第2話 多康麿
古来より伝わる神々から
ひらりひらりと蘇芳の袖を舞わせながら。それに人々が魅了される中、一人だけそれを一顧だにせず、すらすらと筆を走らせる者がいた。
彼もまた勅命を受けた身。阿礼が歌い上げる文言を書にせよと賜った。若き秀才。名を
彼は一言一句聞き逃すことなく、書き留めることができた。むしろ、彼以外にはできなかったかもしれない、と誰もが言った。それは正しいだろう、と阿礼も思った。
舎人である阿礼は雑務をすることはあったが、読み書きはできない。読み書きができるなど、ごく一部の者でしかなく、更に聞き取りをするとなると、難易度は格段に跳ね上がる。
口語であれば発音で判断できるものも、歌となると聞き分けは難しい。それを前後関係から判断し、正しい文章に書き起こすというのは凄まじい知能のいる作業なのだ。
阿礼は終わるまで安万侶と一切目が合うことはなかったが、その手が普通の物書きとは考えられない速度で動いているのだけは見てとれた。
きっと、彼に触れても、彼の脳内に存在する情報を阿礼は受け止めきれないだろう。そう思った。
故に、阿礼は安万侶には今後会うことも話すこともないだろう、程度の印象しか抱いていなかった。
「大丈夫?」
アレンは漆色の目を見た。光の加減で乳白色にも生漆にも見える不思議な色。その目をアレンは知っていた。
けれど、そんなわけない、と言い聞かせ、それから自分の置かれた状況を振り返る。どうやら階段から踏み外したところをこの御仁に受け止めてもらったらしい。
「あっ、すみません!!」
時間差で恥ずかしくなり、アレンは慌てて離れようとする。その人は穏和そうな中に笑みを浮かべ、アレンを諭した。
「あんまり慌てると、また転んじゃうよ」
「あ、はい……」
それもその通りなので恥ずかしくなってしまった。慎重に地面に足をつけ、安定が取れたことを確認してから、ふう、と息を吐く。
そこへ茜が駆けつけた。
「アレン、大丈夫!?」
「うん、この人が助けてくれたの」
ええと、と支えてくれていた御仁を見上げる。
ベージュのブレザー、襟の縁には灰色のラインが入っている。この学校の男子制服だ。赤茶けた髪がさらさらと揺れていた。ついているバッジから二年生であることがわかった。
「すみませんでした……ええと……」
「
「あ、はい。稗田と言います」
「東雲です。先輩、ありがとうございます」
「いや、当然のことをしたまでだよ」
恩着せがましくもない言い方の多には好感が持てた。気をつけてね、とだけ言って、多はいなくなってしまう。
アレンはしばらくぼーっと彼の去っていった方を見つめていた。茜が肘でつつく。
「何、アレン。ああいうのがタイプなの?」
からかいを隠しもしない茜の声色。けれど、アレンはぼーっとしたまま、曖昧に頷く。さすがに茜もおかしいと思った。
「もしかして、あの人なの?」
「いや……わかんない、けど」
漆色の目が忘れられない。
アレンが……正確には、アレンではないが、アレンの中に存在する記憶が探している人物の目も漆色をしていた。忘れられないような、引き込まれる瞳。
多という苗字。まあ、発音だけならいくらでもいるので、ただの偶然だろう、とは思うのだが。
茜がアレンの手を引いて、階段を上っていく。アレンは先程の先輩が忘れられないまま、入学式を迎えることとなった。
アレンには、前世の記憶がある。おそらく、これが一番言い表すのに相応しい言葉だろう。もしくは、生まれ変わり、だろうか。
アレンは稗田阿礼だった。そういう記憶がある。天皇から勅命を受け、暗誦した古事記の全文、舎人として働いていた記憶、それから、生まれたときから持っていた不思議な能力まで受け継いだ。
阿礼が持っていた能力、それは「触れたものの全てを知ることができる」。故に、文字が読めなくても本に触れればその内容を解することができた。それは、平安の当時、貴重な能力だった。
もちろん、アレンは現代で義務教育を経て、きちんと読み書きができる。おそらく、阿礼が持っていた能力と完全に同じというわけではないだろうが、「触れたものについて知る」という部分は共通している。
