エピローグ

それからマリは、作ってきた文書にサインしてもらってから、改めて元アルデンヌ男爵に男爵代理の仕事をお願いした。


「アンリ、良かったわねえ。これであやつり人形にならずにすんだわねえ」


シモーヌがささやく。元アルデンヌ男爵の名前は、アンリといった。


気絶から起きたばかりのアンリは、マリにとても感謝した。


「あ、ありがとう!これからは心を入れ替えて、代理をつとめさせてもらうよ!」


よっぽど妻の実家で養われることがこわかったのだろう。アンリは涙を流してよろこんだ。


そのうえで、マリはひとつの変更点を伝えた。


「森に関しては、すべてわたしの管轄ということでお願いします。森に住むあらゆる生き物や住む人などもふくめて、すべてわたしの管轄で。ほかはこれまで通りお願いします」


マリは男爵領から森を独立させた。


「了解しました!」


第二王子のお墨付きは、彼にとってはあまりに強力だったのだろう。アンリは必要以上によい返事をした。


アンリの男爵としての仕事は、特に問題なく行われているようだ。元々、強欲ではない人物のようで、リュカに集めてもらった領地に住む村人の評判は上々だった。たまに気まぐれに農作業を手伝っては、腰をいためているらしい。


シモーヌはそのことについてあきれていたが、ほほ笑んでもいた。


えらい人に弱いし、出世のチャンスに目がくらむこともあるが、全体的に言ってこの夫婦はこの世界においてはふつうの価値観の持ち主だった。世の中のシステムに反することはない。


だから、強力なうしろ盾のもと、男爵位をマリーが継いでしまえば、ふたりはそれに従うだろうとマリは判断したのだった。


マリの目的を大まかに言えば、マリーが帰ってきやすい場所を作ること、これに尽きた。


マリーさんは人生が嫌になっちゃったのでは?だから、どこかに行ってしまって、わたしがここにいる。


マリはそう仮説を立てていた。


考えてみれば、好きでもない男から必死にねむっているふりをして逃げれたと思ったら、今度は必ず婚約しなければいけないという状況に追いこまれたわけで、それはもうどこかに逃げたくなって当たり前だ。


じゃあ、帰ってきたいと思える状況を整えれば、自然と帰ってくるかもしれない。つまり、男に頼らずとも生きていけるとか、求婚してくる予定の男をみんなやっつけちゃうとか。


