02:ヒルッカと子犬の出会い①

「ウゥ〜ッ!!」


 牙を剥き出しにして、高く唸る毛むくじゃら。ごわごわの尻尾は垂れ下がり、体に巻き付けるようにして後脚の間に挟まっている。


 それが威嚇という行為であることをヒルッカは知らない。だが毛むくじゃらの赤い瞳は怯えを帯びているように見えて、怖がられているのだと察した。

 無防備なヒルッカを毛むくじゃらが怖がる必要はないし、逆に襲い掛かられたらヒルッカはひとたまりもないのだけれど。


 果樹園の近辺で、この毛むくじゃらを目撃したのはこれで初めてだった。そもそも荒廃しているせいで獣すら寄り付かない場所なのだ。

 どこから迷い込んできたのだろうか。果樹園に漂う微かな甘い香りに釣られたか。


 長時間、雨に打たれ続けたのだろう。小さな体からはひんやりとして、泥やら果汁やらで鼻が曲がりそうな悪臭を強く放っている。


(どうしよう)


 果実を勝手に食べたことを怒ろうかとも考えた。が、相手は毛むくじゃらだ。何か言ったところでどうなる?

 かといって、このまま「しっしっ」とすげなく追い払ってしまえば、残りの実を喰らい尽くして、それでもなお空腹と雨で弱って死んでいく未来しか見えなかった。


 この小さな毛むくじゃらにとって、森は過酷だろう。きっと生き延びられない。その場合、ヒルッカ自身も餓死すること間違いなしだから最悪だ。


 毛むくじゃらの綺麗な赤い瞳とじっと見つめ合う。

 その間もずっと毛むくじゃらはこちらを警戒するように唸り続けていた。


 寒さと恐怖に身を震わせている、ひ弱なケダモノ。

 そんな毛むくじゃらの姿が、なんだかヒルッカ自身と重なり――。


「大丈夫?」


 気づけば、毛むくじゃらに話しかけてしまっていた。


 だって、可哀想だったのだ。

 うっかり可哀想だと思ってしまったのだ。


(訳のわからない毛むくじゃら相手に、何を考えているんだか。……それに、私には憐れむ権利なんてないのに)


 家族に虐げられ、婚約者にすら嫌われた挙句、ズタボロになっているのがヒルッカである。

 憐れさや不幸比べをするならどっこいどっこいだし、毛むくじゃらの心配などしている場合ではないというのがヒルッカの現状だった。


 すぐに我に返ったものの、毛むくじゃらの唸り声はピタリと止んでいて。

 もはやなかったこと・・・・・・にはできなくなってしまった、そんな気がした。ヒルッカはひどく後悔したが、今更遅い。


「わ、私の住んでるところ、来てみる? 何もないけど、雨をしのぐくらいなら、できるよ」


 こくん。


 毛むくじゃらは、ヒルッカを怪しむように見回して、やがて躊躇いがちに小さく頷いて見せた。

 まるでヒルッカの言葉がわかるみたいに。


 これが、ヒルッカ・エネルミンと毛むくじゃらなケダモノの、密かな関係の始まりとなったのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ヒルッカの暮らすボロ小屋はうっすらと埃が積もっている。

 お屋敷と違って使用人が掃除してくれることはないし、自分で掃除しようにもろくな道具がない。洗濯前の服を雑巾代わりにして床を拭き、生活していくにおける最低限の衛生環境を整えているだけだ。


 それでも、さすがに泥まみれの毛むくじゃらを家に上げたくはないので、すぐに洗ってやる必要があった。

 ついでに紅茶まみれになったヒルッカ自身も。


「ガァァ、アゥ〜」

「ごめんなさい、暴れないで」


 納屋の軒下、生活水にする目的で貯めている水桶の中の雨水に自分ごと浸かり、毛むくじゃらを磨いていく。

 逃れようとする毛むくじゃらを抑えるのが大変だった。


 その一方で、どう洗っていいのかよくわからなくて恐る恐る撫でてみると、水に汚泥が溶けていき、まるで光り輝くような白の毛並みが現れる。

 ひととおり洗い尽くされた毛むくじゃらは首をすくめ、ぶるぶると水気を飛ばす。それだけで乾燥は終了したらしかった。ヒルッカはずぶ濡れのままだったが。


 汚らしいケダモノでしかなかった毛むくじゃらがようやく本来の姿を取り戻した瞬間、ヒルッカは気づく。


(この毛むくじゃら、もしかして……?)


 そういえば平民時代に見かけたことがある。

 ふさふさの毛を持ち、耳がつんと立っていて、鋭い牙とふさふさの尻尾が特徴的な動物。主に狩猟のために飼われている生物……犬によく似ていた。

 ヒルッカがかつて見た犬よりずっと小さい。子犬というやつかも知れない。よく見てみれば可愛らしかった。


(犬は人間が飼うくらいだもの、一晩くらいは大人しくしてくれるよね)


 少し安心しながら、ヒルッカは子犬と共に家の中へ足を踏み入れた。

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