第5話 5日目・8月9日 ハンバーグ
お盆前の最終出勤ということもあり、幹也はいつもより少し遅めの退勤となった。
「先輩、今日飲み行きましょうよ、美味しい焼き鳥屋見つけたんですよ」
と、
「いや、今日は遠慮しとくよ」
「ええぇ、もう口が焼き鳥なんですけど。それに今どき若い子から飲みに誘われることなんてめったにない僥倖ですよ?若者の酒離れ舐めないでください」
「篠原さんとか誘ったら?飲みたいって言ってたよ」
「あー、嫌です。帰り絶対めんどいことになるので」
心寧は心底嫌そうな、沈鬱とした表情をした。
「今日は僕が料理当番の日だからごめんね。次は行くから、前の日に言って」
「ちぇー、これだから新婚は。分かりました。ではよい休暇を、先輩。お土産期待しときます」
「了解、田上さんもリフレッシュしてきなね」
途中、スーパーに寄って家に帰る。
朋子と一緒に住み始めて1週間。
思いの外、問題なく過ごせていると幹也は思った。
これ以上親密になることは絶対にないと分かっていたが、あまりよそよそしすぎるのも気を遣う。その丁度狭間を狙ってコミュニケーションを取ることは難しいと思っていたが、その辺りは朋子の塩梅が上手なのだろう。
今日は金曜日だから、何かワインに合うような肉料理の美味しいものを作ろうと思って、スーパーで最初に目に入ったのがミニトマトだった。
「はいこれ、あげる」
ハンバーグチェーン店。
ワンプレートの料理が運ばれてきた瞬間、サラダに乗ったミニトマトを勝手にこちらの皿に移す、制服を着た女の子。
__朋子はいつもそうだった。
「何食べに行く?」
学校帰り、そう聞くと決まって、
「ハンバーグ」
と答えた。
だからハンバーグにしようと思った。
そして買い物を終え、家の台所に立ってみて初めて、幹也はふと、それから段々と愕然としていった。
いつ以来だろう、妻が亡くなる前の記憶を己で掘り起こしたのは。
その事実に気づいてしまったら、途端に呼吸が苦しくなってきて、手が震えるようだった。
2年前、高校の同窓会の時にすら、過去のことはほとんど思い出さなかった。
旧友たちが思い出話に華を咲かせ、まるであの頃に戻ったかのように笑い転げていたホテルの宴会場。
ああ、大人があの頃にタイムスリップするためには酒の力が必要なんだ、いや、むしろ高校時代は常に酩酊したように能天気だったのかもしれない、などと思うことが限界だった。
そうしてその場にいることが出来ず、ロビーのソファに座っていたとき、朋子に声をかけられた。
久しぶり、と久闊を叙する言葉も出ず、淡いブルーのカクテルドレスを着たその綺麗な女性をぼぉっと眺めるだけだった。
確かに記憶には存在している人なのに、自分との繋がりが分からないような、他人の記憶が自分に移植されてしまったような、そんな不思議な感覚だった。
「奥さん、亡くなったんだって?」
その言葉が、耳に上手く入ってこない。
「私も、同じなの」
その悲痛な声は、発言と逆のことを自分に言い聞かせているような声だった。
「私、旦那さん、亡くなったの」「だからあなたと同じ」
そう、現実の刃を自分の首に突き付けて彼女はそこに立ってた。
そこでようやく、目の前の女性と自分との間に何かしらの線が結ばれたような気がした。まるで、身体は離れているのに、影だけが重なり合ったような。そしてそれは高校時代の朋子とではなく、その日、あの時の朋子との間に渡されたものだった。
それなのに、今更だ。今更、高校時代の朋子の記憶が、何の前触れもなく思い起こされた。
まるで、あの赤く小さいトマトが、朋子との記憶の結晶化した宝石のように。捨てたはずの記憶が、枝葉を通じて凝縮し、時間をかけて実ったかのように。そうしていつか来る幹也を待って、スーパーで静かに輝いていたのかもしれない。
ハンバーグはひき肉からではなく、ステーキ肉を叩いて作る。
玉ねぎを炒めている間、味噌汁やサラダの準備をする。
「ただいまー、良い匂い」
そこで朋子が帰ってきた。
これまでは何の感情もなく彼女の帰りを迎えられたのに、今日ばかりはそれが少しだけ鬱陶しいような気がした。まだ自分の気持ちに整理がついていない。
