第4話 悪魔の犯罪

 子供が児童であったりすると、学校の行事や何かで、親同士が集まりという、いわゆる、

「ママ友」

 というのが多いというのは分かっていた。

 そもそも、ママ友になる時という一番最初のきっかけは、

「公園デビュー」

  ではないかということであった。

 ベビーカーを引いて、午後の日が傾いたくらいの時間に、近くの児童公園に、やってきて、空いているベンチに座る。

 すると、そこに。同じようなベビーカーを引っ張ってくる他の奥さんがやってくる。初めての人であれば、笑顔で挨拶することで、

「ママ友の基礎が出来上がる」

 ということだ。

「幼児の公園デビュー」

 というのは、幼児にとっても大切なことだが、

「母親の公園デビュー」

 ということで、

「実は、母親の方が、その目的は大きい」

 といってもいいだろう。

 公園デビューができると、母親も、

「自分は一人ではない」

 ということを感じ、近所づきあいがなかなかうまくいかなかったであろう場合は、当然、公園デビューというのも怖いと思っていただろうから、うまくできたことで、

「安心して、自信も取り戻せる」

 というものだ

 ただ、最近は、

「ママ友」

 というのも、手放しに喜べない場合があった。

 あれは、同じ、このF県で、2年くらい前に起こった

「悲惨な事件」

 であったが。

「ママ友のせいで、子供が餓死してしまった」

 ということが発生した。

 元々は、明るい奥さんで、公園デビューもうまくできていたような奥さんだったのだが、その奥さんに目をつけ、洗脳することで、

「食い物にしよう」

 と考えていた、

「恐ろしいママ友」

 というのがいたのだ。

 内容はだいぶ忘れかけていた。何しろ、2年前の事件だったので、細かいところは、

「どこまでひどい女だったか」

 ということは覚えているが、一つ一つは曖昧だが、

「たいていの悪事は、行っていたことだろう」

 というのは間違いないことだった。

 何しろ、

「奥さんを洗脳して、ノイローゼにさせ、自分のいうこと以外を聞かないというように、コントロールされていたのだ」

 ということになると、

「子供のことが一番のはずなのに、いつの間にか、子供のことも、そのママ友にいちいち聞いて指示を受けていた」

 ということで、

「優先順位は、そのママ友が一番」

 ということになったのだ。

 その瞬間から、そのママ友は、ママ友ではなくなり、

「人を洗脳する犯罪者」

 ということになり、

「母親は、子供や家族のことは二の次で、この犯罪者女の下僕に成り下がった」

 といってもいいだろう。

 そうなると被害者は、彼女の家族であり、加害者は、犯罪者女であることに間違いはないが、この女ももちろん、片棒を担いていることで、

「いつ何が起こってもおかしくはない」

 という状態になっていたのだ。

 実際に、

「子供が餓死する」

 ということになった。

 子供の様子がおかしかったら、普通であれば、何があっても、救急車を呼ぶのが当たり前だろう。

 しかし、母親は、例のママ友を装った、犯罪者女に連絡を取り、指示を仰いだ。

「犯罪者女は、まずいと思ったのか、救急車を呼ぶことをやめさせたが、結果それが手遅れになって、子供が餓死する」

 という悲惨なことになったのだ。

 当然犯罪者女は、

「悪いのは母親で、母親が、育児義務を怠った」

 と言い張るのは当たり前だ。

 しかし、状況を見ている、

「ママ友仲間」