男爵になったから、もしかしたらもう帰ってきたいと思っているかもしれない。


マリは馬車にゆられていたが、途中でおりた。


「歩きたい気分なので」


そう言うと、使用人は変な顔をしていた。


どうやら歩きたい気分、というものをいまいち理解できなかったらしい。


マリは歩くのが気持ちよかった。


広々とした大地と青い空、はだをなでていくそよ風、道々に現れる名も知らない花の香り、花のミツにさそわれてやってくる青い鳥のさえずり。


なんだか歩いているだけで、世界に祝福されているみたい……。


せっかく楽しい生なのだから、終わりが来るまで楽しもうとマリは思う。


『……お昼ごはん作って、まってますから』


リュカが送り出すときに言ってくれた言葉を思い出す。さびしいからか、ちょっとすねていた。


その表情を思い出して、思わずほほ笑む。


マリは今、幸せだった。


けれど、次の瞬間には、マリーがふらりともどってきて、マリの世界は終わるかもしれないのだ。


合図もなく始まった世界は、合図もなく終わってもおかしくない。


このことは、リュカには話していなかった。


……予想内のこととはいえ、この生をはなれるのはさびしいかも。でも、さびしいって思えるだけ上等。


前の生ではいつもどこか苦しかったから、さびしいなんて感情はわいてこなかった。両親も妹ができてから、だんだんと来なくなったけど、しかたのないことだと思った。


ああ、でも、サチさんに会えないのは結構さびしいかも。まあ、サチさんなら元気にやってるか……。


空を見上げると、昼の月が出ていた。満月からすこし欠けた月。


昼の月を見ると、小さいナイトの誓いを思い出す。


『マリ様をひとりぼっちにしません。ぼくがマリ様を守ります』


心が、温かくなる。


さらに思い出す。


髪を切るのを反対された時だ。


『え~!もったいないですよ!』


『たしかにマリーさんには申し訳ないんですが、このくらいはしないとあきらめてくれないと思うんです。思いこみ強そうですし』


『なんでマリ様がそこまでしてあげなきゃいけないんですか……』


『たしかにその通りなんですけどね』


この時、マリはリュカがそう言ってくれてうれしかった。自分の髪でもないけれど。


『……それに、それでもあきらめなかったらどうするんですか?』


『そうですねえ……。その場合は、いっしょにどこか遠くへ逃げちゃいましょうか?』


半分本気、半分冗談だった。


ガブリエルがおそってくれば、どうしても逃げざるをえない状況になるかもしれない。


けれど、リュカをまきこんで、ベルとのおだやかな幸せをうばってはならないとも思う。


もしもその時は、ひとりで逃げよう。


『なんて、冗談ですよ』とマリは言おうとした。


『はい!』


だけど、冗談だというよりも速く、リュカは答えていた。


『マリ様について行きます!』


うれしそうでさえあった。


マリは思わぬ答えにおどろいた。




「マリ様ー!」


森の入り口まで来ると、リュカとベルが待っていた。


「えへへ、出むかえに来ちゃいました!」


「ばう!」


リュカとベルは待ちきれず、マリの前まで走ってきた。満面の笑みだった。


「わわっ!?」


「ぐふっ!」


マリはリュカとベルを片手ずつ、ダブルでなでた。


「未来のことは考えたって、しかたがないですよね……」


思いもよらないことがやってくるのが未来なのだから。


なにもわからないのに、未来を想像してさびしくなるのは不合理。


「……マリ様?」


太陽をふくんだようなリュカのくせっ毛。くもりのない黒い瞳がまっすぐにマリを見上げている。


次の瞬間にはマリーさんがもどってくるかもしれないし、一生もどって来ないかも。


あくまで仮説だし。なにもわかっていないのと同じ。


だから、さびしくなる必要なんてないって理屈ではわかってる。


なのに……。


なのに、この温かさはいずれ失われるって、不合理にもついそう思って、どうしても胸が苦しくなる……。


さっきまで世界が祝福してくれていた気がしたのに……。


せっかく楽しい生なのだから、終わりが来るまで楽しもうって思えてたはずなのに……。


リュカくんとベルさんと、ずっといっしょにいたい……!


マリーさんに帰ってきてほしくないって思ってしまっている……!


「……わたしって、本当に悪女なのかもしれません」


マリは泣きそうな顔をしていた。


リュカが心配そうに、自分の頭にのせられたマリの手にそっとふれる。


「お、お腹へってるんですか?」


「……リュカくんのなかでは、わたしはどうなってるんですか?」


「でも、マリ様お腹へってるとそういう顔するし……」


「え、そうなの?」


「はい!」


満面の笑みで答えられてしまった。


「……今日のお昼ご飯はなんですか?」


「今日は麺を作って、ラーメンにしてみました!」


「……ラーメンあるんですか?」


「え?ありますよ」


「それは楽しみです」


マリはベルの背中に乗せてもらった。


この体はお腹がへると、弱気になるみたい。健康すぎるのも考えものかも。


ベルの背中はやはりふかふかして温かい。


「帰ったらすぐにゆでますから、それまで我慢してくださいね!」


リュカが温かな陽だまりのようにニッコリとほほ笑む。


マリはふしぎとおだやかな気持ちになる。


リュカくんって、お薬みたい……。


「うん。……リュカくん」


「はい?」


マリはベルのうえでベタッとうつぶせになり、手をのばしていた。


「つかれちゃいました。手をつないでてくれますか?」


「は、はい……!」


リュカは一瞬真っ赤になって、それでも手をのばしてくれた。


マリはうれしくて、自然とほほ笑みをうかべる。


そのほほ笑みを見て、照れながらリュカもほほ笑む。


ふたりはお互いの心にふれるように、そっと手をつないだ。


ひとつじゃないからこそ、やさしく。


心はひとつにするものではない。


心はそっと、ふれるもの。


「わふん!」


ベルが祝福するように鳴く。


マリはもうさびしくなかった。


……ま、考えてみれば、生まれた時だってなんの合図もなかったんですから、何もこわがる必要ないですね。


せっかく生きてるんだから、あまえられるだけあまえちゃいましょ。


マリはしたたかな真顔で、目をキランと光らせるのだった。


そのすきとおった青い瞳には、うつくしくも広大な世界がうつっていた。

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うわさの悪女男爵マリ 楽使天行太 @payapayap

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