(後編)
曹爽の事件が終わって、少しした頃だ。
驚きに、私は目を見開いた。
「……今、なんと……?」
長男である師は『何をそんなに父が驚いているのかがよく判らない』といった様子で、少し首を傾げながら言った。
「父上、聞き違えたのですか? どうして未だに禅譲を迫らないのか、と言ったのです」
まさか、本当に耳が遠くなったなどとは言わないで下さいよと、苦笑混じりに師は言った。
それに続き、昭も
「父上は決して時機を逃さない方。例え一瞬でも隙があれば、そこを攻める為に神速を以って動くではありませんか。……何故、曹爽という唯一の政敵を消しておきながらも帝位に就かないのです?」
と言ってくる。
私は、混乱しない様に『冷静になれ』と自分に言い聞かせつつ……今の二人の話を受けて言葉を返した。
「私が常に子弟達に言っている言葉、よもや忘れた訳ではあるまいな。天の季節でも推移するのだぞ? ましてや私の徳など……」
「だからこそ、今こそ好機なのではないですか」
師が言い募る。
「移り変わる前に、機を捕らえる。そうすれば司馬家も安泰です」
「安泰などと――『禅譲』を迫っておいてその様な事が言えるとでも思っているのか?」
「なに、どうせ今の皇帝など形だけのもの。このまま司馬の天下になっても何も変わりますまい」
……私はこの発言に、思わず声を荒げた。
「変わらぬのならば何故に天を欲するのだ! 今は漢が滅んだ時とは違う。既にどの様な政策でも、何の障害も無く実行に移せるであろう? それなのに、何故わざわざ帝位を移そうだなどと言うか!」
「それは……」
師と昭が、顔を見合わせる。
そして。
私は、起きながらにして『悪夢』を見たのだ。
「全ては我等、司馬家の繁栄の為です」
師と昭、兄弟揃って、晴れやかな笑顔。
にっこりと、嬉しそうに。
――これは、そう……
あの女、春華と同じ……!
「……そうか、そうだったか。お前達は春華の息子……」
自分の気付いた事を再認識する様に、呟く。
「春華が自ら死ぬと言った時にも、確かお前達は春華の味方をして、食を断っていたのであったな……」
思えば、既にあの時には師も昭も『春華の後継者』として、春華の思惑通りの子に育っていたのか。
「そして、まさか……」
考えを巡らせつつ、私は嫌な予感がした。
「まさか、春華が死んだ時から曹爽の一派が動き出したのも……?」
全て、春華の計略だったというのか?
春華を警戒している私の目を『政敵』だけに向けるには、春華の死が必要だと……!
俄かには信じ難い予測をしている私に向け。
春華と同じ笑みを浮かべた兄弟は、楽しそうに言った。
「父上、曹爽が邪魔だったのでしょう?」
「司馬家が権力を握る為には、消えて頂かなくてはなりませんでしたしねぇ?」
「けれど、これでようやく準備期間も終わりを迎え……」
「この国は、司馬一族の物に!」
無邪気な笑みで、とんでもない事を言う二人に。
私は、『私自身の後継者』が実はいないという事実に気付かされた。
息子達には『私の』では無く、『春華の』思いが託されている。最早、彼等は春華と同じく『司馬家の繁栄』のみを目指して生きる人間となっていたのだ。
これでは、私の存命中は押し留められても……私の死後、そう遠く無い未来でこの国は司馬家の物となる。
しかも、その為の道を整えたのは、他でも無い――私自身だ。
この国を富ませる為に尽力し。結果的に権勢は、絶頂を極めてしまっている。もう、後は形式上の手続きさえ完了すれば、ここは『司馬家の築いた新国家』へと変わってしまうのだ。
……こんな筈では無かった。
おそらく後世の者は皆、私を『魏を簒奪した者』の筆頭として挙げるのであろう。
結果を見れば、それは仕方の無い事だが……
どうしても、悔やまれてならない。
――司馬による国は、きっと長続きはしないに違いない。
盛満は道家の忌む所、必ず上り切った暁には降るしかなくなるのだ。
それに、我が一族の一体誰が『本当の国の統治』というものを極められるのだというのだろう……?
あの子達の様な考えの者共が創る新帝国――それは、きっと過去の失敗を繰り返してしまう結果となる。
なにしろ『導き手に足る者』もいないのだから――
……そうと判っているのに。私は、二人を止める事が出来ない。
既に七十年も生きている私に『残された時間』は……どう考えても、足りなさ過ぎる。
こういう時、先を見通せる自分の頭脳が憎らしい。『全てが終わっている事』『全てが終わってしまう事』。それが、皆判ってしまう。
私は絶望感で押し潰されそうになりつつ――子等の笑顔を見るに耐えられなくなり、そして目を閉じる事で眼前の光景から逃げ出した。
<終>
――――――――――
<後書き>
司馬懿簒奪説否定小説。
論文形式よりも読まれる機会が多くなる気がしましたので、書いてみました。
どうしても私は、『司馬懿簒奪説』は『何か違う』と思えてなりません。
やるからには確実に、それも迅速に事を進める人物が、わざわざ孫の代になるまで待つなんて……。
『司馬懿の一生』を見るに、それは違うだろうと思いました。
曹爽一派を潰すにしても、潰した後にしても、司馬懿が本気になって策を用いれば、もっとスムーズに事を進められた筈です。
しかし、あの位置(臣下)に死ぬまで甘んじていた。――それは何故か?
突き詰めて考えていくと『その気が無かった』としか思えませんでした。
そして司馬師・司馬昭……更には彼等の母親である張春華に着目してみたのがこの小説です。
実際、父親を諭す為に二人して断食の供をするなんて……そんな『自らの命も危険に晒す行為』にまで走ったのは、司馬懿よりも自分よりも張春華の方に並々ならぬ思いがあった為でしょう。そうで無ければ、まず『説得』等の手段に走ると思うのです。
そんな推測から、この小説は出来ました。
――ここまで読んで下さり、有難うございました。
死せる仲達、生ける子孫に諭せず 水月 梨沙 @eaulune
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