虐げられ令嬢が幸せにされるまで 〜拾って育てたワンコ殿下からの愛が重過ぎます〜

柴野

01:虐げられ令嬢ヒルッカ

「お前が僕の婚約者だって? 冗談じゃないッ!」


 がたん、と机を叩き、不愉快げに顔を歪めた少年が勢いよく立ち上がる。

 その音に怯えて震えながら、ヒルッカは頭を下げた。


「カレルヴォ様、ごめんなさい……」

「それに聞いたぞ。お前、卑しい平民の血が混ざっているんだってな。せめて美しいなら認めてやったものを、なんだその格好は!」

「え、えっと、これ……は」


 俯き、足元を見やれば、亜麻色のドレスが揺れていた。

 粗末な上に裾が大きく切り裂かれた、見るに耐えないドレスが。


 本当のことは言えなかった。だって遠目から監視しているメイドが告げ口して、義母や義兄から酷い目に遭わされるのがわかりきっていたから。


 黙りこくっているのが気に入らなかったのだろう。「言い訳すらできないのか!」と激昂した少年は、机の上の紅茶のカップを投げつけた。


 ――バシャッ。


 頭から熱いものを浴びせられたヒルッカは、ただただ歯を食いしばってグッと耐えた。

 これくらいよくあること。だから声を上げたりはしない。


 目からほろりと涙がこぼれたけれど、髪の毛から滴る紅茶にまぎれて気づかれなかったはずだ。


 婚約者ができたら何か変わるんじゃないかと思っていた。でもそんなのは、ただの希望でしかなかったらしい。

 ヒルッカ・エルミネンは十歳にして、安易な救いなどないと知ったのである。




 エルミネン家に入れられる時に逃げなかったのが悪かったのか。そもそも生まれてきたこと自体が間違っていたのか。

 伯爵の愛人の子として生を受けたヒルッカは、平民の娼婦だった母の死を機に伯爵令嬢となり――そこでひどく虐げられた。


 幼いヒルッカには理由がよくわからなかったが、夫が連れ込んできた愛人の子を憎んだ伯爵夫人の感情は自然なものだったのかも知れない。

 伯爵家の娘ともなれば普通なら煌びやかな生活を送るものだろう。しかし実際はその真逆だった。

 食事を抜かれ、些細な失敗で鞭打たれ、便乗した義兄たちに足蹴にされる。そんな毎日が数年間続き、とうとう共に住むことも許されなくなって。


 納屋に押し込められて毎日を過ごしている。


 せっかくできた婚約者の少年――カレルヴォからは初見で嫌われた。ボロボロのドレスは義兄の悪戯のせいだとしても、悪印象を与えてしまったのは事実。

 この先もずっと納屋暮らしは変わらないに違いない。


 初顔合わせは屋敷の客間で行ったが、終わったらすぐに戻された。

 切り裂かれて紅茶にまみれた最悪のドレスを着替えることすらできない。元々、服は一着しか与えられていないのだ。


(寒いなぁ……)


 火傷した肌をさすりながら、はぁと白い息を吐く。


 しとしとと雨が降り出し、立て付けの悪い扉の隙間から身を切るような冷たい風がびゅうびゅうと吹き込んでくる。

 濡れて冷えた体がますます熱を失っていくようだった。


 さらには寒さに震えているうちに空腹まで襲ってくる。

 当然のように誰も食事を運んで来てはくれないから、たとえ雨が降っていても、食料は自分で得なければならない。


 伯爵家の裏、納屋から歩いてすぐのところに果樹園跡がある。

 長らく管理がなされておらずお世辞にも美しいとは言い難いが、ヒルッカの命を繋いでくれる大事な場所だ。

 ただ、今日のような雨の日は濡れ鼠になってしまうけれど……どちらにしても冷え切っているのだから同じだ。


 ヒルッカはふらふらと立ち上がり、まだ短い足を必死に動かして、納屋を出た。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 幸せか否かで言えば、決して幸せではないだろう。

 でも今日のことで諦めがついた。自分が幸せになるなんて無理なのだ、と。


(このまま逃げられるわけもないし、ね)


 果樹園跡を含む屋敷の周囲の四方をぐるりと取り囲む、背の高い柵を見上げる。

 ヒルッカの背丈ではとても乗り越えられない。子供な上に痩せ細っているヒルッカでも、柵の間を通り抜けるのはさすがに不可能だ。

 外には広大な森も街も見えるのに、ヒルッカには手が届かない。


 虚しさを誤魔化すように果樹園跡の隅の方、そこにひっそりと成る実を摘んで口に運ぶ。

 まだ青いせいだろうか。わずかに舌が痺れたが、それでも空腹でいるよりはマシだ。


 飲み下し、次のを食べようとしてしゃがみ込み……気づいた。雨でぬかるんだ地面いっぱいに果実の汁と皮が散乱していることに。


 どう考えてもおかしい。

 熟れて勝手に実が落ちたにしては時期がまだ早く、そして五つ以上の実が割れ砕けていた。


(なんてもったいない!!)


 とうとう義兄たちの嫌がらせの魔の手がここまで伸びてきたのかも、と考えて、ゾッとする。

 さすがにヒルッカが死ぬのはまずいのか、嫌がらせをしてくる義母や義兄も、無視を決め込む父も、果樹園にまでは手を出してこなかった。それが今日の件で腹を立て、婚約者にさえ気に入られない役立たずだからと死に至らしめてもいいという考えに変わったのだとしたら?


 そう考えると胸がギュッと苦しくなった。

 幸せではないけれど死ぬのは嫌だ。食べられなければ死んでしまうことくらい、十歳のヒルッカは当然知っている。


 木の実が熟れる前に全て叩き落とされて、今食べたのが人生で最後の果実になるのではないか。

 最悪の想像をしかけた時――ヒルッカの耳に、鋭い声が届いた。


「ワゥ、ワンワンッ! ウーッ!」

「――っ!?」


 あまりに突然で、驚きのあまりどすんと尻餅をつく。

 そんなヒルッカにナニカが凄まじい勢いで飛び込んできた。


 すぐには何が起こったのかわからなかった。

 わからないままに受け止めて、引き寄せて、初めて対面する。

 鋭い牙に赤い瞳。雨に濡れそぼり全身を泥と果汁で汚した、真っ白な毛むくじゃらの生き物と。


「何、これ……?」


 ヒルッカがそう呟いてしまったのは、仕方のないことだった。

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