死せる仲達、生ける子孫に諭せず
水月 梨沙
(前編)
今でもあの笑顔が脳裏に焼き付いている。
私は妻――春華の葬儀が一段落したので、自室に入って一人溜め息を吐いた。
あれは、そうだ……私が曹操から出仕を促されていた時。春華は確か、十二歳だった。
ふいに笑みを見せながら、彼女は私に言ったのだ。
「そうそう、処理しておきましたわ、仲達様」
一体何の事を言っているのかよく判らなかった私が『処理とは?』と何気なく訊ねると、春華は『あの女ですよ』と答える。
女を処理。
更に詳しく尋ねてみると、どうやら春華は我が家でただ一人の下女を殺した、という。理由は、私が仮病であるという事実を隠す為。
当時の私は曹操の元へ仕えるのが嫌で、『病が重くて動く事も出来ません』と偽っていた。だが咄嗟に外に出てしまい、それを下女に見られたのだ。
しかしそれを隠そうとするのはともかく、何故春華が笑っているのか。理解に苦しんでいると、彼女は言った。
「どうして驚いた顔をしていらっしゃるの? 嫁いだ先の家を繁栄させるのが妻の役目ですのよ」
そう言いながら、にっこりと。
「あやつめは仲達様の中風が嘘であると知ったのですから、やがては司馬家に、災いをもたらす筈です。こうする他には無いでしょう?」
つまり春華は『災いの種』を取り除けたという事に対して『嬉しくて』笑っていたらしい。
その晴れやかな顔に、私は戦慄き――そして思ったのだ。
彼女は妻であるし、私に嫁いだからと『我が家』の事を考えている。しかし、それを補って余りある程に。この女は危険人物である……と。
――やがて私は徐々に、春華を遠退ける様になった。
どの様な理由であれ笑って殺人を犯すなど、それは人道に外れている。いくら夫婦であるとはいえ、そんな人間は顔も見たくない。
だが、それから何年も経ったある日の事。私が病に倒れた時、春華は見舞いに来た。
夫婦なのだ。それは当たり前の行動だろう。
けれど春華がその時に述べた言葉は、私を困惑させるに充分であった。
「仲達様、まだ貴方にはやるべき事が残っております。早く元気になって職務をなさって下さいませ。……それとももしや、このまま私の家を潰すおつもりなのですか?」
春華の言う『私の家』とは我が『司馬家』だ。
そう、彼女の中で『司馬家』は、既に『自分の家』になっていた。
見舞いと言いながらも春華は私の心配などでは無く、私の仕事……いや、私の働きによって博する司馬家の家名の心配をしていたのだ。
春華の言葉の意図を理解した私は彼女を罵った。あの様な事を言われて怒りを覚えぬ程、私は仁徳者では無いからだ。
しかし春華に文句をつけた後、あろう事か彼女は断食して自殺するなどと言い出した。……いや、これだけならば、まだ判らなくも無い。
この時の私が最も困ったのは、春華が己の産んだ息子達をも巻き込んだ事だ。
親思いの息子達は、母を死なせまいと、私を諌めようと、自らも食を摂らなくなり……私は、彼等の為に春華に頭を下げた。
当然、この謝罪は私の本意では無いし、逆に春華に対する警戒心は益々強まる一途を辿った――
そう。この様な妻が、ようやく死んだのだ。
その五十九年の人生の殆どを『自分の家』の名を上げようと画策していた女。
その為には、手段も選ばず道徳心も無かった女。
そんな春華が、死んだ。
私は、やっと肩の荷が一つ下りた気がして息を吐いた。
春華の死と同時期に、今度は曹爽めが腹心に唆されて大それた事を始めた。
曹爽とは、共に魏国を預かる者。この国は私と彼とが命運を握っているも同然なのだ。
それなのに、ここにきて曹爽は変わった。
「取り巻きを登用し、兄弟で近衛兵を握り、今までの制度を変え、朝政を独裁し……」
私は、曹爽のやらかした事々を呟きながらも苦笑してしまった。
「どう……なさったのですか? 父上」
「曹爽を、このまま放置なさるおつもりでは無いのでしょう?」
そんな私に二人の息子――師と昭が話し掛けてくる。
共に、立派に育った。曹爽といえば、私と今の魏のあらゆる事を二分する程の権力者だ。しかし、この様に味方する者の能力が違う……むろん本人も、長年の経験で策を自在に操れる様になった私の器と比すれば、能力が「無い」としても過言ではないだろうが。