 は、大体のことは分かっているのだが、最初は、そのママ友が怖くて何も言えなかったが、さすがに、警察の捜査が進めば分かってくることだと思ったのか、

「私が言ったって、誰にも言わないでくださいね」

 と刑事にくぎをさしておいて、犯罪者女が、母親にしてきたことを克明に語ったのであった。

 しかも、彼女たちは次第に饒舌になり、

「聞きもしないのに、その犯罪者女の正体を暴露し始めた」

 ということである。

 聞いてみれば、そのひどさがどんどん分かってきて、さすがに慣れているはずの刑事も顔をそむけるほどになっていたのだ。

「実際に、こんな洗脳ということが行われているということは、聞いたことはあったが、ここまでとは思ってもみなかった」

 ということを、捜査員も感じ、

「刑事としてではなく、人間として考えると、はらわたが煮えくりかえるくらいになっていた」

 のだった。

 刑事もいろいろな裏付け捜査も、かなり行った。

 それだけ、

「正義感」

 というものを揺さぶられる事件だった。

 普段から、殺人現場などの、悲惨な現状を見ているはずの刑事だったので、なかなか、そんな悲惨な現状でもなければ、そこまで必死になることはないということなのだおるが、逆に、

「そんな恐ろしい事件が、日常茶飯事にあるわけではないので、そこまで、感覚がマヒすることはない」

 ということのようだが、どちらにしても、今回の、

「ママ友と称する極悪女に関しては、はらわたが煮えくりかえる思いだ」

 というのは、捜査に携わる人、全員の一致した意見ではないだろうか。

 もちろん、

「捜査に私情は禁物だ」

 というのだろうが、

「それも、時と場合によるものだ」

 ということであろう。

「警察官だって、人の親だったり、人の子である」

 というもので、

「人道に反するような事件は許せない」

 と思うのも当たり前。

 もっとも、そういう、

「犯罪を許せない」

 と思う気持ちが、事件解決に役立つわけなので、少々の感情はいいのではないだろうか?

 しかし、それはあくまでも、

「犯罪を憎むのであって、人間を憎んではいけない」

 ということで、

「罪を憎んで人を憎まず」

 という言葉があるが、それも、

「時と場合による」

 といえるのではないか。

 特に最近のように、

「簡単に許してはいけない犯罪」

 というものがたくさんある世の中、

「理不尽」

 という言葉が横行している。

「罪を憎むということは、その犯人も憎むということであり、少なくとも、人間の感情がなければ、罪は発生しないのである」

 といえるであろう。

「人を憎んではいけない」

 というのは、ある意味、

「魏弁であろう」

 といえる。

 中には、情状酌量の余地がある人だっているだろう。

 そういう人を憎んではいけないのかも知れないが、明らかに、自分の私利私欲のために、平気で人を殺すというのは、その人を憎まないで誰を憎むというのか。

「人を憎んではいけない」

 などという考えがあるから、

「罪を犯しても、憎まれることはない。うまくその場をやり過ごせばそれでいい」

 というくらいに思っている人もいたりして、その人たちは、

「憎まなければいけない人間」

 といってもいいだろう。

「人を憎まず」

 といってしまうと、

「犯罪行為を許すことになり、永遠に犯罪がなくならない」

 ということを示しているのだ。

「死刑廃止論」

 というものがあり、死刑にならない人がたくさんいるという、世界情勢であるが、本当にそれでいいのだろうか?

