おひとり夫婦
屋代湊
第1話 1日目・8月5日 卵焼き
土日に引っ越しを終え、月曜日は幹也も朋子も会社の休みを貰った。
「家具は一通り揃っているし、うん、大丈夫そうだね」
幹也は昨日のうちに処理しきれなかった段ボールを潰しながらだった。
中身を失ったそれは、潰されて初めて段ボールになったようで、空っぽだからこそ、それはそれとして存在できるのかもしれない。そうであるならば、幹也は今、初めて自分が佐藤幹也として生きているような感じがする。
名前と、それからこの体、あるのはそれだけだ。
「ごめん、出来れば髪ゴムと、あと化粧水とか買いに行きたいかも」
朋子がリビングに敷いたカーペットをコロコロで掃除しながら背中で言った。
「うん。いいよ。ドラッグストア近くて助かるね」
「ね。コンビニも近いし、駅も」
それぞれの、決めた訳でもない役割を一段落させ、外出の準備をする。
幹也はそのままユニクロの半ズボンとシャツで、朋子は1つに纏めていた髪を解き、ヘアオイルで整える。
「ねぇ、髪、これでいいと思う?」
朋子の声に、幹也は洗面台に行き、鏡越しに瞳を合わす。
「そうだね、僕はまとめてるより、そのまま流してる方が好きかな」
「本当は前髪上げたいんだけどね、油ギッシュになってすかすかになっちゃうから」
「でもそういう髪型、流行ってるんでしょ?」
「シースルーバング?良く知ってるね、昔はそんなの興味なかったじゃん」
朋子はそう言って、すぐに自分の過ちに気づいた。
「ごめん、今の良くなかった」
「いや、いいよ、大丈夫。気にしすぎるのも良くないと思うから」
それから朋子は着ていたTシャツとルームウェアにしているアディダスのショートパンツを脱ぐ。
「服、洗濯しちゃおう。帰ってきて干せるように。結構埃とかあるでしょ」
朋子は下着姿のまま、脱いだ服を洗濯機に入れながら言う。
「じゃあ僕も着替えた方がいいかな」
「そうしなよ、汗とかすごいよ。あと着ない長袖とかも洗っちゃってからしまおうよ」
結局、外出するまで20分ほどかかった。
賃貸マンションを出て、すぐ隣は公園であった。すでに学校などは夏休みに入っているはずだが、子どもの姿はない。
丁度15時ごろであった。
「最近暑いからね、朝とか夕方以外は外で遊ばせないようにしてるんじゃない?」
そう朋子が言った。
かくいう彼女も、まだマンションを出て数分だが、ブラウスからすっと伸びる首元にうっすら汗をかいていた。
ドラッグストアに着いて、2人でポイントがもらえる機械の前に立つ。
「やったぁ、わたし金賞、30ポイントだって、幹也もやってみて」
「どっちかしか使えないと思うんだけど、、、あ、銅賞」
「いぇーい、私の勝ち。じゃぁ今日の支払いは幹也ね」
「了解」
印刷されたレシートのようなポイント引換券をカゴに入れて、それぞれ目当ての物を探す。
「どう、揃った?」
「化粧水はあった。髪ゴムは300均で買う」
「おっけ」
「ねぇねぇ、こっち来てよ」
朋子が幹也の二の腕あたりを遠慮がちに持って、引っ張っていく。
「これ、ボールペン、1本50円だって、安くない?」
「入れ替え商品だね」
「3色ボールペン、買っていい?玄関置く用に」
「いいよ」
「やった。どの模様にしようかな、、、」
「そういうの、悩むよね、朋子は」
幹也の言葉に、朋子は口の端でだけ笑った。
300均に寄った後、少しだけ食材などの買い物をして家に戻ったときには夕方になっていた。
まだ新しい部屋の匂いが、帰宅したという気持ちを少しだけ薄くする。
「夜ごはん、何にしようか」
幹也の問いに、
「作ってくれるの?そういえばその辺、決めてなかったね。私、ばりばり自分が作る気持ちで買い物してたよ」
「夜ごはんは僕が作るよ、朝は食べる人?」
「ううん、食べない。でもいいの?」
「ほら、僕の方が帰り早いから」
「ホワイト企業だもんね、それじゃ、甘えちゃおうかな。きつくなったら外食にしよう、私も作るし。お返しに洗濯は私がするよ」
「うん、お願い」
「今日の夜は、疲れたし、さっくりでお願いしたいかな、それこそ朝食みたいな感じで」
「じゃぁ、卵焼きと、シャケ、お味噌汁に、レタスのサラダと、万願寺とうがらし買ったから、甘辛煮にしようか」
この夏は暑くて、夏野菜がたくさん取れたらしい。
万願寺とうがらしなんて、滅多に見ない野菜もスーパーに並んでいた。
幹也は炊飯のセットをした後、鍋にお湯を沸かし、粉の出汁を入れる。それからレタスを水に浸して、シャケに塩をかけようとして手を止めた。まるで、これまで淀みなく連携していた頭と体、その間に通っていた電気信号が急に遮断されたように、塩の入った瓶を持って固まった。
「ごめん、朋子。塩分は多い方が好き、それとも少ない方?」
洗濯物をベランダで干していた朋子が、部屋に半分体を入れて、
「私は薄めの方が好きかな」
「そう。じゃぁ今日の味噌汁は粉の出汁で作るけど、次からは昆布から取ったほうがいいかな」
「えー、手間じゃない?」
「いや、そんなだよ、コーヒーとかの空き瓶に昆布と水入れとけばいいだけだし」
「すごいね、まさか幹也が、、、」
そこで朋子の声が止まった。
「いいよ、これからもそういうのは気にしなくて」
「うん、そうする。でさ、あのスポーツと勉強しか頭にありませんって感じの幹也が、料理男子になってるなんて思わなかった」
「意外と楽しくてね、そのうちいろんな調味料が増えるよ」
「それはちょっとやだなぁ」
そう言うと、朋子はまたベランダに戻って行った。
卵焼きを作る段になって、また朋子に声をかけようと思ったが、なぜかそれはしなかった。その意味が、幹也自身にも分からなかった。
夕食は2人、横に並んで食べた。
向かい合って座るのが普通だろうが、なぜか2人ともそうしなかった。
テレビもつけず、外からは名の知らない虫の声がずっと聞こえていた。
「ありがとう幹也、おいしい」
「どういたしまして」
朋子は卵焼きを箸で綺麗に切って、口に運んだ。
「これ、出汁巻だね」
「うん」
「よく作るの?」
「いや、自分用のときだけ」
その言葉の後、一瞬の間があったが、
「そうなんだ。私は出汁巻が一番好きだから、これからもこれでお願いします」
「了解」
「了解って、口癖だよね」
「そうかな」
「そうだよ」
朋子は幹也の方を見て笑って、それから、
「卵焼きってさ、特権階級だよね」
と言った。
幹也はその意味をかみ砕けず、
「どうして?」
「だってさ、1つの料理でしかないのに、どの家にも卵焼き機、あるでしょ。専用の」
「ああ、フライパンのこと?」
「そうそう、四角いやつ」
「だから特権階級ね」
「それぐらい、大事な料理なのかもしれないね」
「日本人にとってね」
「そう、日本人にとって」
幹也はその時、ああ、大根おろしも用意すればよかったな、と思った。
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