しかし、油断は禁物である。
私は息子達の顔を見て、諭す様に言った。
「……お前達、良く聞くのだ。『時期』という物には誰も逆らえぬ。逆らおうとすれば、それは必ず失敗を招くのだ」
話しながら――私は国力も無いのにこの国へと攻め入り、結局無残にも散ってしまった過去の敵対者を思った。
彼の内政手腕や戦の布陣の仕方は『奇才』と賞賛するに相応しかったが、如何せん『時期』を捉える能力が足りていなかった。そして、自分の後継者を育てる能力にも欠けていた……。
――結果、何事も自らの手で行わなければならなくなり(そしておそらくは、その為に過労となって寿命を縮め)、死んでいった男。
あの戦の後に、私は『死せる諸葛、生ける仲達を走らす』などとその土地の者から口々に笑い者にされたが、私は自分がどの様に評されても構いはしない。
死者には何もする事は出来ぬ、生きている者こそが、何かを成す事が可能だと知っているからだ。
「いつも言っておるが、徳というのは儚いもの。満ちれば欠けるというのが理であるし、抑えた上にもなお抑えて、ようやく災いというものは避けられるのだ」
「……つまり……」
「曹爽を討つには、まだ時機尚早であると?」
「そう、彼は誤解をしている」
自分が天子に成り代わり、世を治めるなど――なんと愚かな事を。
元々、国家というものは民と帝で支え合うものだが所詮『帝』は一介の人間。言い換えれば、誰が成っても良いものなのだ。
帝こそが天であるなどと言われても、漢から魏へと王朝が変わる様を見てきた私には……帝というものの本質が何なのか、よく判る。
禅譲も国号も形だけのもので、結局、その下に生活する民は何も変わらない。変えなければならないのは、国を支える我々の方だ。
曹爽の如き『帝位を我に』などと考える輩を排除して民の為に諸制度を整え、戦を控えて作物を実らせる政策を施す。
人・国・家族。
それはどれも、繋がっているのだ。
豊かに幸せに暮らす為には、驕る事などあってはならない。第一、官位が上がればそれだけ権限が増えるから『仕事がやり易くなる』と、それは認めるが……
そもそも『帝』になったからといっても、行う事は『臣下』と同じだ。それは国を、人臣を、安寧に導く事。
それなのに、何故こうも帝位に執着するのか……私には判らぬ。
そもそも今の曹爽は私の権力を封じ込め、好き放題だ。万が一、私に直し難い落ち度があって――それ故に自身へと力を集め、国を良い方向へ進めるというのならば良いだろう。
しかし『自分が勝手な振る舞いをする際に邪魔な人物』を無理矢理追いやって好き勝手な行いをするなど……。下手に国の中枢で実権を握っている者の行動である分、他国の賊よりも性質が悪い。
「誤解……ですか」
「つまり曹爽がこのままの立場を保つ事ですら、父上には不可能な事だとお思いなのですね?」
「無論だ。亡き陛下方に託されたこの魏、みすみす潰させる訳にはいかぬ」
私は、かつて私を重用して下さった帝に思いを馳せながら言った。
漢は崩壊、形だけのものに成り下がり。帝を笠に、思う侭の行いをした曹操。
その息子である文帝は、自らの父と違って帝位を己に受け渡させた。そして、国というものの立て直しを始めたのだ。
古いしきたりに囚われ形だけの『臣下』であった他の者とは違い、文帝は帝に成る事によって自らが様々な改革を行った。
その結果、豊かになったかどうかは――今の魏を見れば疑う余地も無い。
あの方は、非難される事も承知で当時の帝に禅譲させ、代わりに民を安んじたのだ。
そんな改革を、私は手伝ってきた。文帝からの信頼も厚かった。文帝の息子にして後継者である、魏の二代目の皇帝――明帝からも信任された。
お二方に後事を託された以上、私はその思いに応えたい。
それに政事や戦の能力も、曹爽に負ける程には、まだ衰えていないと自負している。
「……だが、迂闊に動くのも危ない。時間は多少かかるかもしれぬが、確実さを優先させなければ、何もかもが水泡に帰する恐れもある。今は、とにかく奴等に悟られぬ様に水面下で準備を整え、機を窺うのだ」
その『時』が来るまで。国の皆は、さぞ困窮した生活を強いられる事だろう。
しかし、時機を外せばどうなるか。それは、私が今までに戦った相手の末路を思い起こせば瞭然である。