「悪いことをすれば、それを償う必要がある」

 ということで、

「犯罪の抑止」

 ということもあり、死刑に値する人間を死刑にしないという理屈が分からない。

 だから、情状酌量されるべき人が、普通に裁かれ、死刑になるべき人が、ならないというのであれば、これこそ、理不尽であり、2次災害としての、私恨からの、

「復讐殺人」

 というものが起こらないとも限らない。

「本当に死刑がなくてもいいのだろうか?」

「そんな議論は必要がない」

 と、最近は思うようになったのだ。

 この話は、センシティブでもあるし、

「なかなか結論が出ない」

 ということになり、話をすると、主義主張の力が近い状態であると、どうしても、

「平行線」

 ということになり、収拾がつかないということになるであろう。

 だから、本当であれば、立法としての、

「国会議員による、国会審議」

 にて行ってもらうのが、正当なのだろうが、

「頭が悪く、賢いといえば、狡賢いといえるような連中しかいない国会で、決められることが、本当に正当なことなのか?」

 と思うと、どうしようもなく、むなしく感じさせられるというものだ。

 そんな時代において、

「ママ友による洗脳事件」

 というものが、世間を騒がせたというのは、事実であり、

「実際にそんなことがあっていいものだろうか?」

 と感じた人も多いことだろう。

 もちろん、今の世の中において、

「こんなに理不尽なことが本当に起こるというだけに、法律自体が、もっと公平であればいいのに」

 と思っている人も多いだろう。

 裁判などで、

「被害者」、

「加害者」

 それぞれの立場もあるだろう。

「理不尽に、理由もなく、ただの愉快犯の手にかかって、何も悪くない被害者が、無残にも殺害された」

 という事件をよく聞く。

 本来であれば、人情として、

「そんな生きる価値もないような人間は、死刑でもお釣りがくるくらいだ」

 といえるだろう。

 何の関係もない一般市民が、普通に考えただけで、

「死刑は妥当だ」

 というような事件が発生しても、実際には、

「警察側の求刑事態が、無期懲役だったり、懲役12年などという、あまりにも軽いと思えるような求刑をするのだから、出される判決は、それ以上ということはまずない」

 となると、せめて、

「懲役10年がいいところであろう」

 といえる。

 ということは、

「あれだけの極悪人が、10年もすれば出てくる」

 ということだ。

 世間的には、厳しいかも知れないが、一応、

「刑期を全うして出てくる」

 ということになり、晴れて、社会復帰という形になるだろう。

 これでは、

「誰が浮かばれる」

 というのか、これほど理不尽なことはない。

 また、よくある理不尽な話として、

「婦女暴行事件」

 と起こした青年。

 ということで、ドラマなどで言われるのが、

「その犯人が、金持ちのボンボン」

 という場合で、罪を犯した理由として、

「受験勉強のストレスから」

 という、理由にもならない理由を並べて、相手の顧問弁護士がやってきて、謝罪をしながら、マウントを取ってくるのが、いら立ち以外の何物でもない。

 そして、相手はあくまでも、相手の正当性だけしか言わないので、

「これの何が謝罪だというのか?」

 というもので、

「本当に怒り以外の何物でもない」

 といえるのだが、相手のいうことも一理ある。

 というのは、

「リアルな現実を突きつけてくるのだ」

 というのは、

「こちらの加害者は未成年なので、罪に問われても、情状酌量が関の山です」

 という。

 特に、

「初犯なので」

 と言われると、本当に、執行猶予付きで、懲役刑にはならないということになり。

「そのために、被害者が、裁判に出頭させられ、言いたくないこと、思い出したくもないことをあれこれネチネチ聞かれるということに耐えられるのか?」

 と言われると、さすがに黙ってしまう。

 ただでさえ、今の怯えている本人を見ると、

「かわいそうだ」

 ということで、見ていられない状況から、裁判でさらし者にされる状況を想像すると、どうしていいのか分からないということになってしまう。

 さらに、目の前に、示談金ということで、

「これを治療費であったり、慰謝料としてお使いいただければ」

 と言われると、諸事情と加味すれば、

「示談に応じる方がいいのか?」

 と考えてしまう。

 その時に相手から、決定的な言葉を言われるのだが、それが、

「いやなことはすべて忘れて、これからの人生を楽しく過ごせるように一刻も早くしてあげるのも、私たちの役目では?」

 と言われてしまうと、

「まずは、彼女のことを一番に考えてあげなければいけない」

 ということで、

「確かに、嫌なことは一刻も早く忘れることが大切だ」

 と考えるのも、当たり前のことであった。

 それを考えると、

「弁護士のいうことも一理ある」

 と考えさせられ、結局、

「訴えを取り下げて。示談」

 ということになるのだ。

 ただ。これで本当にいいのだろうか?

