1-3,神のお口付け

誰のせいでもなかった、と思う。


先代の爺さんが仏壇を掃除していた。柔らかい布で薄く埃を取り花瓶の水を捨てる。最後に蝋燭の火を消す。

「お父さん?町内会の方がいらっしゃってますよ」

婆さんの声がする。

「今夜はもう夜回り始めますって」

老人達のぺちゃくちゃ声が外から口々に急かす。

「はいはい、今行くよ」

爺さんは手馴れたように真鍮製の火消しで蝋燭を消し、いそいそと部屋を出る。


(晩年が充実してるよなあ……お?)

蝋燭の火が消しきれていない。

急かされていたとはいえ、爺さんもずいぶんボケてしまったものだ。短くなっていく蝋燭をぼーっと見つめながら時間を持て余す。みやちゃんと両親は奥の部屋でもう寝ている。雪はまだ降っているのだろうか。

ちらっと外を確認しに行くと、うっすらとまだ降っている。老人が元気すぎる……「火のォ用心」とカンカンやっている声が聞こえてくる。

(昼間に子供たちが真似してるのも可愛いんだよな。舌っ足らずでしゃしゃりましょーって、ふふ)


ばちっ


―ふと、小さな音が聞こえる。蝋燭が、なくなりかけている。火が受け皿に当たりそうだ。


ばちっ


水かなにかと当たっているのだろうか。そんな弾ける音がする。火が消えるように揺らめく。そのまま消えるかと思われた次の瞬間、


ばちっ


蝋燭の芯が、受け皿から落ちた。勢いよく跳ねたそれは障子の近く、棚に落ちる。


火がついたまま。


(あ、れ?)

これはやばい。障子紙から細い煙があがる。赤くてゆらゆらした空間が、ちょっとずつ増えていっている気がする。やでも、お、いや、まて、消えない。

(待て、まて)

だって、夜中だぞ。雪、降ってるし、寝てるし。障子の格子ひとつ分、じわじわと黒い焦げが上っていく。明らかに、灯火だったものが、小火になっている。


ある程度形をもった火は急に勢いを増す。とんでもなく時間が経っているようにも感じるし、経っていないようにも感じる。火は炎になる。障子を焼くそれが、箪笥をなめる。

(消えろ、気づけっ……)

閉じた部屋に煙が籠っていく。やばい、小火どころじゃない。


ばちばちと、汚い炎が広がる。隣へ上へと部屋を侵食する。箪笥、本棚、仏壇と順番に全部飲み込む。やけに明るい。

皆が寝てる部屋は、まだ、まだ奥。でもやばい。まだってだけだ。


本格的に隣の部屋に火が移る。もう一つ奥が、寝室。川の字で、三人も寝ている寝室。

人は、人は燃えると死ぬ。煙を吸うのもだめ。死ぬ。えっと、あとは。まて、まて、彼らはもう危ないか?なんだっけ、人ってどのくらいで死んじゃうんだっけ。


-から、とす、

ふと、三人の寝室に何かが入り込む気配がする。

(地蔵たち……?)

何をしに行くのだろう。

寝室を覗きたい気持ちもあるし、覗きたくない気持ちもある。万が一誰も起きなかったら。それを、見ているなんて。


少し考えて意を決する。そっと寝室に入る。

こぢんまりした部屋に色違いの布団が三つ。親子が幸せそうに寝ている。いつもと明らかに違うのは、もう隣の部屋から聞こえる、炎の音。まだ誰も気づいている様子がない。起きる気配がない。

(そ、そうだ、地蔵たちは何をっ)

小さな部屋を見渡すとあちらこちらに九体全員いるのが見つかる。あるものはパタパタ部屋を駆け回り。あるものは三人の肩を小突くような仕草をみせ。


(これは……起こそうと、してるのか?)

だとしたら無駄だ。地蔵たちも知っているはず。概念は人に干渉することはできない。気がつくわけが無い。

(気がつく、わけが……っ)


我ながら無駄なことを、と思う暇もなかった。三人の枕元に跪き、声無き声を張り上げる。

(火事だ起きろっ!早く起きて、そんで逃げろ!まだ……まだ間に合うからっ)

間に合うから。間に合ううちに。吉松院の人間は何代にもわたって見てきた。幸せの内に亡くなった人も、そうでない人も、沢山見てきた。

(でも、それはっ)

それは関係ない。無常だと決めつけたくない。真面目で温かい家族が不慮の不幸で旅立つかもしれないなんて、そんな運命なんて考えたくない。そういう風に情が移ってしまっているのは、彼らの人徳だろうか。神らしくもないか。いや、どうでもいい。私は、私は人の信心。情の神格体だろうが。

(起きろ!頼む、起きろっ!!)

