第2話 「マイナス」に「マイナス」を
そんなとんでみない時代の、とんでもない、
「中途半端な都会」
である、F市で殺人事件が起こった。
街の比較的静かなところで、一人の死体が見つかったのだが、その死体発見がもう少し遅れていると、
「見るも無残な死体」
として発見されるところであった。
顔は完全に潰されていて、身元を表すものを身に着けているわけではないので、すぐに身元が分かるということはなかった。
実際には、手首も切断されていて、そもそも、昔であれば、
「死体損壊トリック」
ということで、
「顔が分からない」
というような、
「顔のない死体のトリック」
ということになっただろう。
もちろん、身元を表すものは、すべて取り除いておいて、指紋を採取できる手首を切り取っておくということも忘れないだろう。
そうやって、顔と手首から先がないことで、身元を不明にし、
「死体の身元を、そこまでして不明にするということが最優先だ」
ということを、捜査員に知らしめることが大切だった。
今であれば、そんなことは無駄ではないだろうか。
時代として、
「顔と手首がない」
というくらいで、身元の判明が分からなくなるということもないだろう。
顔が潰されていても、骨格は分かっているのだから、
「顔の復元」
ということも不可能ではない。
顔を不明な状態にしても、今であれば、
「デジタルによる復元」
くらいはできるであろうから、復元した顔を、モンタージュとして、世間に広く情報提供をしてもらうということも可能ではない。
また、これがどこまで信憑性があるものなのか分からないが、
「手がダメなら、足ではどうか?」
というものだ。
もし、発見された死体の顔がない場合として、
「分別がつかないほどに、潰されている」
ということであれば、
「骨格による復元もできる」
であろうが、これが、そうではなく、
「首なし死体」
ということであれば、そもそも復元するための、骨格を持ち去っていることになり、
「骨格による復元」
というのは、不可能だということになるのである。
この場合に考えられるということで、
「足の指の指紋から分からないだろうか?」
ということであった。
そもそも、指紋というのは、その人に何かあった場合でしか、警察に残っているわけではない。
「元、犯罪者」
であったり、逆に、
「空き巣などに入られた経験があり、捜査のための指紋採取が行われた時」
くらいだろうか、
ただ、後者とすれば、
「果たして、いつまで、警察に保存してあるというのか?」
ということであった。
せめて、
「事件が解決するか」
あるいは、
「迷宮入りする」
ということで、犯人逮捕に至ることなく、とりあえずは、捜査打ち切りとなった場合までかも知れない。
だが、それだと、
「いざという時に証拠がなくなってしまっている」
ということになり。
「事件を解決するすべをなくさないようにするという意味で、保存の義務はあるのではないか?」
と思われる。
「事件の捜査」
というものが、いつまで継続されるのかということは、
「変動的なものなのかどうか」
というのが気になるところであった。
つまり、
「事件の種類」
あるいは、
「その大きさであったり重さ」
というもので、捜査期間というものが決まるのか、それとも、3か月なら3か月で、それを過ぎれば、どんな事件であっても、一度審議され、このまま捜査員をつぎ込むだけの検挙ができる可能性がある程度分からなくなってくると、
「捜査本部は解散し、捜査打ち切り」
ということになるというのであろうか。
それは、もちろん、何かの基準がなければ、警察も、いつまでも一つの事件にかかわっているわけにもいかないだろう。
それを、実際に明記されているのか、それとも、その警察署の、
「都合」
ということで、
「曖昧なものなのか?」
ということになるのだろう。
今回の事件は、どうやら、
「曖昧なことは多かったので、
「捜査本部が解散」
ということは、捜査を続けている捜査員にも、途中くらいから、分かっていたことであろう。
人間というのは不思議なもので、
「どうせ、すぐに捜査本部は解散になるさ」
と思ってしまうと、案外と、気合が抜けるもので、
「もういいや」
ということを感じ、捜査もいい加減になってくるというものだ。
「警察官でもそうなのだ」
と思う人もいるだろうが、
「警察官だからそうなのだ」
ともいえるだろう。
それだけ、今までにいろいろな事件に遭遇し、捜査を進めていくうえで、
「捜査がそのうちに打ち切りになる」