 下手をすれば、この男は、また同じことを繰り返すかも知れない。

「罪を犯しても、弁護士が助けてくれる」

 と思うと、図に乗ってしまうことになるだろう。

 さすがに弁護士も、嫌気がさすかも知れないが、

「弁護士の仕事は、依頼人の利益を守る」

 ということが最大の務めだということになるのだ。

 理不尽であるが、それが現実であり、弁護士も、本当は嫌々かも知れないが、

「自分で選んだ仕事だ」

 ということで、徹底しなければいけないということであろう。

 ただ、もし自分の仕事が、

「事件を増やしている」

 と思うと、さすがに、今はギリギリの状態だったとすれば、

「弁護士を辞める」

 という人もいるかも知れない。

 そういう人は、精神を病んでしまうだろうから、

「本当のこの世の悪というのは、何なのだろうか?」

 と考えさせられることになるのではないだろうか?

 ということである。

 弁護士というものがどういうものなのか?

 と絶えず、ほとんどの弁護士が考えていることだろう。

 それだけ、理不尽なことが多く。それでも、味方をしなければいけないと思うと、

「これが本当の理不尽だ」

 ということになるであろう。

「洗脳などによる犯罪」

 ということでの、

「ママ友による、児童餓死事件」

 というものであったり、

「婦女暴行」

 という、あまりにも身勝手な犯罪を、示談として隠蔽しようという犯罪は、

「罪に重さ」

 なるものがあってはいけないのだろうが、結果として、その重さをランキングするなどということになると、いかに理不尽であっても、

「金で解決」

 ということをしたり、

「法律の隙間を縫ったり」

 あるいは、

「直接手を下していない」

 ということで、罪が軽くなったり

 ということがあると、これほど理不尽で、

「悪魔のような犯罪」

 というものがないとは言えないだろう。

 そんなことを考えていると、

「悪魔」

 というのは、当たり前のようにいるのではないか?

 ということである。

 というのは、

「人間は、当たり前のように、そんなにひどい人はいない」

 という感覚でいる人も多いだろう。

 しかし、実際には、

「人間と呼んではいけない」

 というような人がいるということは、今までの犯罪の歴史を見ていると、分かるというものである。

 たとえば、今までの歴史の中であった、極悪な犯罪などがそうであろう。

「青酸カリを使って、従業員を殺しておいて、そのまま平気で泥棒するという、実に極悪非道な事件」

 であったり、

「嫉妬によるもので、相手をバラバラにして、いろいろなところにその身体の一部をばらまいてみたり」

 などという犯罪は、

「猟奇殺人」

 であったり、

「異常性癖」

 としての犯罪ということを言われたりすることだろう。

 特に、昔の、

「変格派探偵小説」

 といわれるものがあったが、それは、

「トリックや謎解きの醍醐味を、探偵が見事に推理する」

 ということに特化した、

「本格派探偵小説」

 と呼ばれるもの以外を、

「変格派」

 ということになるので、

「異常性癖」

 であったり、

「猟奇犯罪」

 であったり、

「耽美主義」

 と世慣れるものは、すべて、変格派と呼ばれるとすれば、実際に、このような異常な犯罪がまったく減らないということは、

「リアルで、変格探偵小説が描かれている」

 といっても、いいのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「極悪非道な犯罪は、平行線であり、なくなることはない」