「おかえり。今日はハンバーグにしようと思って。僕も帰ってくるの遅くなったから、もうちょっとかかるけど良い?」
「全然、むしろいつもありがとうね」
「ワイン買ったんだけど、飲む?」
「えー、ほんと?飲む飲む。それなら化粧先に落としちゃおうかな」
朋子はそう言って慌ただしく部屋着に着替え、洗面台に向かった。
炒め終わった玉ねぎを叩いたステーキ肉に混ぜる。
幹也は繋ぎが少ない方が好きだから、パン粉も牛乳も使わない。
そのまま塩コショウのみを振る。
「カプレーゼ作っておいたから、ツマミにして待ってて」
と、幹也はすっぴんになった朋子に声をかける。
「すごいね、至れり尽くせりだ、、、」
カウンターキッチンの向こうで、テーブルに乗ったカプレーゼを見た後、幹也の方に向いて微笑む朋子。
その化粧を落として、保湿した結果少し照ったような顔が、幾分か幼く、あの日の頃の彼女を想起させる。
緑のブレザーを着て、いつも冷静沈着に、ただ今に比べれば少しだけ意地が悪かった、あの頃の朋子。
朋子が立ったまま、フォークでカプレーゼを取る。
オリーブオイルが垂れないように前かがみになったとき、ラフなシャツの胸元が疎かになった。
「ねぇ幹也。優等生同士、ちょっと不良になってみようよ」
部活帰り、校舎を出てすぐにある公園で、朋子は幹也の顔を覗き込むようにしてそう言った。
「はしたないよ」
と、幹也は朋子を咎めつつ、ざわめいた自分の心を律しようとした。
朋子は「はーい」と言って、テーブルについてワインを注ぐ。
「この赤ワイン美味しいね。高いの?」
「いや全然。千円ちょっとくらい」
「まぁまぁ高いじゃん」
「そう?」
「あれでしょ、400円くらいのやつは料理酒的なものだと思ってるでしょ」
「あ、、、うん」
まさにハンバーグソースとして400円台のワインを別で買っていたので、幹也は何も言えない。
朋子は「美味しい、美味しい」と呟きながら、すでに2杯目をグラスに注いでいた。
空気を抜いたハンバーグのタネをフライパンに並べ、蒸し焼きにする。
そして玉ねぎを炒めた後、そのままにしていたフライパンに例の安いワインを入れる。
「そういえば、私がトマトは食べれること、覚えてたんだね。こないだのサルサソースもだけど。それとも嫌いな食べ物全部忘れたとか?」
いつもより少し抑揚の利いた声で朋子が言う。
今日の朋子は少しだけ遠慮がないように見えた。
「覚えてるよ。ミニトマトは嫌いだけど、トマトは好き、でしょ」
「そう、理由は?」
朋子の問いに、幹也はまた少しだけ胸に去来した不快を上手く扱えずにいた。
これは自分の問題で、コントロールすべきだと言い聞かせる。
「ぷつっと破裂する感じが嫌いなんだよね」
「そうそう。だからいくらとか、焼き鳥のちょうちんとかもだめ」
焼き鳥。
田上さんに誘われた焼き鳥に応じておけばよかったのかもしれない。
幹也はそう感じ始めていた。
そうすれば、過去の朋子のことを思い出して、こんな鬱々とした心に出会うこともなかった。
「やっぱ1人で飲んでるの申し訳ないから手伝うよ」
と、朋子がグラスを空けたタイミングで台所に来る。
「何すればいい?フライパンでも見ておこうか」
そうしてサラダに乗せる人参を千切りにしていた幹也の後ろを、朋子がすり抜ける。化粧落としの匂いなのか、フローラルな香りがふわりと鼻に届いて、その匂いに幹也は硬直したようになった。
「痛たっ」
包丁の角度を誤ったのか、スライスした人参を抑えていた左手の人差し指、その第一関節あたりから血がにじむ。
「大丈夫!?ごめん、私ぶつかっちゃったかも、ごめんね」
と、朋子が幹也の手を取って、怪我の具合を見るようにした。
その手の柔らかさに、幹也は忘れていた涙が零れそうになって、
「あっち行ってて、ワイン飲んでていいから」
「ご、ごめん。邪魔したかった訳じゃないの」
「いいから、大丈夫だから。ぶつかってないし、僕が間違っただけだから」
「でも、絆創膏持ってくるから、、、」
「いい!!座っててよっ!!」
幹也は久々に自分の声を聞いたように、己の方でも驚いて、叫んだのは自分なのに狼狽えてしまった。
「ご、ごめん、、、叫んで」
「いいよいいよ、私が悪いんだし」
「いや、朋子は悪くない、本当に」
