第3話 稗田霞韻

 どさり。アレンの手から手提げ鞄が落ちる。その音で、生徒会室前の生徒たちもこちらに気づいたようだ。

「あ、君は今朝の……」

 多──康麿はアレンのことを覚えていたらしい。まあ、階段から落ちかけた人を助けたのをその日のうちに忘れたりする人物もそういないだろう。

 ただ、アレンは唖然としていた。おおのやすまろ……音が同じなのだ。字は違うかもしれないが、名前が同じなのだ。

 それは根拠のない確信だった。阿礼の意思をそのまま持つアレンがいるのだから、その想い人、太安万侶に相当する人物も、きっとどこかにいるだろう、という。

 無責任、と言われてしまえばそれまでなのだが、本当に存在するとは思っていなかったのだ。阿礼の片想いだったのだから、安万侶が現れるなんて、夢想でしかない、と。

 阿礼の心を持つアレンは半信半疑だったのである。いると信じたい気持ちと、そんな都合のいいことはないという気持ちと。

 目の漆色だって、きっと偶然だと思った。それなのに……

「大丈夫? 顔色が悪いよ?」

 その言葉にアレンははっとした。

 名前が同じだけで、アレンのように前世の記憶だのがあるわけではないようだ。だが、偶然というにはできすぎている。

 けれど、彼は安万侶としてではなく、今を生きる康麿になっている。……それなら、前世を引きずるアレンが関わるのも何か違うだろう。

「す、すみません、立ち聞きするつもりではなくて……」

「多先輩、やすまろっていう名前だったんですね」

 すっと脇から茜が出てきて、間に入ってくれた。しどろもどろとするアレンとは対照的に、からっとした人懐こい笑みを浮かべて、康麿に話しかける。

「おおのやすまろって言ったら、かの有名な古事記の編纂者とおんなじ名前じゃないですか。いやぁ、あたしもびっくりしちゃったなぁ」

「あぁ、それは、うん……」

 今度は康麿の歯切れが悪くなる。しかし、康麿を勧誘していた人物の方が水を得た魚のように目をきらきらと輝かせて、ずいずいとアレンたちの方に寄ってきた。

 茜は表情に滲ませない程度に警戒しつつ、アレンを背に庇う。康麿はその様子に気づいたようだが、名前も知らない先輩の方は一切気にせず、ずかずかと歩み寄ってきた。

「そうなんだよ、そうなんだよ!! もう彼はなるべくしてその名になったような天才なんだ!! 品行方正、学績優秀、常に学年トップをキープし、委員会、部活動においても、活動ごとの隔たりを物ともせず、各活動に手を差し伸べ、それに救われた者は果たして何十人いることだろうか……というくらい才能のある方なんだよ!!」

 才能、という言葉にアレンは引っ掛かった。

 この人物が安万侶の生まれ変わりとは決まっていない。けれど、才覚で済ませていいことと見過ごしてはいけないそれを得るまでの過程があることを知っていた。

 アレンが、阿礼であったのだから、尚更、見過ごせなかった。

「お言葉ですが」

 涼やかなアレンの声に茜が振り向いた。普段は温厚なアレンの冷ややかな声色に驚いたのだ。

 茜はアレンが稗田阿礼の生まれ変わりということは知っているが、それでも、アレンはアレンで、年相応の朗らかな女の子と認識している。それに、概ねその通りで、アレンはおおらかで滅多なことでは怒らない。

 それが、あからさまに怒っているのだ。滅多なことが起こってしまったことはすぐに察しがついた。

 茜は止めるべきか迷ったが、アレンは普段から自己主張が強い方ではない。裡に溜めたものはたまに放出しないと精神の釣り合いが取れないだろう、と様子を見ることにした。

 アレンは怒りをひそめた表情で淡々と指摘していく。

「才能、才覚と仰るのは自由ですが、その認識を無闇に本人に押しつけるのは失礼に値します」

「し、失礼? 言い過ぎじゃ……」

「失言でした」

 はっと気づいた様子で、アレンは言い直す。

「失礼では生温いですね。無礼ですよ」

 うわあ、と茜は声に出さないものの、アレンの怒り具合を悟った。相当お怒りでらっしゃる。

「能力というものはその使い方を知ってこそ輝くものです。道具があっても使い方を知らないのでは猿以下でございましょう? つまり才覚だの才能だのと呼ばれる類のものは、どのように生かすか、という試行錯誤の末に花開いたものです。その努力を無視して才能だ才覚だと言ってちやほやすればこちらに靡くだろうという考えは浅はかなのではないでしょうか」

 アレンは才能や才覚、天性という言葉が嫌いだった。その一言で片付けられて、認められない人間を、前世でも現世でも知っているからだ。

 それに、能力があることが幸せばかりとは限らない。現に、アレンは幸せとは言えない。

 ──何も言わないが、康麿もたぶんこの勧誘は嫌なのだろう。

 うっかり著名人と名前が同じだからという理由で注目されてしまうのも考えものだ。

 一方、アレンのような儚げな見た目の下級生から色々言われてしまった先輩は固まっている。茜はそれを見て、アレンと康麿の手を引いた。

「今のうちに行きましょう」

「あ、えっ!?」

 康麿は驚いていたが、茜の力の方が強く、問答無用で連れ出される。アレンは何も言わない。まあ、よくあることなのである。

 このタイミングを逃してしまえば逃げることはできなかっただろうから、ベストな選択ではあった。

 しばらく走った。何故か階段を上っていたが、康麿は茜に突っ込む余裕がなかった。茜の足が思ったより速いのである。こちらが足を縺れさせて転ばないように速度調整してくれているようだが、二段飛ばしどころか三段飛ばしはゆうにできそうな勢いである。