ということをウスウス気づくようになると、次第に、手抜きのようになってくる。
事件に、思い入れでもなければ、ただの捜査員であれば、打ち切りになろうがなるまいが、
「そんなに変わることはない」
と思っているのだ。
「結局は何をしていても、就業時間の中」
ということで、それが、殺人事件の捜査であろうが、平和な中での毎日のパトロールであろうが、変わりないということを思っているのかも知れない。
皆が皆そうではないだろうが、
「警察官というのは、公務員」
ということである。
こちらも、公務員すべてがそうだとは言わないが、どうしても、
「お役所仕事」
というのが頭から離れない。
役所などでは、何かの対応をしていたとしても、定時の5時になった時点で、いきなり受付カウンターの上に、
「受付終了」
の札を置いて、何もしようとしない。
というような、ギャグ映画を子供の頃に見たことがあり、
「これが公務員だ」
と思い込んでいたが、さすがに、大人になると、
「そんなことはないだろう」
と思うのだが、公務員、特に政治家などの正体を知ると、
「あの映画は、まんざらウソではないか」
と思えてきた。
何といっても、
「火のないところに煙は立たない」
と言われる通りなのであろう。
ちなみに、このことわざの、
「火のないところ」
というのはおかしくはないか?
と感じた。
このことわざは、
「マイナスにマイナスを掛けて、プラスにしている」
というもので、どう解釈すればいいかといえるのではないか?
つまりは、
「火が出るから、煙が立つのだ」
ということと、意味としては同じことで、これだったら、すべてがプラスなので、分かりやすいというものだ。
何も、
「マイナスにマイナスを掛ける」
というややこしいことをする必要があるのだろうか?
それとも、
「マイナス一つでは、プラスにプラスと同じ効果だが、マイナスにマイナスを掛けると、それが、倍以上の効果をもって、相手を納得させるということなのか?」
と考える。
それくらいのインパクトがないと、逆にいえば、この理論は、納得できるものではないといえるのではないだろうか。
というのは、
「このことわざ以上に、実際に、何かがあって、それが証明となるという事実を、より強調させたい」
という思惑でもなければ、
「どこまでが信憑性のあるものか?」
ということになるかということであった。
人間にとって、錯覚であったり、慣れというものが、
「感覚を狂わせる」
ということは往々にしてあるものだ。
特に慣れということになると、昔の寓話にあったような、
「オオカミ少年」
という話に代表されることが起こるのではないか?
ということである。
「このお話は、教訓というべきものに、さらに、何かが隠されているお話ではないだろうか?」
と言われるものでもあった。
「ある村に、一人の少年がいて、彼は面白がって、大声で、オオカミが来たといって騒ぐことで、村人が慌てふためく姿を見て、楽しんでいた」
というところから始まる。
面白いもので、何度でも、
「オオカミが来た」
といって騒ぎまくっていたが、さすがに何度も同じことでだまされてきたのだが、村人も途中から、
「どうせ嘘だろう」
ということを感じるようになり、次第に、逃げることをやめ、慌てることすらなくなってしまった。
そのうちに、
「確認する」
ということもやめてしまい。その少年のいうことを、一切。聞かなくなってしまったのだ。
それにより、村人は、少々のことでは驚くことなく、
「どうせ、またウソだ」
ということを感じるようになり、今度は本当にオオカミが出たのに、誰も信じなくなり、結局、皆オオカミに食べられたというような話ではなかったか。
ここでの教訓としては、結構いくつかあるのではないだろうか?
一番先に考えられることとしては、
「オオカミが来た」
ということを何度も言われ、それが嘘だということで、すべてを信じなくなったことではないか
ということである、
確かに、何度も言われ、それが嘘だということで、信じなくなったということがいわれるのだが、本当はそこではないように思うのだ。
というのは、
「すべてを信じなくなった」
ということが問題なのであって、そのために、
「最低でもしなくてはならないことを怠った」
ということである。
それが何かといえば、
「確認するということ」
になるのである。
嘘だと思って、
「逃げない」
あるいは、
「慌てない」
ということは悪いことではなく、むしろ、冷静になるのはいいことではないだろうか?