この話はあまり言い触らしてはいない。カインと茜と、もう一人、信頼できる人物にしか話していない。知られても、頭がおかしいと思われるだけだ。
触れただけで、その人の過去や未来が見られるなど、ファンタジー作品でもあまり見ない。
最近の言葉で言うところのチート能力に値するのだろうが、この能力を有り難く思ったことはない。大抵のものの誕生から死までを見ることができるが、それが何になるというのだろうか。知ったところで、変えられない未来もある。
「アーレーンー」
「ふにゃ」
茜に頬をつままれ、物思いに耽っていたところから戻ってくる。入学式は終わり、もう一年生は帰っていいと言われてしまった。なんとなく、アレンは窓際の自分の席から離れたくなくて、ぼーっとしていたのである。
茜の席は遠い。ちょうど教室の真ん中くらいである。まあ、「し」ののめと「ひ」えたなので遠くなってしまうのは必然と言えば必然だ。というわけで、茜が今陣取っているアレンの前の席は赤の他人のものである。
それがどうした、というだろうが、茜なら。
「多先輩に会ってからなんだか上の空じゃん? どうしたのさ?」
「ううん、なんでもないの……」
「なんでもないわけなくない?」
茜ははあ、と溜め息を吐く。
「そんなにわかりやすいかな……?」
「初恋くらいわかりやすいよ」
ぎくっとアレンは肩を揺らす。初恋。恋。
思い出したくなかった。今朝見た夢。あれは過去の夢だった。その中でアレン、いや、阿礼は思い慕う人物について考えていたのだ。
特異体質に生まれて、奇異の視線に晒されたり、崇め奉られたり、様々あった。快いことばかりでは、当然なかった。
そんな中、唯一一度も不快感を抱かなかった人物がいた。──太安万侶である。
彼は秀才であった。阿礼のように生まれ持った才能ではなかった。努力により、あれほどのことができるようになった、普通の人間である。けれど、それを傲ることなく、真摯に役目と向き合っていた。
自分も特別扱いしないが、他人も特別扱いしない。決して世辞を口にするような人でなかった。だからこそ、阿礼も楽でいられた。
その心がいつしか様変わりしていった。親愛、だったはずなのに。
阿礼は能力故、きっと神の子だろうと思われていた。だから誰も阿礼に「心」を教えなかった。人間にとって、煩わしいものであるから。
「初恋、か……」
「え、何々、まさか一目惚れじゃないよね」
アレンの呟きに、茜の声色が焦りを帯びる。まあ、過保護なカインからアレンを託されているのである。アレンが恋なんぞしようものなら、それはもう大変な騒ぎになることだろう。
「違うよ。ただ、似てただけ」
「初恋の人に?」
「……うん」
おおの。姓が同じなのも、影響しているだろう。前世というか、アレンは阿礼の心までそのまま持って生まれてしまった。故に、安万侶に似ているというだけで心を揺すられてしまう。
「まあ、学年違うし、よほどじゃないと会えないよー」
「そうだよね……」
特に何の実りもなかった。考えるのをやめて、アレンは茜と帰ることにした。
その途中、「よほどのこと」が起こった。生徒会室付近で、言い争う声が聞こえたのだ。多と複数人が何かやりとりをしていて、多が困っているようだった。
内容は多に生徒会に入ってほしいという感じのことだった。そんなに人数がいなくて困っているのだろうか。
「困ってるみたいだけど、どうする?」
茜がアレンに伺った。アレンは少し悩む様子を見せる。人としては困っている人物を見過ごすのはどうかと思うのだが、飛び火されるのも困る。アレンたちは今日入学したばかりの新入生であるし、触らぬ神に祟りなしという文言もある。
「……帰ろう。先輩だからなんとかできるだろうし……」
「そだね」
それは賢明な判断、のはずだった。
「
その名前に、アレンは固まった。
漆色の目をした彼は「多康麿」という名前なのだ。
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