第2話 2日目・8月6日 水炊き
仕事が終わって家に着くと18時ごろだった。
手探りで玄関の電気を点ける。
いつかは都度探さなくてもスイッチの場所が分かるようになる。
あるいは、そんなことすら意識せずにリビングへと入っていくのだろう。
そんな時が早く来れば良いと思う。
リビングに入る前に、脱衣所でワイシャツやら靴下を脱いで、洗濯機にざっと入れる。その流れで手を洗って、スーツのズボンを手に掛けて出ようとしたとき、はたと気づいた。
洗濯物は果たしてこれでいいのだろうか。
世の中の一般的な処理の仕方が分からなくなっていた。
とりあえず一度突っ込んだ服を洗濯槽から取り出す。胸ポケットに何か入っていないか確認し、軽く畳んで置いてあった洗濯カゴに入れる。
幹也はパンツだけ履いたままの裸体にズボンを持って、再度脱衣所から出る。
リビングに戻る前、一度だけ深く深呼吸してから引き戸を開けた。
__暗く、誰もいない部屋。
台所の電気だけ点ける。
リビングは暗いままにして寝室に行き、ハンガーにズボンを掛け、消臭スプレーを噴射した。柑橘系の匂いが充満する。その匂いはいつも新しく、永遠に自分に馴染むことのない匂いだった。
煌々とする台所で、米びつの「2合」のスイッチをぐっと押し込むと、ざーっと、米が流れる音がする。
じゃっじゃっじゃっじゃっ。
丁寧に米を研ぐ。
一定のリズム。
確か母には「のの字を書いて、最期、掌の付け根でぐっと押すんだよ」と教えられた。
部屋に、米を研ぐ音だけが規則的に響く。まるでこの部屋の鼓動のように、拍動するように。そうして流れ始めた血流は、きっと空間の記憶を司る場所みたいなところに酸素を供給したのだ。
「ねぇ、節電節電!料理してるときはリビング消すこと!石油王か!」
「そういう蘊蓄いいから、私は米ぬかの匂い嫌いなの、しっかり汁が透明になるまで研いでね!」
電気が明滅したような気がして上を向くが、気のせいだった。
米を浸水させている間、幹也はぼぉっとリビングのソファに座っていた。
何を作ろうか。
自分でメニューを決めることは、これまであまりなかったから、意外に困っていることに己で驚く。どんなものだって作れるのに、今この瞬間、何も思い浮かばない。
と、玄関が開く音がした。
「早かったね、確か20時くらいになるんじゃなかった?」
幹也は腕時計を見る仕草をして、もう外してしまったことに気づいた。
多分まだ19時にもなってない。
「ごめん、ちょっと体調悪くて」
「あ、そうなんだ、大丈夫?」
台所の光に逆行になっていたが、確かに朋子の顔は青白いように見えた。
もともと色白だが、それ以上に血の気がなかった。
「大丈夫、たまにあるの。頭痛くて、痛すぎて吐いちゃった」
「え、頭痛くて吐くことなんてあるの?」
「あるある、ほら今日低気圧来てるし、多分引っ越しとかの疲れも出たのかな」
「夜ごはん食べれる?」
「食べたいけど、ごめん。まずはちょっと薬飲んで寝ていい?ご飯多分準備してくれてたのに、本当ごめん」
「良いっていいって、具合悪いときは人に気をつかっちゃだめだよ。病人らしくすることが一番ありがたいんだから」
幹也の言葉に、力なく、ただしっかりと朋子は笑った。
「なんか変な言葉じゃない?それ。病人らしくすることがありがたいって」
「だって、病人っぽくしてくれたら、何の心置きもなく介助モードに入れるでしょ?変に大丈夫感出されたら、余計に心配になってそれにリソース喰われるから」
「ああ、幹也っぽい、なんか、めちゃめちゃ幹也だ」
1人納得して、仕事用の鞄から薬と小さいペットボトルを出し、薬を煽る。
そしてそのまま寝室へと崩れるように入って行った。
扉の向こうで、
「外着のままベッドに寝ちゃった、ごめん」
と聞こえた。
幹也は、どこか少しだけ心が晴れたような気がした。
