イマイ1
穏やかな坂だと思ったら、小高い丘があった。そよぐ風が気持ち良い。緑の芝生は単調で、短く切り揃えられている。丘の上に、絵本のようなレンガ調の可愛らしい民家がぽつんと建っていて、私はその家の窓から中を覗いていた。短いシルバーヘアの老婆が、暖炉の前でまどろんでいる。多分女性だ。老人ってのは顔から性別が読み取りにくい。家の細やかな配色や桃色の羽織から、女性だと判断した。よほど寝るのが好きなのだな。夢の中でまた寝るなんて。
小さな世界だと思った。丘の上にしか世界がない。吹く風のような存在として窓を覗いていたが、足があった方がいいよな、と思うといつの間にか人のような姿になった。玄関に回ってドアベルを押す。人を訪ねるとはこんな風だろうか。
「どなたかいらっしゃいますか」
「はいはい、今行きますよ」
ぎぃ、と軋む音がして扉が開く。窓から見た老婆が腰を上げて出迎えてくれた。私は少し悩んで、「休む場所を探しているんです」と言った。
「まあ、今時旅人さん? まあいいわ、お入りなさい」
品の良い人だと思った。癖のある少し跳ねた白髪で、全体的な印象がこぢんまりした小柄な女性だった。顔中皺だらけで、過ごしてきた年月の長さを物語っているかのよう。穏やかな口調から、育ちの良さがにじみ出ている。
私は老婆に案内されて家に入った。中は外から見た通り、木目調の穏やかで温かみのある家だった。暖炉があるから部屋も暖かい。
「旅のお客様ならもてなさないと」と老婆は私を歓待してくれた。暖炉近くの良い椅子に座らされて、お腹は空いてない? と聞かれる。シチューがあるのよ、という言葉を聞くや否や急にシチューの香りがしてきた。さっきまでこんな匂いはしなかった。確かだ。しかし、まあいいか。
「ありがとう、お婆さん」
「イマイでいいわよ」
それが彼女の名前だった。
イマイが運んできたシチューはホカホカと湯気を立てていて、クリーミーな匂いが鼻腔をくすぐる。見てみると大きなにんじんやじゃがいもがゴロゴロ入っていて、いかにも美味しそうだ。具沢山だ。木皿と木のスプーンでシチューを頂くと、まろやかな味が口いっぱいに広がり、幸せを感じた。こんなに美味しいシチューは食べたことがない。そもそも夢の中で食事をすること自体あまりない。私は賛辞の意味を込めて、「料理人だったりするんですか」と聞いた。
イマイは恥ずかしそうにやめてくださいよと言う。
「ただの主婦ですよ」
シチューは息子の好物でよく作ったのだと彼女は言った。私が、息子さんいるんだ、と呟くと、年を取ってからできた一人息子なのよと話してくれる。
「なんだか今日は体が軽いわね。散歩でもしようかしら」
イマイが腕をぐるぐる回して肩を動かしている。夢の主にくっついていくのは私の趣味なので、散歩にお付き合いしますよとついていった。断られても付きまとうつもりだったが、イマイは快く承諾してくれた。
なだらかな丘を下ってのんびりと歩いていると、なんだか懐かしい、とイマイが言い出す。空中が揺らめいて見えて、世界にイマイの記憶が溶け出していく。
隣を歩いていたイマイが、二重に女性の姿と重なる。その女性は黒髪で腰も曲がっておらず、何の障害もないようにすいすい歩く、若い人だ。小さな男児の手を引いている。イマイの過去の姿だろう。シルバーヘアのイマイと黒髪のイマイが重なる。
人の夢の姿は現実のように一定ではない。
男児が急に走り出した。イマイはだめよ、と制止する。追いかけて走り出す彼女の後を追う。彼女は立ち止まる。男児の姿はどこかに消えてしまったのに、微笑んでいる。私に優しく手を差し伸べてきて、私は何も考えずにその手を取った。途端、なんと男児の名前で呼ばれる。そのまま川辺を歩くことになった。流石に恥ずかしくて、つないでいない手で顔を覆う。
私には親もおらず、子供時代もないが、もしあったならこんな風だったのだろうか。イマイは歌を歌っている。
ふいにしわがれた声が喋り始めた。息子は年を取ってからの子で、目に入れても痛くない子だった、と何やら感慨深い様子で。過去のイマイと現在のイマイが混ざっている。
日も暮れ、もう家に帰りましょうと言われる。うん、帰ろう、と返事をすると、徐々に世界の輪郭がくっきりしてきて、イマイが夢から覚めた。
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