桑都エケベリア

富良原 清美

1-1,神のお口付け

桑都、八王子。私「吉祥天」は浅川沿いを「走り回って」いた。


厳密に言えば私は美と幸福のインド神ではないし走り回る体もない。インドとは程遠い片田舎、「吉松院」を訪れる人々の吉祥天に対する信心が神格化した、純度百パー日本産の八百万神だ……と言っても理解してもらうのは難しいだろう。


とにかく、そんな感じの概念が体もないのに焦っているのには訳があった。

(っくしょ高尾のやつ……集合時間早すぎだっての、暇かいな)

川沿いから道を曲がり丘の細道を登る。天気はカラカラの冬晴れ。左に野菜畑を望むあぜ道をを通り過ぎれば、水鳥や虫たちが少しざわめく。私の存在を感じ取ってくれているのだろうか。帰宅途中のこの時間にはなんとも心が和む。

(しかし糸商の娘はくみ子ちゃんと言ったか、私の御利益無しで縁談五件目とは、干渉する隙も無いことよ……っと)


丘のてっぺん、ここが「吉松院」。神仏習合の寺社で私の住処。見晴らしの良い落ち着いた場所にあり、和歌に詠まれたりなんかもするし結構感じの良い寺社だと思っている。

社務所を横目に、これまた勾配のきつい石畳を登る。途中で「見晴台」の看板を曲がると村一帯が見渡せる、お目当ての休憩所がある。近所の爺さんが墓参りついでに休んでいるのも、いつもの光景だ。


(時間には間に合ったか。なんなら早いくらいだったな)

爺さんの隣に腰掛ける。腰、ないけど。しばらくぼーっとしてから休憩所の端にちらりと視線をやる。目、ないけど。そこには小さな祠、そして鳥居。狛犬のポジションには天狗の石像がたっている。まだ早いが頃合だろう。


鳥居の前に立つ。その奥に山が見える。あれは高尾山。八王子の人々の信心を一身に受ける聖山だ。ふむ、もういるな。高尾の山がこちらを見ている、見られている。気がつくと同時に、


(あぁ、もう来てくれたのか。嬉しいな)


低めの声、のような意思がむかつくほどスッと伝わってくる。

(いや、急かすから)

(そうだね。日没前が一番美しい時間だからね。美への信心が夕日に照らされるんだ、和歌にも詠めないくらいさ)

なんとなく会話ができていないのは毎度のことである。

(そっち。行きますよ)

ふよふよと移動して鳥居をくぐる。

(うん、早くおいで。日が沈まないうちがいいんだ。今日は額からのお口付けが良いな……本音はくち-)

(指からで。)


鳥居をくぐる。柔らかな感触が額から広がり、頭、首、胴から指先まで包み込む。ほんのりとした温かさが「肌感覚」を通して「脳」に送られる。

(こいつ額にしやがったな……)

思考は信号となり、口からため息がこぼれる。吐いた分、息を吸う。

高めの、理想の比率をもった鼻。あどけない口元。紫がかった目にかからないくらいで揃えられた黒髪は結えられ、後ろで細い毛束となってかなり長く伸びている。

シンプルな丸首のシャツにリボン、上にシルク製の着物を数枚羽織ったその素朴な姿はさながら女神のようだ。まあ女神なんだが。


すっかり人型を得た私の目の焦点が合ってくる。真っ白な壁に囲まれて、私はちょうど高尾山の山頂くらいの空間に立っていた。白い壁に見えるのは全部絹糸。規則正しく絡み合う糸が作る、大きな卵型の空間。床も同じ素材、絹糸で作られた空間だ。とん、とんと軽く床の心地を確かめる。滑らかだが少し足が取られる感覚がする。ずり落ちてきた着物を肩まで上げて目線を上げてゆく。

前方数十メートル先には小ぶりな割にくねくねとした木が一本。その枝に体を預ける人影が一人。そして

「こちらへおいでぇラクシュミィ。話したいことが山ほどもあるんだよ」


―半透明にそれらを透かす、千の弾幕。


紹介しよう。これは神の暇つぶし、通称『玉葱遊(タマネギアソビ)』だ。弾の平均的な大きさがタマネギと同じくらいなことが由来である。で、そんな弾がまさに今なかなかの速さで人影の方からこちらへ向かってきている。人影の正体は言わずもがな、だ。「こちらへおいで」もへったくれもない。これが毎日の楽しみ、お遊びというわけだ。


