03:ヒルッカと子犬の出会い②
「悪いけど晩御飯はあげられないし、このまま寝ようか」
「ウゥ〜……」
薄暗い部屋に、木屑と火付け石で明かりを灯して回った。
普通、照明器具は主に貴族の屋敷ではシャンデリア、平民の家でもランタンを用いることがほとんどだが、このボロ小屋にそんな上等なものがあるわけがないのだ。
それが終わると濡れたドレスを絞って乾かし、寝床の用意を行なう。
今夜、この小屋で夜を明かすのはヒルッカだけではない。けれど残念ながら浅布は一枚しかないので、ドレスを脱いでそれを子犬の寝床とした。
代わりに衣服は申し分程度の下着だけになってしまったが、明日になるまでは誰にも――子犬以外には見られないから、問題なかった。
そんなこんなしているうちに雨は激しくなり、建て付けの悪いボロ小屋の壁の隙間をすり抜けて降り込んでくる。
ごうごうという風の音と共に建物ごと大きく揺れ、その都度ヒルッカは身を固くしてしまう。
嵐の夜など別に初めての経験ではない。なのに今日はやけに心細く感じた。
希望になってほしかった婚約者からはろくな扱いをされず、自分が孤独である現実を突きつけられた日だったからかも知れない。
頭から浴びせられた熱々の紅茶よりもずっと、彼の心ない言葉は痛かったから。
ヒルッカは不安から逃れるようにして身を横たえ、部屋の明かりはつけたまま、両耳を押さえながら目を閉じた。
嵐の音が聞こえなくなっても何が解決するわけでもない。だが、眠りの世界に行けることを――その先でひとときの安らぎを得られることを期待するしかなかったのだ。
期待するしかなかった――のに。
つん、と濡れた何かがヒルッカの首元を突いた。
突然のことに驚いたヒルッカはハッと飛び起きる。そうして、突いてきた相手を見た。
子犬だ。
ドレスを脱いでまで寝床を用意してやったというのに、わざわざヒルッカの元まで来たらしい。
不安げな表情で尻尾をしきりに揺らし、小窓から覗き見える外を睨みつけている。
その鼻先がつんつんとヒルッカを突いてくるのだ。
ここから逃げたい、とでも言うように。
(本当に、この子犬は私に似てる)
気づけば、ヒルッカは子犬を抱き寄せていた。
優しく包み込むように。
ふわふわな毛で覆われた体の柔らかな感触と心地良い温度を抱きつつ、ぎこちないながらに笑みを作って見せる。
(私が情けない姿を見せていてはいけない)と強く思った。
「こんなところでごめんね」
ヒルッカではなくもっとちゃんとしたお嬢様だったなら、今にも崩れそうなボロ小屋の中で夜を明かさずに済んだのに。
もっとマシな声かけをしてあげられただろうに。
「ごめんね」
何も持たないヒルッカは、何も持たない子犬にしてやれることがない。
名前も知らない、というかそもそも名付けられてさえいないだろうから、呼びかけることすら叶わない。
ないけれど――独りきりではないという安心感で守るくらいなら、と思い、そっと頭を撫でる。
本当は独りになりたくなかったのはヒルッカの方だということにも、震えがおさまっている事実も、見て見ぬふりをしながら。
そのまま、ヒルッカと子犬は一晩中寄り添い合っていた。
子犬が喜んでくれたかどうかは不明だが、決して嫌がることはなかったのだけは確かだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝。
雨風が止んだ小窓の外の空は清々しい青で、森から小鳥の囀りが響いている。
ヒルッカはいつになくあたたかな目覚めを迎えた。
天気の回復のおかげだけではない。むしろ原因の大部分は、胸に抱いている温もりの方。
見ると、真っ白な子犬が小さな寝息を立てていた。
「かわいい」
思わず小さく呟いてしまってから、こてんと首を傾げる。
「――かわいい?」
自分がそんな感想を持った理由がわからなかった。
昨日は泥まみれで冷たかった毛むくじゃら。
それがどうして、こんなにも愛おしく思えてしまうのだろうか。
(でも、もう出て行ってもらわなくちゃ)
二度と荒らされないように、果樹園を守る方法を見つけ出そう。
そう考える一方で、嫌だな、と思った。
次に雨が降ったらもう、助けられないかも知れない。
誰にも助けてもらえないことほど辛いことはないと、ヒルッカは身をもってよく知っていた。
ヒルッカが救われることは、おそらくないと思う。このボロ小屋で死なない程度に生き延びて、婚約者に罵られながらも結ばれて、みじめに一生を終えるに違いない。
でも、せめて。
「この子は、私が幸せにしてあげたい」
責任を持って面倒を見られるのかと問われれば、残念ながら否だ。本当はヒルッカが関わるべきではなかった。
けれど、もう関わって、一晩を共に過ごしてしまったから――放っておけなくなってしまったのだ。
ヒルッカは生来のお人好しというやつであった。
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