 そんなこんなで最上階。一年生の教室に入る。

「ええと、ごめんね。ありがとう」

「いえ、お世話になったよしみですし」

 茜は康麿にずいっと寄る。急接近した造形のいい顔に、康麿は思わず一歩身を退いた。

「これで、貸し借りはなしですから」

「あ、はい」

 康麿は、貸し借りだのと言われる関係だっただろうか、と思考を巡らす。確かに、階段から落ちてきたアレンを受け止めはしたが、貸し借りとかそういうのではなく、人として当然のことをしたまでの話である。

「ちょっと茜、別にそんな恩の売り買いじゃないんだから……」

 その当事者、アレンはというと、茜の口を慌てて塞いでいた。茜はもごもごとしながら不満そうである。

 それもそうだろう。アレンの与り知らないところだが、アレンに近づく変な虫を追い払うのが茜とカインの間で交わされた契約だ。その対象に康麿も例外なく入っているわけである。異性である以上、これは仕方のないことと言える。

 それは康麿も知ったところではないし、出会ったばかりの少女にそんな下心を抱くような野蛮な男ではない。だが、まあ、年頃なのはお互い様である。周囲の過剰防衛も仕方のないことだろうと、康麿は納得した。

 それに、稗田アレンという少女、確かに美人なのである。先程はあんなに意見をはっきり言っていたので、決して気が弱いということはないのだろうが、その研ぎ澄まされた大和撫子で清純派な雰囲気は、まあ、ちゃらんぽらんな男が悪絡みしてきてもおかしくない。本人に自覚がないのかもしれない。それなら尚更周囲が過剰防衛することだろう。

 それより、康麿は気になったことがいくつかあった。

「あの、君がさっき言っていたのって……そういう差別というか偏見を受けたことがあるの?」

 少し引っ掛かったことだ。先程の意見には強い実体験に基づく裏付けを感じた。自分がそうだったか、もしくは、身近な人物がそうだからというような。

「ええと……」

 アレンは言い淀んだ。先程は才能や才覚といった嫌いな言葉に過剰反応して強く返してしまった。康麿の言う通り、そういう差別や偏見を知らないわけではない。身近な人物がそうであるから、思わず怒ってしまったのだ。

 とはいえ、それについて言及されると口ごもってしまう。何故なら、それはその人のプライベートな部分で、簡単に口外していいことには思えなかったのだ。

「まあ、そうですね……友達がそれでずっと悩んでるのを聞いてて……そのことを思い出したら、いてもたってもいられなかったんです」

「友達思いなんだね」

「その、とっても仲のいい友達で、一番の友達って言っていいくらいの子で!」

「ええー、アレン、あたしはー?」

 茜が拗ねたように会話に挟まる。アレンは慌てて弁明した。

「も、もちろん茜だって私の大事な友達だよ!!」

「でも一番じゃないんだー」

「うーん、茜には色々な事情があるでしょ? 私にはまだ受け止めきれないっていうか……」

「ん、それは仕方ないね」

 茜にも何かあるらしいことは康麿にもわかったが、なんだろう、下手に触れてはいけないような気がした。触らぬ神という言葉がある。特に、女の子同士の内緒話に男子が入るのはよくないだろう。ということで康麿は何も聞かないことにした。

 それよりも康麿には気になることがあった。

「その、稗田さんって、稗田神社の稗田さん?」

「え、あ、はい」

「ストーーーーーーーップ!!」

 茜が康麿とアレンの間に割って入ったので、二人はぎょっとする。

 茜は康麿を睨んだ。

「あの、そういう感じのナンパはお断りしているんです」

「えっ」

「アレン、帰ろう」

「え、わっ、待ってよ茜」

 康麿には弁明の余地もなく、茜は嵐のようにアレンを連れて行ってしまった。教室に康麿は一人、取り残される。

「何だったんだろう……?」

 奇妙な二人組に康麿は首を傾げつつも、帰り支度をした。


 帰路に着いたアレンと茜は康麿のことを話し合っていた。

「もう、茜ったら強引なんだから」

「ごめんって。アレンの護衛は最優先事項だから」

「そもそも護衛っていうのが大袈裟なんだよ。多先輩普通にいい人だったじゃない」

 何もされていないのに勝手に逃げてしまったというのがアレンとしては不義理に思えるのだ。せっかく手助けしたというのに、また厄介事に巻き込まれていたらどうするのか。

「大袈裟なんかじゃないよ」

 後ろから声がして、振り向くとそこには学ランを着た寝不足があからさまな顔色の少年。

「カイン!」

「姉貴も今帰りなんだね」

 カインは中学三年生である。今日は入学式で早く終わったのだろう。

 茜がずい、と顔だけ近づける。

「聞いてよーーーーー、あたし護衛頑張ったのにアレンが色々言ってくるの」

「また変な男に絡まれたの、姉貴?」

「変って決めつけるの、よくないと思うな」

「そう言って電車で痴漢に遭いそうになったり街で明らかに浮いた男にナンパされたの何回あった?」

「うぐ」

 実績を言われると、アレンは何も言い返せない。基本は神社の手伝いをしている稗田姉弟だが、街に出ると、見目麗しいため、アレンは幾度となく厄介事に巻き込まれたことがある。カインが同伴してくれたおかげで大事にならずに済んだものだって、何件もある。

 大抵は男が悪いのだが、アレンの危機感の低さと言ったら! それだから何度も同じような目に遭うのである。

「お姉のそういうところは美徳だけど、悪漢には気をつけてよ」

 もう一人、カインの後ろから現れたのは、色の抜けたような目映い髪をしている少女だった。髪を一房、シュシュでまとめている。オーソドックスなデザインのセーラー服の女の子だ。

 アレンは目を輝かせた。

しきみちゃん!!」

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