1-2,神のお口付け
繭玉がほつれる。巻き取られるようにするするとそれは解ける。それは八本の長い絹糸となって、彼の指に収束する。しばらくすると糸の一本も見えなくなり、ぽつんと高尾山の山頂に高尾だけが立っていた。
吉祥天と会う前はまだ見えていた太陽は既にもう隠れ、白く見えていた月が代わりに、とでもいうように煌々としている。夜の暗さ、不気味さはほとんど感じられない。
高尾は黙ったままいたずらに指を弄ぶ。絹糸が数本指に絡んでおり、動かす度に皮膚が軽く張る。月光に絹糸が、透明に光る。
彼は何か触りたい、とでもいうように腕を前へ伸ばす。まっすぐの少し下、吉松院のある丘の方角。向こうからなら克明に見える高尾山だが、こちらからは視認できない。麓は遠く、月光の下でもただの闇が広がっている。
(何十年と勧誘してきたが)
はあ、と息を吐く。ため息が白く染まる。
「惜しいよなぁ」
平たい岩に腰掛ける。山水図のような絵柄が装飾された、絹製の敷物が敷いてある。
よく見ると周りの木々には絹製のタペストリーが、大きめの山小屋には絹製の暖簾がかかっており、座れる場所には全て絹製の敷物が置いてある。人間世界とは違った、異様で絢爛な「口」の風景だ。
「煌びやかな装飾ほど月の光くらいが似合う。稚拙な月光でぎりぎり見られる部分と、暗すぎて見えない部分がある。それが良い」
「……おっしゃる通りかと」
いつの間にかそばにいる人影に、しかし高尾は振り向きもせず言葉を続ける。
「勧誘はやめた」
「はい」
事務的な返答が返ってくる。
「惜しいよなあ、女々しいか」
「神一人で何か変わるということはありません」
冷たい返答が返ってくる。
「それより、昨夜の小火騒ぎについてですが、あなた様にはことの収拾を早急につけていただきたく―」
「変わるよ」
高尾は話を遮る。いや、もとから相手の話を聞いていなかったというふうだ。
「『八』王子なんだ、ここは。七ではキリが悪い」
「……皆、茶屋前に集まっています。ご指導として、お言葉を二言三言」
「分かったよ……そろそろ酒を飲みたい」
高尾はゆっくり立ち上がる。する、と落ちかけた敷物を手でおさえ、大事そうに敷き直す。絹で彩られた山道を下っていく。ぽつんとひとりごつ。
「一昨日も話したのに、話すことなんてないよ」
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(ふいー、もう夜か)
鳥居をくぐってすっかりただの概念へと戻ったラクシュミーこと吉祥天こと私は、かなり真っ暗な見晴台にいた。大体の位置関係がわかっている人でなければ鳥居はおろか、見晴台への道すじすら分からないだろう。月の光といっても頼れるほどではなく、子供でなくとも後ろを振り向くことが躊躇われるような、そんな雰囲気すら感じる。
私はふと向こうの景色を見やる。夕方の美しさとは全く異なった、暗い夜空に影を落とすような真っ黒な高尾山の影が見える。
(まあ、なあ)
なんとも形容しがたい感じだ。別に体を持って口で暮らせないわけじゃない。世界の層が、レイヤーが変わるだけ。それでも、その選択肢はありえない、断るしかない、と思う。
ふよふよと見晴台を出て境内を下る。左には九体の地蔵が、右には墓場が見える。地蔵達が私を目で追う。そばを通過すると、すっと一列になって後を追ってくる。
墓場の皆も徐々に私に気が付く。シロいの達が一人二人、気づけば通路脇にそって目で追ってくる。
やっぱり良いよなあ。
改めて思う。人にも、人じゃないのにも、今の私とそれらとの間に壁が何も無い感じ。全てと直接触れ合えている感じだ。まあ、実際には触れられないんだけど。
(お、)
「ゆきだー!」
おわ。玄関扉を全開にしてはしゃぐのは、寺社の娘のみやちゃん。降り出した瞬間に気づいていたがエスパーか。
「こおら、冷えるでしょう?暗いし、早く扉閉めなさい」
すかさず母親の声。
「あぅ、ごめんなさい。でもさ、でもさ、つもるよね?おかあさん。ゆきのうさぎちゃんねぇ、つくるから。のいちごとっといていーい?」
「閉めなさい、とお母さんが言っているだろう?閉めなさい。」
お、みやちゃんのおとん。のっそりと彼女の半纏を持ってやって来た。ふんふん、と小さな半纏に小さな腕を通すみやちゃんを横目に外を眺める。
「残念だけど、積もらないと思うぞ。これじゃあ、少し降って止む」
「そんなあ」
大分しょんぼりしている。
「じゃあ、お地蔵様にかさかぶせたのもいらなかったかなあ」
あら可愛い。
「いみなくなっちゃった」
「はっは、そうかい……。みや、無くなってなんかないさ。そういう優しさをお地蔵様は見ていてくださるんだ。みやはとても大切なことをしたんだよ」
確かに見てみれば、地蔵さんみんなが笠をしている。気づけば隊列は崩れていて、雪を追っかけぴょんこぴょこ、ぐるぐると、さっきのみやちゃんに負けないはしゃぎようである。もちろん人には見えない方が、だが。
「さあ、もう入りなさい。母さんの手伝いをするんだ。今夜は鍋だよ」
「おなべ!おかあさん、わたしがうどんいれたげる!」
扉が閉まる。すぐにいい匂いと湯気が漂ってくる。みやちゃんは良い子に育つんだろうなあ。地蔵たちにも気に入られるわけだ。
彼女は家の手伝いを良くする。冬でも嫌がらずに冷たい水で洗濯し、米を研ぐ。それでもその小さな手足がひび割れたり、しもやけになったりしたことは無い。地蔵たちが冷えから彼女を守っていることを、私はこっそり知っている。
(この美しい家族に幸多からんことを)
温かい住職を持って、神冥利につきる。村の人々はもとい、彼らにさらなる幸福をと。
「おなべおいしいくて、えがおになっちゃうねぇ、えへへ」
「あらみや、あなたえくぼができたのね」
「えっ!ほんとう!」
今日は普段より多めに幸せを授けたのだった。
授けたよな?
私は、確かに授けたよな?
なんで?
なぜ今、家が燃えている?
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