朋子は明らかに落ち込んだ様子で、寝室へと入って行った。
そしてすぐに戻ってきた彼女の手には、透明の救急箱が握られていた。
「絆創膏」
持ってこなくても良いと怒鳴られたのに、朋子は頑なに絆創膏を差し出す手を下げなかった。顔は俯いたままに。
その姿に、幹也は沸き上がった怒りがふっと静まっていくのを感じた。
「なんか、朋子らしいな」
「なんで?」
「なんか再会してから、ずっとしおらしかったけど、そういえばこうだった」
「私、馬鹿にされてる?」
「いや、ごめんごめん」
2人で食卓に座る。
ハンバーグは繋ぎが少なかったせいか、2つほどひっくり返すときに崩れてしまった。脆く、僅かな繋がりしかなかったその塊は、1度割れるとどんどんと細かく、ぼろぼろになっていった。
「失敗しちゃった」
「割れちゃってるね。でもミートソーススパゲッティ食べたくなった。これ見てたら」
「明日の昼はそれにしようか」
そう言って、まだ全快ではないものの、朋子が笑顔を見せた。
夜、寝室に入って、それぞれのベットに体を休ませる。
「私、お酒飲んだ日、ちょっといびきかくかも。聞かなったことにして」
と、朋子が幹也に背を向けたまま言う。
「気にしないよ」
「気にするしないとかじゃない、そもそも聞いてないんだから」
「了解、何も聞いてない」
「そうです」
幹也は暗闇に慣れてきた目を閉じて、重い口を開く。
「じゃぁ、今から僕が言うことも聞いてないことになる?」
一瞬の静寂に、エアコンの風の音が大きくなった気がする。
「うん。ここは今から無音の世界です」
「ありがとう。今日は、、、ごめんね、怒っちゃって」
「やっぱ怒ってたんだ」
朋子は少しむすっとした声音で言う。
「スーパーでミニトマトを見た時、朋子のことを思い出しだんだ。昔よく行ってたハンバーグ屋さん」
「ああ、懐かしいね」
「それがね、ショックだったんだ。トマトぐらい、奥さんとの間にもいくらでも思い出があったのに、考えたのは朋子のことだった。だから今日はハンバーグにしようって、何の引っ掛かりもなく」
朋子は幹也に背中を向けたまま、ただ黙って聞いていた。
「それが、許せなくて。朋子には悪いけど、どうしても許せなくて。そして奥さんはいつも、僕が料理をしていると、決まって邪魔しに来てた、味見させろとか、手伝ってやるとか言って、何もできないのに、、、だから、だから、、、」
とめどなく、流れる涙。
それは亡くなった妻を思ってではない。自分が、もしかしたら1歩、先に進んでしまったかもしれないことへの後悔。
「分かったよ。私も、ちょっと浮かれてたんだと思う。昨日友達に、まだ旦那さんのこと吹っ切れてないって、素直に言えて、それで少し肩が軽くなった気がしてたから、幹也への接し方、変わっちゃってたかもしれない」
「いや、朋子は悪くない。僕の問題だ」
そうして幹也は、涙を強引に拭って、枕元に置いたエアコンのリモコンでスイッチを切る。
「だから、明日からは普通だから」
「うん、私もそうする。もう言い残したことはない?聞かなかったことタイム終了?」
幹也は、なんとなくこのままだといけないような気がして、
「それなら1つだけ」
「なに?」
「えっと、家の中であってもあんまりゆるい服装は辞めて欲しい、なぁ、って」
「え?、、、、、、、どういう、、、?、、、、、ええっ!?」
朋子はがばりとベッドから起き上がり、幹也のことを眇める。
「ないわ」
「ごめん」
「奥さん、この男、他の女に劣情を抱いています。呪ってください」
「生理現象だよ。自分でも久々にそうなってビックリしてるし落ち込んでるんだから」
「あれか、高校生の私を思い出してか、そうなのか?ロリコンめ」
「いやいや、違うから」
「うわぁ、これからの生活心配だわ」
2人とも気づいていた。
互いに余計に気力を使って、ふざけつつ話を盛り上げていること。
まるであの同窓会のとき、酩酊した旧友たちが、酒の力を借りて一度途切れてしまった繋がりをその場限りだけでも結び直した様に。
そうしないと、2人の間の紐帯はいとも簡単になくなり、崩れ、バラバラになってしまいそうだから。
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