いくら帝位が形だけのものだと知っている私とて、曹爽の如き輩が治める国となるならば、民が不安がるだろうと思う。
民が脅かされるという事。それは、『国家の一大事』だ。
なにしろ甘言に態度を変えて、勝手な振る舞いをしている男だ。そんな曹爽が頂点に立つなど国が傾く――それだけは避けなければならない。
私は病を口実にして身を潜めつつも、どの様にすれば一滴の血も流す事が無く曹爽一派を捕らえられるか、策を深めていった。
相手を侮る事は、自分の死を早める。
かつて私の事を『来る事は無い』、と過信していたが故に敗れた孟達の如く、曹爽は私が動くとすぐに屈服した。
おそらく、先日に我が元へ偵察に来た者が『司馬懿はもう駄目だ』と報告し、それを曹爽一派が全員信じ込んだのが大きかったのだろう。なにしろ、私は耄碌しているという演技の為に、見るも哀れな醜態を晒したのだ。
そう、一人で起きる事すら困難という風に侍女二人に支えて貰い、着物も何度掛け直されてもずれ落とす。意志を伝えるのにも言葉を使わず身振りでようやく伝え、粥を差し出されても杯を持てない。
更にはそれを飲ませて貰いながらも上手く啜り込めずに皆零して胸元は汚れ、言われた事も耳が遠くて聞こえず、意味も理解するのに時間を要する――
普通の人間ならばとても恥ずかしくて出来ない様な演技だが、やるからには、徹底的に。
私は体裁に拘って真の目的を果たせない様な者にはなりたくなかったのだ。
だからこそ曹爽の寄越した偵察の者も一片の疑いを持つ事も無く、私の『病』を信じ込んだのだろう。
そうでなければ、あの様に全員が揃って都を留守にするなど有り得ない。
そして首尾良く機を捕らえた私は、その間に皇太后へ『曹爽兄弟の官位を剥奪する様に』と奏上する事に成功したのであった。
「……父上、やりましたな」
私が今回の事件を振り返っていると、次男の昭が来室した。
「兄上も、とても喜んでおりました」
「師か。……そういえば今回も良い働きをしておったな」
「それはもう。何しろ、曹爽は最後の難関と言っても良い程の厄介な人物でしたからね」
「確かに。だが共に先帝の顧命を受けた者同士、悲しいとも思えるがな……」
二人で幼帝の輔佐を頼まれ権力も同等になり、兵もそれぞれ同数を与えられ、殿中に詰めるのも交代で。
曹爽も初めの内は独断専行を控えていたし、経験豊富な私の事を上位と考え、まるで父に接する様な態度でいたのだ。
その事を思い出すと……やはり、胸は痛む。
私が昔の曹爽の事を考えて口を噤むと、昭が明るく言った。
「しかし、これで天下は我等の思うがままですね」
「天下?」
私は首を傾げた。
「……まあ、曹爽を失脚させた以上は我等に権力が集中してしまうか……」
昭の言葉で気付かされた。
元々二分していたものの内、その片方が無くなる。それは、もう片方に全てが集まってしまうという事を意味するのか。
――そうとなれば、今まで以上に魏の安定に尽くさねば――
決意を胸に、私は昭へと語り掛けた。
「私達が、これからは曹爽以上の働きを見せなければならんな」
「はい、父上」
昭の返事を受け、私は頷いた。
既に、私は老いている。
しかし、『死の直前まで』。動けなくなるまで、この国の為に生きよう。
私は『魏』という国の臣では無い。国では無く、人の為に私は動くからだ。
そして最初に私を信頼して下さった亡き文帝陛下の為、陛下の築いたこの国と民とを安寧に導く事こそが、『私の生きる道』なのだ。
忠誠を誓った相手が死しても、私の文帝への思いは残っている。死者には何も成す事が出来ないが、死ぬ前に何かを託す事は可能であるし……
また、後世の人が『生前』の功績を称える事もあるだろう。
問題なのは生きている内に『何を残しておくか』なのだ。
人へ、物へ、書へ。
生前の『思い』は託される……。
私も、その様にありたい。
私が文帝の行った政策を『素晴らしい』と思っている様に、私も『最期まで、この国の民の為に働いていた』と、そう認めて貰えれば。
そうすれば、私の生きていた年月も、報われるというものだから……。
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