ダカタ4

 恐怖がないとは言えないが、順調に登り続けている。私が落ちて死ぬことはない、と断言できるだけの強い気持ちだ。

 登りながら話をするのは骨が折れるが、私は声を張り上げた。

「私は人間の夢を渡り歩く存在。特定の姿はないし、自由に姿は変えられない。私はダカタの目にはエリに見えていたようだけど、それはダカタがエリに……会いたがっているからだ、多分」

「多分ってなんだ多分って!」

 登ってくる私に気付いたのか、巨木の邪魔が入るようになった。前の黒い影のように致命的な攻撃はしてこない。私がエリの姿だからか。邪魔な枝はへし折って進む、進む。

「この世界に私しかエリがいないのは、目が見えるエリに会いたくないから。エリはもう手術をしたのか? 喧嘩したのはそのことだろう?」

「……もう終わった。エリには会えない…………」

 ダカタの姿が見えた。混乱しているようだ。木の頂上では鳥の巣のように蔦が固まっている。

「会えよ! エリはもうお前の顔の秘密を知っている。周囲の反応を見れば、何かおかしいのはすぐにわかるからな」

 細い枝を伝い歩き、ダカタの形成した巣へとたどり着いた。

「彼女の俺を見る目が変わるのが怖い。彼女だけは、本当の俺と向き合ってくれた」

「目が見えないからか。お前は目が見えないからエリが好きなの? それってとても失礼だ」

 すぐ近くまで来た。ここでようやく私の息が切れる。さっきまで集中していたから呼吸を忘れていたかもしれない。

「そんなことはない、俺は彼女の人柄が……好きだったはずで」

「なら目が見えたっていいじゃないか! それとも何か、お前の顔見ると呪いにでもかかるのか。あのな、世の中顔だけじゃない。彼女だってお前の顔がピカソの絵みたいでも人格を好きでいてくれるんだろう?」

 泣き顔のダカタが振り返った。予想していた醜い顔ではなく、むしろとても美しい顔立ちだった。今はぐしゃぐしゃだけれども。そうか、逆だったか。

 やっぱりくだらないことで悩んでいた。吹き出して笑ったら、ダカタは涙を流しながら呆然としていた。自分の首を触っていたから、もう、首があることを自覚しただろう。

 顔を見て笑われることはあまりない、とダカタは呟いた。


 顔が綺麗だと、ストーカー被害、遠巻きにされる、逆に粘着される、人間関係のドロドロした部分に巻き込まれる等の被害が多くあったと彼は言う。

 視線が怖くなって精神科に駆け込んだら、その顔だったら仕方が無いと。薬も出されずに、とりつくしまもなかったという。真剣に悩んでいるのに、人に相談しようものなら自慢だと悪評を流される。ダカタは人に好かれるが、同時に「顔だけの奴」だと馬鹿にもされていた。少なくとも彼にはそう思えた。

 顔の見えないエリだけが、彼の心を癒やしてくれたのだ。誰にでも腰が低く、心優しく、少し気が弱いエリ。そのエリが手術を決めた。もうダメだ、とダカタは思った。現実のエリの前から姿を消した。

「でも冷静に考えてみて? 目が見えるようになる手術をしたら恋人に会えなくなるって酷くない? お前が辛い目に遭ってたからって彼女まで悲しませていいわけではないよ」

「……なんて呼べばいい? エリじゃないなら、お前のことを。っていうかもしかして男だったりする? 喋り方が……」

「私に名前はないし、性別もないんじゃない? お前で良いよ」

「……俺がお前のことをエリだと思い込んだのが今となってはおかしくてならない。今はお前が小学校の時の先生に見える」

「小学校教師みたいに教えてやるよ。ダカタは自分の恋人を馬鹿にしてる馬鹿だ。盲目だから好きだったわけじゃないんだろう? 好きだから夢にまで見たんだから」

 ダカタは自虐的に笑った。悪人のようなその表情すら、確かに魅力的に見える。でもこいつさっき鼻水垂らして泣いてたから。

「俺が馬鹿か。それにエリを馬鹿にしてるって?」

 ダカタは緑の巣の中で体育座りをして、下を向いた。

「その通りだ……」

 巣は瓦解した。巨木が崩れていく。木くずのようにバラバラになって、私もダカタも空を落ちる。青空の何カ所かにはヒビや欠けがあり、その中の一つに、前に見た女性エリがダカタを探し回る現実の光景を見つけた。大量の木くずは花となり、私たちは痛みも無く地面に降り立つ。

 久々の地面はふかふかしていた。


 そろそろこの夢を出ようと思う。ダカタにそう伝えた。

 ダカタは、本物のエリには謝りに会いに行くと言った。お前には会いたくない、人のコンプレックスを笑いやがって、と言っていた。いいよ、エリに会いに行きなよ。

 たくさんの植物が花になった。ビル群に花畑だ。私は夢の端までゆっくり向かった。世界が明朗になる。ダカタが夢から覚めたようだ。


 首はあるが、顔の見えない人に会ったことがある。黒く塗りつぶされた男で、というのも声が低かったから多分男性なんじゃないかと思うんだけど、その人は雪山にいた。旅人だった。

 たくさんの街を、国を、自然を旅した話をしてくれた。雪山の狭い小屋の中で、火を囲んでずっと話をしていた。いつまで話しても飽きる時は来なかった。どうやったらそんなにたくさんの経験が出来るのか、と私は聞いたが、君も僕以上にたくさんの物事を知れる、と話してくれた。

 その頃の私は、人間の夢に住んでいたが、散策や詮索はしなかった。中々移動もしなかったし、夢の主を避けて少しずつ夢を移動していた。自分の存在がわからなかった。世界が怖かった。誰も何も教えてくれなかった。

 黒く塗りつぶされた雪山の夢の主、あの旅人に会ってから、私は好奇心を増大させた。私もお酒を飲んでみたい。美術品のあふれる回廊をゆっくりと歩きたい。苦労して山を登ってみたい。あの人のように、旅をしたい。

 私は夢を旅する者となった。

 叶うなら、もう一度あの旅人に会いたいと願う。たくさんのことを教えてくれた。

 人間の心理は難しい。私が見てきた世界を話したい。だけど、もうどこにいるのかわからない。夢を移動するのは完全にランダムだ。この世の人間の数だけ、夢の世界はある。その数のうちの一つだけが当たり、あの雪山の旅人。私はずっと、夢を見る。

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