しかし、肝心なことは、
「確認さえしておけば」
という前提があってもことである。
「確認して、オオカミがいない」
ということが分かればいいわけで、もし、それが勘違いであり、皆結果的に食べられたとしても、それは別の問題であり、このお話の場合であれば、
「確認さえ怠らなければ」
ということになるのである。
それが間違いだったというわけではない。少なくとも、確認をするという心構えがあれば、それでいいのだ。
しかし、それが甘く、結果は一緒だったとしても、問題は、
「やり方」
にあるというだけで、確認をするための、マニュアルのようなものがなかったり、その時のやり方に対しての周知徹底をしていなかったというだけで、最初の教訓のさらに奥の教訓ということになる。
そういう意味で、この
「オオカミ少年」
という話には、いくつもの教訓が重なり合っているのだといってもいいのではないだろうか?
それを全体的にまとめると、
「思い込み」
であったり、
「考え方の甘さ」
などというものが、最悪の結果をもたらすには、実に簡単なことだといえるのではないだろうか?
この場合のように、
「教訓」
という言葉では済まされないという、最悪の事態になることだってあるということになるのであった。
「マイナスにマイナスを掛け合わせるとプラスになる」
ということは、そのプラスは、掛け算が引き出す答えを倍加させるという意味でのと絶えになるのではないかと思える。
そういう意味での、
「火のないところに煙は立たない」
という言葉を普通に聞くと、
「あまり、深い意味がない」
と感じさせるかも知れない。
しかし、この言葉の前半と後半とでは、
前半が、問いかけであり、後半がその答えのように思う。
しかし、どちらも否定ということにすることで、
「後半は答えというよりも、前半と同じレベルの発想を繰り返しているかのように思える」」
とも感じるのは。
「言葉の織り成す錯覚ではないか?」
とも考えられる。
実際に、言葉だけを見ると、
「前半が問いかけ、公判が答えだ」
ということを素直に感じるのだが、
「この言葉を導くため」
の、もとになった事件などを考えると、
「後半は、前半の言葉をさらに深堀するかのような発想を感じさせる」
ということであった。
これは、
「オオカミ少年」
という話を、どこかで想像させるのだが、それがどこからになるのか、正直意識していないと難しいだろう。
かといって、最初から意識していたとすれば、その意識が、倍増させることで、却って、分かりにくくさせているという理屈が分かりにくいものとなるのだ。
「理屈ではなく、感覚だ」
と、この言葉に関しては、今までそう思っていたと思っていたものが、いつどこで変わってしまったのか、考えていると難しく思えてくるところであった。
だから、
「自分たちが知っている公務員」
というものは、あくまでも、
「市役所の窓口」
であったり、
「政治家」
と呼ばれる連中のような、
「他人にどんな事情があろうとも関係なく、自分の最低限の仕事をしていればいい」
ということであろう。
いや、
「市役所の窓口」
というような仕事であれば、
「最低限の仕事」
というものをしているのだろうか?
といえるのかどうかも怪しいところで、
「真面目に仕事をしている人だって、本当は、自分のことしか考えていないが、見た目は真面目に働いているように見えるだけ」
という悪質なやつもいるだろう。
しかし、あからさまなのは、公務員というもので、
「あいつらの仕事がどれほどいい加減か?」
ということを、
「政治家を見ていれば分かる」
というのは、それだけ、
「政治家というものが、立派な先生だと思われているか?」
ということで、あいつらのような連中は、数学の公式ではありえない。
「プラスとプラスを掛けると、マイナスになる」
ということになるのではないだろうか?
それは、
「プラスのどちらかだけがマイナスだと考えれば、公式に当てはまるというもので、それだけ、
「人を騙すテクニックを兼ね備えている」
といってもいいだろう。
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