今は昔、時に魂宿れども

九JACK

第1話 稗田阿漣

 暗い空間を、一人の女性が走っていた。その着物を乱してまで、急く理由とは。

 息を切らして、彼女は走った。けれど、彼女が逃れたかった宮からは、まだ出られていない。

 羽織を一つ、脱ぎ捨てる。決して体が軽くなるわけではない。けれど、あるよりはましだった。

 彼女は何から逃げているのか。逃げ延びることができるのか。何も、何も、わからなかった。

 一つだけ、涙と共に溢す思いがあるとするならば。

「あの方をお慕いしたかった……」

 自分が普通なら、どれだけよかっただろう。あの人が普通なら、どれだけよかっただろう。

 都を出た彼女は山に入り、消息を絶ったという。

 彼女の名前、姓は稗田ひえた、名は阿礼あれ。かの有名な古事記を暗誦し、その編纂に貢献した人物の一人である。


 はっと目を覚ました少女が、むくりと布団から起き上がった。息が上がっている。まるで全速力で走った後のよう。もしくは悪夢でも見ていたかのようである。

(いいえ、あれはまさしく悪夢だわ……)

 少女は頭を振った。さらさらと揺れる長いぬばたまの髪。ただ、月明かりを返す瞳は琥珀と称するには赤みが強く感じた。

 乱れた淡い色の寝間着を整えて、彼女は完全に起きることにしたようだ。立ち上がり、衣裳箪笥から羽織を一枚。それから、質素な自室を後にした。

 縁側に抜けて、草履を引っ掛ける。家のすぐ傍には神社の拝殿があり、彼女は迷うことなく境内を進んだ。

 拝殿裏に行くと、少女と同じぬばたまの髪を肩口で切り揃えている少年がいた。少女よりいくばくか背の低い少年は言われなければ男だとわからなかったかもしれない。女性の持つ麗しさと儚さを併せ持つ少年だった。

霞韻かいん、ここにいたのね」

「……姉貴」

 カイン、と呼ばれた少年は目の下に色濃い隈を作っていた。少女はそれを少し見つめたが、実はいつものことなので、目を瞑って溜め息を吐くに留める。

 まあ、悪夢で目が冴えてしまったので、ここに来たのだ。弟がいると思って。

「家に戻って、お茶でも飲みましょう」

「うん。……あ」

「あら」

 カインの足元から、ひょこっと自己主張するように顔を覗かせたのは、子猫だった。少女がカインの様子を伺うと、カインは罰の悪そうな表情をしていた。

「……二、三日前から、ここに迷い込んできてて……」

「そう」

 少女は慈愛に溢れた笑みを浮かべ、カインは優しいのね、と告げて、そっと猫に手を伸ばす。

 求めるでもない、乞うことを待つでもない、気遣いに溢れた優しい手に、茶トラの子猫は少し警戒しながら触れた。白く、柔い手をいきなり引っ掻くほど、気性が荒くはないらしい。

 きっと、親から離れて寂しいだけなのだろう、と少女は子猫を見た。

 瞬間。

「わあ、子猫が生まれたよ」「甘えん坊さんだなぁ」「ついてきちゃ駄目だってば」「どうしよう、お父さんに怒られちゃう……」「猫なんてどうして連れてきたんだ!!」「きゃっ」「出ていけ!!」「人殺し!!」キイイイイイッ!!

 ドン、と自動車がぶつかる音がしたところで、少女は我に返った。赤みを帯びているだけだった光彩が、真っ赤に染まっており、顔は対照的に青ざめる。カインが心配そうに覗き込んでいるのが目に見えた。

「大丈夫? 姉貴、深呼吸して。息を吸って……吐いて……」

 カインに背中を擦られながら、呼吸の仕方を思い出す。何度か繰り返すと、少女の光彩は落ち着いた琥珀になり、顔にも生気が戻る。

「……ごめん、まさかこうなるとは思わなかった」

「カインのせいじゃないわ」

 少女は羽織の前を合わせて、行きましょう、とカインと共に自宅に戻っていく。

 何も知らない子猫がにゃあ、と鳴く声が、しんとした夜の中に落ちた。


 ここは稗田神社。全国にいくつかある、かの古事記の編纂者である稗田阿礼を祀る神社である。どこもがその名を冠しているわけではないが、この家は阿礼と同じく稗田の姓を持っていた。

 今代宮司には二人子どもがいた。うち、姉の方が名を阿漣あれん、弟が霞韻と言った。今時らしい海外の雰囲気のある名前である。あまりにもひどい当て字であるため、二人の知人はよほどでない限り、二人の名前を漢字では書かない。

 それはさておき、アレンには秘密があった。

「姉貴、大丈夫?」

「うん。ちょっと大変だけど、一回見たら二度と見ないから大丈夫」

 境内を箒で掃きながら、カインに微笑むアレン。茶トラの子猫が気まずそうに姿を現す。それにアレンが触れても、深夜のようにはならなかった。

 アレンには、巫女としての力かどうかはともかく、触れたもののことを知る能力がある。それは過去であり、現在であり、未来である。基本、アレンの見た事象は覆らない。今のところ、覆った事例がない。

 つまり、この猫はいずれ、車に轢かれる。死ぬかどうかまではわからないが、無事では済まないだろう。そういう衝撃的なものを、アレンの望む望まないに関わらず、見せてくるのがこの能力だ。

