トー横青少年救済論

にわかの底力

トー横青少年救済論

 JR新宿駅東口を降りて直ぐ、都道414号線を南西に進めば、夜も眠らぬ繁華街、歌舞伎町一番街の輝かしい看板を見ることができる。街の明るさと裏腹に、その実通りは飲食店の玄関先に溢れ出た生ごみの腐乱臭と、酒に酔った若者の雄叫びで溢れかえった、都会の影を最大限反映させた景色が広がっており、日昼活動する者どもにとってはまさに異世界とも呼べる空間がつくられていた。


 新宿東宝ビルの屋上に聳え立つ、我が国を代表する特撮怪獣映画、その主役を担う怪獣ゴジラの上半身が見下ろすライオン像の広場に、深夜であるにも関わらず、まだ年端いかぬ若者たちが集っていた。地面に座り込み、自撮り写真や動画を撮り、中には酒や薬に手を出す少年少女も見受けられた。彼らはしばしばトー横キッズなどと呼ばれている集団である。なぜ彼彼女らはそこへ集うのか。やれマスコミなどが行う『家庭内暴力』やらで居場所を失ってしまった子供らが集うなどと言った報道は、確かにそれはその通りであろうが、彼らに対し誤解を生むような表現であるようにも思える。第一、日本はそうした環境において最大限の救済措置を講じている。無料児童相談所や電話ダイヤル、児童施設を設け、そうした子供たちの居場所を提供すべくあらゆる福祉支援を行っている。そう言ったものに一切頼らずして彼彼女らはあそこに集うのだ。何がそうさせているのであろう。決まっているではないか、彼彼女らは大人への反抗心、国家への反逆心を募らせて、あそこへ集っているのだ。


 元来子供は大人に反逆するものである。それは健やかなる青少年の心の成長過程であるとともに、人間社会を大人たちの凝り固まった脳みそから解放すべく編み出された浄化機能である。彼彼女らは大人たちの発言や言動に対しては、その是非を問わず反抗したがる精神を持つ。否、彼彼女らが行う反抗が正しいなどということは、そうそうに訪れない。なぜなら、『正しい』や『誤り』の基準は大抵、大人たちが決めているからだ。


 家出の経験はないであろうか。私はある。つい数年前の事である。親戚の家が幾らか集まる正月三箇日の出来事だった。親との言い争いの原因は、今思えば大したことない些細なものであったが、当時私はこの世の理不尽を凝縮させた塊のようなものを、両親の目から感じた。私は親戚から頂いたばかりのお年玉──お小遣い制が無かった私にとっては、このお年玉は貴重な財源であり、はてこのカネで何を買ってやろうかと心躍らせていた──をポケットに仕舞い込むと、そのままの勢いで家を飛び出した。正月の三日目であったこともあり、商業施設は今年の営業を始めていた。私は近所のパチンコ店に駆け込み──ちなみにこの時はまだ高校生だった──、打ち方も大してわからんまま台に座った。頂いたばかりのお年玉をあっという間に全額使い果たし──集まった親戚が多かったため、総額は二万三万あったと思う──、全負けした。空になったポケットに手を突っ込むと、急に虚しさが込み上げてきて、誰もいない近所の廃れた公園のベンチで横になり、そのまま夜になった。いくらか気も落ち着き、とぼとぼと家を目指すその道中は、親に対してどう謝ろうかと考えていた。一から自分が誤りであったことを己でもわかっていたのだ。玄関には鍵がかかっていたので、インターフォンを押した。玄関に顔を出したのは親戚であり、「帰ってきた帰ってきた」と笑みをこぼしていた。広間にいくと両親含め、親戚一同皆笑って私を迎えた。薄情なことに両親は、私が返ってくることを確信しており、探しにすら行かなかったのだ。結局──何に使ったとは言わなかったが──お年玉を全額使用したことを白状したところ、家出の原因となったものより一層激しく怒鳴られた。