声なき声が部屋に木霊したような錯覚。ふと、ぽつんと、


「んっ……。んう?」


私たちの声を聞いてか、知らずか。


「だあれ?だれかいるの?」


川の真ん中、小さな娘が目を覚ます。なにかの気配に怯えるようにふる、と体を小さく震わせ少しだけ体を起こす。

目を何度かぱちぱちさせて、ものが見えるほどになるまでの少しの間。みやちゃんの目に飛び込んでくるのは見えない存在、私と地蔵たちの奥。燃え始めて破れる障子越しの炎。


「…………?                                ぇ」


認識、覚醒、恐怖、この娘が経験したこともない情報量に、一瞬で目元が、頬が、口元が変形する。歪む。

「えっあ、ああ、い、い゛やあぁっ!?おどうざんッおがあざんッねえっねえいやああっ!?」


その絶叫に両親も目を覚ます。障子の隙間から黒い煙が入ってきている。

「んー……何ようるさいわ……っひ」

「あー、どうした……っておい、おいっ」

「おぎでぇっ……!はやく、ねぇ、おうちがっおうちがぁ!?」

夜中にどうした、うるさいといった一瞬の苛立ちが、次の瞬間恐怖に変わる。みやは既にパニック状態だ。

「みやっ、みやっ!大丈夫だから、母さんと庭に出るわよ、落ち着いてっ……。お父さん、縁側は―」

「ねぇ、はやぐっはやぐぅっ!もえちゃうがらぁ!っ!?ひゅっげホッ」

「みやっ!」

娘の混乱状態を見て、両親は最低限の冷静さを取り戻す。枕元の着替えを引っ掴んで娘の口元に当てる。誰の手指も、異常な震え方をしているのがよく分かる。

「みや落ち着け!……っこっちは平気だ。庭に出られる。母さん、俺は近所のと消防会を呼んでくるから、絶対に、みやを頼んだ」

「はい。みや、こっちよ。歩ける?」

みやはこくこくと頷いて両親に抱えられ、外に出る。泣き叫んだからか、煙を少し吸ってしまったか、咳と涙でぐしゃぐしゃだ。


よかっ た。良くは、ないが、よかった命さえあれば十分だ助けももうじきくる少し落ち着いたら皆で消火してしばらくはご近所を頼ってちょっとずつ修復していけばあっという間にいつもの暮らしに元通りだし何より真夜中なのに被害が人に及んでいないのは素晴らしいことだと思うし懸念点がまあ一つだけあるとすればみやちゃんの咳だが逃げられたことを鑑みれば万々歳の結果であることには変わりないししかし火の用心とかなんとか言ってる爺さん婆さんの部屋から出火とはなんともまあでもあれは掃除を急かした方が悪いとかどっちが悪いだとか言える話では無いと思うしとにかく今は消火が優先事項で責任云々は棚に上げておいてもいいと思うしいやでもみやちゃんが起きてくれたのは奇跡的だな火の音や明るさ熱でもしかして違和感を持ったかそれで起きたと考えるのが現実的かパニックは少しでも収まっただろうか両親も火事場にしては冷静に行動出来ていたじゃないか子供を持つ親としてとてもいい働きだったとおも


(……ん?)


細かく、細かく雪が降っている。がらんがしゃんと、燃えた何かが倒れる音がする。大事な柱が折れそうな、ぎしぎしとした音が響く。恐らく既に二階にも火がまわっている。夜に、雪の日に。煩い。熱い。

庭、火から少し離れたところ。火の粉も届かないところまで来て二人が地面に座り込んでいる。村人の大声が、まだまだ丘の下から小さく響いてくる。父親が呼びに行った助けは、まだやってこない。ぽつんと庭に二人きり。

母親の隣でしゃくりあげていたみやちゃんが、顔を埋めてくしゃくしゃになった着物の下で、いやにぽつんと呟く。


「……おじいちゃんは?」


顔を上げる。鼻も口元もぐちゃぐちゃだが、目だけはやけに真っ直ぐに、燃え盛る家を凝視している。


「……おばあちゃんは?」


目元と、額によった皺だけに生気を宿した体をふらっと、持ち上げる。

「……みや?」

「おかあさん、ねぇ、おじいちゃんは?おばあちゃんは?」

「え?……え、えと」

「あそこにいるの?まだあそこでねてるの?ねえ、おかあさん」

「え、いや、えと……あ、あぁ、嘘、まさかっ」

「じゃあ」


「おこしにいかなくちゃ」


え?


ぱさり、と。口元をおおっていた着物が地面に落ちる。頭に落ちた雪の粉が水滴になっている。みやちゃんが、やけに冷静に体を起こす。


「おじいちゃんとおばあちゃんがもえちゃう」


おもむろに駆け出す。焼け落ち始めている、家に向かって。

「おじいちゃん、おばあちゃん……?………………っは、みやあ゛ぁぁっ!!!だめぇっ!!!絶対だめ!!!待ちなさいっみやあっ!!!」


え?


あ、まずい。爺さん婆さんは夜回りだ。今夜は家にいない。みやちゃんは知らない。冷静にならばわかるだろうが、ははおやはぱにっくでたぶんあたまがまわっていない。

はしリだすみや ちゃンにむかっては はオヤガテをのバス 。みヤチゃ んのテ をヒ キト メタ


のか知ることなく、私は意識を失った。

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