04:ヒルッカ、飼い主として頑張る
子犬を幸せにする、と決めたはいいものの、決して簡単な話ではなかった。
まず死なせないことが前提になる。当然ながら雨風をしのげる寝床があればいいというものではなく、何より命を繋ぐのに欠かせない食糧の入手を急いでしなければならない。
「私一人なら我慢すれば果樹園の果実だけで足りたけど……」
そう言いながら、ヒルッカは屋敷の方へと目を向けた。
伯爵家の娘として迎え入れられて数年の間は、肩身が狭い思いをしながらも暮らしていた場所。
そこにはきっと、子犬の腹を満たす何かがあるだろう。厨房に行けば、もしかすると何かもらえるかも知れない。
その代わり、ヒルッカを疎む伯爵夫人や義兄がいる可能性がある恐ろしい場所でもあるのだけれど。
(私は飼い主になるんだもの。子犬のために、頑張らなくちゃ!!)
婚約者にすら嫌われ、売り飛ばすための価値さえ有していない役立たずだと思われているだろう。
ますます反感を買っているだろうが、怯んではいられなかった。
いざ、エルミネン伯爵家へ――――――と、その前に。
飼い主といえば、もう一つやるべきことがある。
それは子犬への名付けだ。いつまでも子犬呼びでは、素っ気ない気がするのだ。
「うーん……何がいいだろう」
ふわふわとした純白の毛並みで包まれた、もふもふな体を
白。白に関連する名前にしよう。伯爵令嬢になって学ばせてもらっていたわずかな知識の中にあった他国の言葉を思い出す。
「ビアンコ、それともヴァイツ?」
あまりしっくりこなかった。
「君は女の子? 男の子? 顔つきからして多分、男の子だよね。それなら、ブランなんてのはどうかな」
言ってみて、悪くないように思えてくる。
子犬はなんとも言えない顔をしていた。けれど、吠えない。
「いい……の?」
「――――」
「良かった……。あ、そうだ。私はヒルッカ。ヒルッカ・エルミネン。フラン、よろしくね」
この日から子犬はフランとなった。
名づけも終わった。これで正式に、フランはヒルッカのものだ。
フランとしてはまだヒルッカを飼い主を認めては如何にだろうけれど、信用を得られるかどうかはこれからの行動にかかっている。
名前を呼べるようになった毛むくじゃらに微笑みかけ、小さく手を振った。
「じゃあフラン、行ってきます」
言葉が通じるとは思わないが、「大人しくしててね」とお願いしてから、家を出る。
納屋の中にしっかり閉じ込めたので、フランが逃げ出すことはないはず。それでもさすがに暴れ回ってただでさえボロボロの壁面に傷をつけられたら困るので、そうならないことを祈るばかりだ。
昨日洗った亜麻色のドレスを纏い、同色の髪を揺らしながら、ヒルッカはひっそりこっそり屋敷を目指した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
厨房を見つけるのは意外と簡単だった。
香ばしいパンの香りを辿ればすぐ着けた。
じゅるる、とうっかり涎を垂らしてしまいそうだ。
茶会の席すらパサついたクッキーのようなものしか与えられなかったヒルッカにとって、本当に久しく嗅いでいなかった匂い。欲しくて欲しくてたまらなくなって、必死で自制する。
コンコンコン。
微かにノック音を響かせると、厨房の勝手口から一人の少女が顔を覗かせた。
「何です? 今の音」
黒いドレスに白のエプロンドレス姿だから、おそらく料理メイドなのだろう。
「どうした?」と別の――料理長か誰かの声が聞こえてきたが、彼女は答えない。
ヒルッカを見つけるなり、外へ飛び出してきたから。
「ここはエルミネンのお屋敷ですよ。どこから入り込んできたんですか。こんなところにいたら……」
「食べるものを、恵んでください」
メイドの少女はヒルッカを知らないのだろう。わざわざ心配してくれるとは親切な人だ。
彼女の言葉を遮るようにして、ヒルッカは頭を下げる。
「少しのお肉と、それから野菜の種を。昨日お腹を空かせた犬を見つけたから、その子にあげたいの。でも、お金がなくて」
断られたらどうしよう、と思った。
厨房で作っているのは伯爵家の人々と、使用人たちの料理だ。知りもしないヒルッカにくれるような残飯が果たしてあるのだろうか?
だが、メイドの少女は「帰れ」と突っぱねたりはしなかった。
「そういうことなら」と言って、厨房へ戻っていく。
再びヒルッカの目の前に現れた彼女は、骨付き肉が詰まった袋を腕に下げていた。
「廃棄予定の肉類ですが、どうぞ。野菜は犬にとって毒になるものとならないものがあるので、すぐには用意できません」
「……ありがとう」
「三日後にでも、また来たら渡してあげますけど」
メイドの少女は、『犬のため』とヒルッカが言ったから助けてくれただけなのだと思う。
それでもヒルッカは、泣きそうなくらい嬉しかった。
「また、来てもいいの?」
「あまり良くはないですけど、いいですよ」
良かった。これで子犬と自分の命は永らえられる。
無事に飼い主の務めを果たせることに心から安堵した。
余談だが、帰って骨付き肉をあげると、フランはたいそう喜んだ。
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