朋子の具合が悪くて気持ちが前向きになるのは申し訳ないが、事実だった。
「ちょっと出かけてくる」
幹也の言葉に返事はなかった。
徒歩圏内の小さいスーパーで食材やらスポーツドリンク、デザートにプリンやゼリーを買って戻った。
まず、圧力鍋に水を入れて火を点ける。
手羽元・手羽先に包丁で切れ目を入れ、塩を外と中に揉み込み、少しだけ置いて鍋に入れる。
生姜をスライスし、ネギの頭、玉ねぎ、にんじんのヘタ、にんにくを入れ、塩もみした鳥と一緒に圧力をかける。
鍋を待つ間、先ほどまで浸水させていた米を別の小さめの鍋に開け、水を足して沸騰させる。沸騰したら軽くまぜ、箸を間に挟んで蓋を閉める。
やることがなくなった幹也は寝室を覗いた。
ベッドの上でうつ伏せになったまま寝ている朋子。
ジャケットに皺が寄りそうだと思ったが、そのまま毛布を上にかけた。
どれくらいの時間が経っただろうか、寝室から朋子が出てきた。
「ごめん、今何時?」
「えっと、、、10時だね」
「それ何飲んでるの?」
「アールグレイのデカフェ」
「おしゃれだね。私も何か飲みたいな」
「スポドリ買って来たけど」
「本当?、、、、、、、、ああ、そっか、、、うん、ありがとう、頂く」
朋子は感謝の意を一瞬面に出した後、全ての感情が何か深いところから出た手に引き摺りこまれたようだった。
「なんか、良い匂いする」
朋子がコップに注いだスポドリを飲みながら言う。
「一応、水炊きっぽいもの作ったよ。明日の朝でも食べれるように、生姜とかネギ入ってるから、具合悪い時にいいかなって」
「すごいね、女子の面目丸つぶれだよ、食べたい食べたい、良い?」
「そのために作ったんだから、良いよ。むしろ、、、」
「むしろ、何?」
「えっと、、、献立と役目をくれて、ありがとう」
朋子はちょっとだけ目を開いて、それから優しく笑み、
「どういたしまして、低気圧に感謝だね」
と言った。
幹也はすでに圧力の抜けた鍋を開け、味見をしながら塩を足す。
それから、汁の一部をザルで漉しながら、おかゆの方に注ぎ込む。
「はい、なんちゃって水炊きと、鳥出汁っぽいおかゆ」
幹也がリビングの明かりを点けると、椀によそった汁とおかゆから出る湯気が細かく煌めいた。
「生姜の良い匂い」
「お肉食べれなくても、スープ飲みなね」
「うん、、、、、うん、、、、どっちもおいしい、、、、おいしい、、、本当にありが、、、とう、、、」
汁を一口飲み、おかゆを口に入れ、朋子は涙を流した。
あたかも通いなれた道を辿るように、抵抗もなく顎まで、それから1滴、食卓に垂れた。
幹也は、ただ黙って自分も食べた。
調理したからか、箸を口元に運ぶと、手から生姜の匂いがした。
この匂いは、もう自分に、いや、この2人に馴染んだ匂いなのだろうか。
「あのさ、今のお米って精米技術がすごいから、あんまり研がなくてもいいんだって。ゴミもほとんどないし、ぬか臭さもないって」
「へ、へぇ、そうなんだ、、、。私、そもそもあんまりぬか臭さ感じたことない」
「だよね」
「それで言うとね、私も1つ雑学があるの」
「なに?」
「スポーツドリンクって1括りにしても、今日幹也が買ってきてくれたやつだけ、違うんだって、なんか生理食塩水の成分に近いから、風邪とか脱水症状のときは絶対にそっちが良いって」
「そっか、そうなんだ、知らなかった」
その後、2人は黙々と水炊きとおかゆを食べ、一緒にデザートを食べた。
朋子はゼリー、幹也はプリンだった。
「ねぇ、1人でいるとき、リビングの電気点けてよ、怖すぎる」
という朋子の苦言に、
「ああ、今度からそうする」
と幹也はゆっくり瞬きをしながら答えた。
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