 そのことを知っているのは、カインとアレンの友人の数人のみ。特段いいことばかりでもないこの能力を有難がられても困るため、両親には言わずにいる。

 朝の掃き掃除を終え、竹箒を仕舞いに行こうとしたところで、鳥居の傍に佇む人物に二人は気づいた。

 人懐こそうな笑みを浮かべ、女の子らしさを損なわない程度のショートヘアの人物は、髪飾りに赤いリボンをしていた。服装は四角い襟からリボンタイの下がった一般イメージとは少し違うセーラー服である。ベースの色は焦げ茶色で、スカートと襟はその色になっている。ラインとリボンタイは赤だ。他は白でまとめられていて、どこかノスタルジックである。

「や、アレン」

「茜!」

「……げ」

 アレンに軽く挨拶をしたのは東雲しののめあかねと言い、アレンとカインの共通の友人である。とはいっても、カインは友達とは認めていない。

「げ、とは何だね、我が友カインよ」

「五月蝿い。うちはこれから朝餉なの」

「あたしは食べてきたからお気遣いなく。それに、アレンのお迎えに来ただけだっていうの、カインだってわかってるでしょ?」

 む、と言い返せずに黙るカインをさておき、アレンは茜にてらいなく笑った。

「茜は今日も可愛いね! 新しい高校の制服、とっても似合ってる」

「ふふ、アレンもきっと似合うよ~」

「おだてても何も出ないよ~」

 笑い合う二人。カインは何も言わず、アレンの分まで箒を片付けることにした。茜が頭一つ分くらい差のあるアレンの頭をぽんぽんと撫でる。

 見上げたアレンが気づいた。

「茜、もしかして、また背伸びた?」

「あはは、育ち盛りだからねえ」

 からからと笑う茜。アルトの声がからからと笑うのがとても心地よい。

「さ、アレン、早く準備しないと、遅刻しちゃうゾ」

「そうだね」

 そうなのだ。今日はなんと、アレンと茜の高校の入学式なのである。


 古里高校。そこそこの進学校で、アレンたちの家から一番近い学校である。といっても、アレンとカインの暮らす稗田神社は人里離れた山の中に存在するため、登校には時間がかかる。小、中と学校が遠かったため、高校は偏差値云々より距離で決めた。

 カインは、茜も一緒だから、と言っていた。

「こんなちゃらんぽらんなやつにっては思うけど、誰もついてないよりはましだから」

 カインの茜に対する評価が何故こうなのかは気になるところだが、アレンは茜を友達だと思っているし、なんだかんだ、「来年には頑張って同じ学校に行くから」などと言ってくれるカインを可愛らしくも思うのだ。

 山を下りながら、アレンと茜はきゃいきゃいと話す。

「やっぱりアレンも制服似合うじゃーん」

「ありがとう」

「くっ、清純派女子とセーラー服のコンボは効くわね……カインくんから賜りし勅命、必ずや果たさねば」

「カインも大袈裟なんだから……」

 茜が言うカインからの勅命というのは、アレンに虫を近づけないということである。

 アレンは漆黒の髪を腰まで伸ばす大和撫子系統の美少女で、アレンが知らないだけで、何人もの男子がこれまで恋に落ちた。それをアレンが知らないのは、出る杭を打ち続けたカインや茜の存在がある。

「茜こそ、気をつけた方がいいんじゃないの? お母さん譲りでとっても美人じゃない」

「そうねえ。あんまり夢は見させない方がいいかしら? 美貌も罪よね……」

「ふふっ、茜のそういうとこ好きだよ」

 悩ましげに頭を抱える茜にアレンは笑う。そこそこ長い付き合いで、茜は自分、及び母親の美貌に絶対的な自信を持っているのだ。カインは胡散臭いと思うらしいが、アレンはそれを茜らしさだと思っている。

 アレンは自分の能力を自分らしさだとは思わない。髪を伸ばしていることも、両親に指示されてやっていること。触れたものの過去から未来までが見える不思議な力も、【アレン】のものではないと思っている。

「見つかるといいね」

「え」

 茜が声をかけてきて驚く。茜には、アレンの抱えるもう一つの秘密について、教えてある。が、内心を見透かされたようで、どきりとした。それと同時に、恥ずかしくなる。

 それを誤魔化すようにアレンは話題を変えた。

「同じクラスになれるといいね」


 登校にかかるのが約一時間。これでも中学よりはましなのだ。その間アレンとずっと話してくれる茜の存在は有難い。茜にも、茜の事情はあるからだが、それでも有難いことには変わりない。

「あ、やった! 同じクラスだよ」

「本当? 超嬉しい」

 昇降口前でハイタッチをする二人。とても微笑ましい光景である。

「クラスにイケメンの男子いるかなぁ」

「茜ってばそういうのばっかり」

 他愛ない会話が進んでいく中、二人は階段を登っていた。

 それは不意のことだった。

 談笑に花を咲かせすぎて、足元が不注意になったアレンが、一段、踏み外す。

「アレン!!」

 顔色を失くす茜の顔が遠ざかっていくのを眺めながら、成す術なくアレンは落ちていく……はずだった。

 ぽすん。

「大丈夫?」

 覗き込んできた漆色の瞳に、アレンは魅入られた。

 ──その目をよく知っていたから。

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