明るい未来を信じていた。私はしばらく子供に恵まれなかったの。ようやく子宝に恵まれたと思ったら夫が早くに亡くなり、女手一つで息子を育ててきた。だからか甘やかしてしまったのかもしれない」

「1人で? 大変じゃなかった?」

「大変だったわ、紡績工場で働いたの」

 イマイの横顔がなんだか寂しそうに見えた。元気づけようとして、何を言えばいいかわからず、「イマイさんの料理食べるよ!」と妙な宣言をしてしまった。イマイは不思議そうな顔をしたが、嬉しそうにも見える。

「今晩は何の料理を作りましょうね」

 ゆっくりと歩いていたら家が見えてきた。

 ふいに横を見たら、イマイがいない。起床したのだろう。

 私は丘から離れてこの世界の散策をすることにした。瑞々しい緑の草木が気持ち良い。いくつもの古ぼけたガラクタが転がっている。良く言えば平和、悪く言えば退屈な世界だ。

 そして割れた空の隙間から、外の現実世界が見えた。

 白い部屋で、たくさんの管に繋がれてベッドで寝込むイマイがいた。夢の中の姿よりもずっとやつれている。

 なぜ夢の外にいるのに寝ているんだろう。寝ているのなら、なぜ夢の世界にいないのだろう。


 夢の世界がぼんやりと歪んだ。イマイが眠りに落ち、この世界に戻ってきたのだろう。

 今度は何を作ってくれるのかな、とワクワクしながらイマイの家に帰ると、何やら賑やかな気配がする。

 いつかそうしたように、窓から中を覗いた。家の中にはイマイともう一人、中年男性がいる。楽しそうに話している様子が見て取れる。

 耳をすませば会話の内容も聞こえてくる。

 中年男性はニコニコとイマイに都合の良い話を繰り返していて、すぐにわかった。彼は夢の中の登場人物だ。

 身動きしたときに砂利で物音を立ててしまい、イマイが私の存在に気づいたようだ。にこやかな笑顔で手招きされる。

 扉を開けて家に入った。イマイがとても嬉しそうに笑っている。

「この人は最近家にくる旅人さん。こっちは会いに来てくれた私の息子」

 イマイは男性に私を紹介し、私には男性を紹介した。息子さんだったのか。ぼやけて顔がよく見えないが、よろしく、と右手を差し出された。握手だ。私はもやのかかった男性の手を握った。

「息子は魚釣りが趣味でね。今日も魚を持ってきてくれたのよ」

「ああ、魚。すごいですね」

「何もすごいってことはないさ。母さんが魚料理を作ってくれるはずだよ。君も食べるだろう?」

「ええ、それはもう、ぜひ」

 イマイはとっておきの料理を作ってくれると言った。楽しみだ。楽しみすぎて、魚を持ってきてくれた息子が好きになった。息子は不自然にニコニコしているが、そのどこか上品な笑い方はイマイに似ている気がする。


 イマイが台所に立ち、料理を始めた。

 その間、息子と会話をすることになった。夢の中の人物は同じ行動を繰り返したりと、あまり意思がないからつまらない。何もいないよりかはいいんだけど。

「母さんがお世話になっているね。最近足腰が弱っているんだけど、散歩に連れ出してくれてるんだって?」

「足腰元気そうですよ、たまに黒髪だし」

 息子は不思議そうな顔をしていた。

「たまに黒髪、の意味がわからないんだけど、母さんも昔は綺麗な黒髪だったんだ。でも最近は足腰も弱ってきてね。君が散歩に連れ出してくれてるんだって?」

「はいまあ。うん」

「できましたよ、二人とも」

 やったぁと振り向いて彼女の手元を見たら、大きなパイから魚の頭がいくつも飛び出していて思わず飛び跳ねた。

 見た目が独特すぎて衝撃だった。星を見上げるパイ、スターゲイジ―パイというらしい。

「おー懐かしいな」

 息子は食べたことがあるようだ。

「これは、いつも作ってるんですか……」

「いつもじゃないわ。ご馳走よ」

 そうか、ご馳走か……イマイと息子と私の三人で食卓に着く。切り分けられたパイにも魚が飛び出している。魚は白く濁った目で私を見ている。

 意を決してそのパイを口にすると、見た目からは想像できない旨みが口の中いっぱいに広がった。野菜の旨みと魚の味がガツンとくる。隠せてないけど、隠し味かな? かぼちゃの優しい甘さで魚の苦さが緩和されていた。とても美味しい。食べている最中魚と目が合う、面白い料理だった。

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