 といってもいいのかも知れない。

「この世から犯罪というものがなくなることはない」

 というのは、どうしても、民主主義のように、

「貧富の差」

 であったり、差別はなくならない以上。犯罪自体はなくならないといってもいい。

 それは、世の中が、

「民主主義」

 である以上といってもいいだろう。

 それに、よく勘違いされることであるが、

 福沢諭吉の、

「点は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」

 という、思い切りの理想像を描いているが、これは、本当の理想であり、実際にはありえないといってもいいだろう、

 そもそも、福沢諭吉が

「聖人君子」

 ではない。

 日本の将来というものを考えることで、

「他国への侵略もやむなし」

 といっているのだ。

 だから、決して戦争反対論者というわけではない。

「戦わなければいけない時は戦う」

 というある意味、当たり前の考え方の持ち主だというわけだ。

 考えてみれば、

「この世に最初から、平等などという考えは、ただの理想でしかない」

 なぜなら、

「生まれながらに平等だ」

 というが、それこそが、嘘ではないか。

 というのも、

「誰が、こんな家に生まれてきたいと思うのか」

 と、貧乏な家に生まれた子供は思うだろう。

 それを口に出すと、怒られるだろうから、口に出さないが、同じ時に、裕福な家庭に生まれた子供とは、

「生まれ落ちた瞬間から、差がついてしまっている」

 といっても過言ではないだろう。

 つまりは、

「金持ちの家に生まれてくれば、明日のごはんの心配を少なくともしなくてもいい」

 ということだ。

 しかも、時代によっては、

「金持ちの家の子供がちやほやされる」

 というのは当たり前のことで、それが学校だとするなら、

「学校に寄付してくれる家庭の子供は大切にしないといけない」

 というのは、社会的には当たり前ということになる。

 確かに、教育上は、

「すべての子供は平等だ」

 というが、それこそ、そんなものは、偽善でしかない。

 学校だって、公立であっても、

「生徒相手という客商売に違いない」

 売っているものが、

「教育」

 というものなだけであり、そのために、生徒という客であれば。

「高いものを買ってくれた人を、上客ということで、大切にするということは、経済学の基本ではないか」

 ということである。

 いくら、

「学問を教えるところだ」

 といっても、学校も、儲けなればダメだということだ。

 校長が、教育一番ということで、教育だけに舵を取っても、儲かっていなければ、責任を取らされるということになるだろう。

 経済学では、

「儲けを出さない企業は、罪悪だ」

 とも言われている。

 特に、

「企業は自分だけで商売をしているわけではなく、仕入先があり、顧客があることで、商売が成り立っている」

 ということで、

「自分が儲からず赤字を出せば、自社にかかわっている他の会社にも迷惑がかかる」

 というものだ。

 下手に潰れたりすると、かかわっている会社の中の零細企業と呼ばれるところはひとたまりもなく、

「連鎖倒産」

 という憂き目に遭わされるということになるに違いない。

 それを考えると、

「うちの会社は、儲け優先でいくしかない」

 ということになる。

 それは学校も同じことで、特に校長や教頭は、

「学校に起こった責任は、すべて自分たちが負わされることになる」

 と考えることだろう。

 そういえば、昭和の頃に一世を風靡した。

「熱血学園もの」

 という、テレビドラマが流行ったことがあった。

 これは、少し違い、

「校長は生徒の味方なのだが、教頭と、教頭の取り巻きのような腰ぎんちゃくの一教師が、学校のもうけを考えるのだ」

 というのも、

「教頭は、校長の椅子。一教師は、空いた教頭の椅子」

 というものを狙っているというのが、その構図だった。

 校長を悪徳にしてしまうと、主人公の先生を陰から助ける人がいないということと、校長にワンクッションを置くということにすれば、視聴者に、その構図が分かりにくいということがあるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「熱血先生もの」

 という青春ドラマは、結構当時の視聴率に貢献していたことだろう。

 ただ、相対的なものとして、アニメなどでよく描かれていた、

「熱血根性スポーツもの」

 というのも、同じムジナだといってもいいかも知れない。

 とにかく、

「熱血」

 という言葉が叫ばれた時代。

 今では信じられないという、

「根性論」

 ということで、

「根性さえあれば、なんでもできる」

 という無理強いの番組だったのだ。

 今であれば、一発、

「コンプライアンス違反」

 であったり、

「差別問題」

 ということに抵触するに違いない。

 時代背景には。まだまだ差別。同和問題がはらんでいて、

「貧乏な家庭に育った子供が、努力と根性で、プロの世界を目指していく」

 というものが、

「スポーツ根性もの」

 である。

 今ではなかなか見られないうさぎ跳びというのが、部活のシーンであり、部長などが、必ず、竹刀をもって床を叩いているというようなシーンが、毎回当たり前に写されていたのだ。

「その気になれば何でもできる」

 というのは、今の時代であれば、完全なパワハラで、まず、一発、

「放送禁止」

 ということになるに違いない。


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