 彼彼女らの両親のことは知らないが、少なくとも学校の先生や周囲の大人たちの言うことは、一部の異常なケースを除いて大抵正しいことであるはずであり、国が行う児童福祉政策も、これまた正しいはずなのだ。私と同じく、彼彼女らもまたその正しさには気が付いているはずである。少なくとも、未成年でありながら酒に手を出したり、身を削って薬を過剰摂取することが正しいはずがないことなんてのは、彼彼女らにもわかることであろう。彼彼女らがあそこに集うのは、反抗すべく大人たちが彼彼女らに正しい行いを求めているから、その正しさに反抗し、間違った行動を進んで行っているからに過ぎない。よってこの不屈の反抗精神は『正しさ』を武器に太刀打ちできるものではない。よって今の行政のやり方では不十分なのだ。第一、所謂トー横界隈は青少年らの解放区である。規定された国家権力に縛られず、日本の法律だの条例だのが通用しない、彼彼女が構築した秩序の中にある彼彼女らだけの理想郷なのだ。抑えきれぬ彼彼女らの反抗心を一心に受け止める砦なのだ。折角手に築き上げた砦を易々と手放し、おとなしく行政の打ち出す政策に彼彼女らが協力するわけが無かろう。


 サルトルは嘔吐のなかで自他の関係の難しさについて説いた。自分が理想とする他者は自分の思い通りにできる他者であり、現実そうはいかぬから、そこに他者との関係の難しさがあると。彼彼女らにとって大人がまさに、自分らではどうにもならない存在であるのだ。正しさと言った覆りようのない権力を持つ大人たちを、彼彼女らは面白がるはずがない。だから彼彼女らは法令違反と言う暴力的な手段でもってそれら権力に対して対抗するのだ。思い通りにならない相手に対してはそれを敵視して、相手の要求に反して行動するより他ないのである。だからこそ、大人たちはそんな彼彼女らの要求に応えてやらねばならぬ。


 彼彼女らは大人たちが散々示してきた正しさ、或いはその正しさに準じた救済措置などと言うのは望んでいないのであり、寧ろその逆、彼彼女らは大人たちに対して徹底的な攻勢を要求しているのだ。正しさは彼彼女らが大人になった時に否応なしに気が付くことである。大人たちがしなくてはならないことは、大人なら大人らしく、その理不尽な絶対的権力でもって彼彼女らを排除しにかかることである。『それでは彼彼女らは路頭に迷うばかりではないか。』 いいや違う。彼彼女らが抱く不屈の反抗精神は元来人間の子供が持つものであり、排除すればするだけまたどこかで形を変えて現れるだけなのだ。これはイタチごっこで一向に構わないのである。話変わるがかつての全共闘や共産主義革命思想を持つ左翼集団が国家との抗争に敗れてかつての面影を失ったのは、彼ら自身は決してそう思ってはいないのかもしれない──寧ろあそこまで徹底的な抗争を見せられた後で、そうであっては欲しくない──が、彼らの掲げていた新しい主義思想が、実は彼らが信じていた万能なものではなかったということに世間が気づき、その運動を継ぐ次の世代が現れなかったためであり、機動隊との衝突を最後に見る影を失って然るべき存在であった。比較してどうであろうか。トー横に集う若者が持つ反抗精神は、端から正しさを求めていない。よってそこに、彼彼女らが信じる神話なんてものは存在しないのだ。大人は正しさという神話を信じる集団であるが故、心の枷を外した彼彼女らに大人が敵うはずがないのである。大人たちが行う実力行使の徹底攻勢によってトー横界隈は廃れ、いずれは見る影もなくなるであろうが、それは彼彼女らが抱く反抗精神の消滅を意味しない。


 大人であれば大人らしく、その絶対的権力を行使して、彼彼女らを徹底的に排除せよ! 

 道徳心や倫理をかなぐり捨てて、彼彼女らに理不尽を振りかざせ!

 

 彼彼女らが法令遵守の精神に背くのは、彼彼女らが合法的な立場に置かれているからだ。自らは非合法の立場でありたいのに、非合法の手段でもって非合法的存在に昇華しようとしても行政は人権保護を謳い彼彼女らを法の世界へ引き戻そうとする。だから一層彼彼女らは、非合法の世界に染まっていくのではないか。ならば、彼彼女らの築くこの界隈を、解放区と認め、再び大人の秩序の世界に戻すべく、彼彼女らを徹底的に排除しにかかろうではないか! 大人は彼彼女らの敵であり続ける義務がある。そんな彼彼女らの敵意を無視して歩み寄り、より深い非合法の世界へ押し込む方がよほど残酷ではないか。


 人は共通の敵を見つけた時、それに抗おうとする共通の意識が芽生える。そこには秩序が生まれ、共同体が築かれる。共通の敵が不明瞭な今、彼彼女らは自ら非合法な手段に出るより他ない。よって大人たちが再び、彼彼女らに敵意を見せることが重要である。それが、彼彼女らの反抗心、反逆心を健やかに保つ手段であり、彼彼女らに行える真の救済であろう。

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