「すぐに行きますよっ、と」

言いながら、思いっきり屈んで左に地面を蹴る。僅か数センチの移動、だがさっきまでいた所を弾幕が通過している。頬にかかる毛束が少し靡き、しかしぎりぎりで弾に触れずにまた頬に触れる。

(普通ちょい小さめの弾速遅め。緩い追尾性と色で認識妨害。パタンは……おとついの応用ってところか)

壁まで逃げても良いが、ほんのり追ってくる追尾性があるところがやらしいポイントだ。しかも後弾の位置が、半透明の弾のために屈折して分かりにくくなっている。へんに囲われたら全部避け切れる自信がない。最悪、着物の端が擦れてしまうじゃないか。

(今日もその場避けかな)

方針が決まれば話は早い。折を見てふら、ふらと立ち上がる。首を大きめにふって右、右、ここで左。弾幕をその場でできるだけ右に寄せて、十時の方向に前に出る。

(おっと次は、)

半透明の弾は本当に見えにくい。二個奥、三個奥の弾の位置なんか、屈折してしまってなんの当てにもならない。危うく軌道予測を外しかけるところだ。

(まだ左に……間に合うかっ、な)

この弾は左に避けたい。

とっさに下がりながらくるりと、玉葱一つ分左に避ける。遅れて舞う髪の毛を振って、肩からずり落ちかけた着物の内にしまい込む。超人的で、最小限で、完璧な動き。意外と焦るほどでもなかったか。


「一昨日も話したのに、話すことあります?」

ちょっと余裕ができたので声をかける。弾幕に遮られて目視こそできないが、楽しげな声が聞こえる。

「んっと、まずはねぇ、お酒。作ったの飲んだら天狗が、んふ、真っ赤になっちゃって」

「いや元から真っ赤でしょうが」

「あのねぇ、ふふっ、いや烏天狗がねぇ、鶏のあそこってくらいにねぇ、真っ赤に……くふっ」

「ふっ、くだらな……っはは」

なんだろう、その時だけ面白く感じるテンションに入った気がする。言葉のキャッチボールが基本的にできない高尾だが、たまに内輪ノリというのだろうか、ぐさっとはまる空気感が出来上がる。嫌いじゃない。

嫌いじゃない。嫌いじゃないのだが、


「あっはは」

きゃいきゃいとはしゃぎながら攻撃してくるのはいかがなものか。


ふらふら、とん、とん、とん。頭を振って脚を前へ。一見不規則に、全ての弾を紙一重でかわしつつそれなりに進んであと半分。そろそろ来るか。

「あっはは。ねぇ、『霞む』って素敵な言葉だよね。言葉そのものが美を表している」

「そのっ……心は?」


あー、来たな。

ぱき、ぱきと細かな音がする。あんまし余裕は無いのだが。

「水とか、塵とかね。そんなもので君は霞む。君は山より遠い」

「低山は霞まないんじゃないですか」

「うん、うん。早くこちらへおいで?ラクシュミィ」


―瞬間、何かが飛んでくる。さっき聞こえたぱきぱきという音に似つかわしくない、節だらけでゴツゴツした枝。やつが投げていることは見るまでもない。弾の合間を縫ってまるで槍のように飛んでくる。私を追って少し曲がる弾幕と違って直線的な物理攻撃。しかもセーフゾーンを完全に埋める位置で飛んでくる。避けるだけでは立ち行かない、第二段階。木の枝は嫌だ。手で弾けば汚れてしまうじゃないか。爪の間とか。

(油断しない。遠くで全部落とす。よっしゃやるぞタマネギさん)

右手の感触を確かめる。なびく横髪を抑える。軌道をイメージして弾-愛称タマネギさん―を撃つ。


玉葱遊において互いの弾は干渉し得ない。視覚を阻害しないように、必要最小限に枝を撃つ。タマネギさんなどと言ったものの、せいぜい野いちご程度の大きさの弾。だが枝を撃ち落とすには十二分。五発で割って五発で砕く。仕上げに一発の大弾で、残った木屑を片付ける。空いたスペースに足を入れて、すぐ右に飛ぶ。大弾での処理を怠った時は着物が木屑まみれになったものだ。あれは絶対に嫌だ。


弾の隙間を縫って、高尾の姿が見え隠れし始める。ここまで来るとさすがに左右から来る弾幕の曲がり具合がきつくなってくる。前の弾で歪んだ後弾の軌道に、目の錯覚を覚える。というか、何であいつはこんな状態で隙間ぬって木を投げられるんだよ……。どう予測しているのか知らないが、針の穴に意図を通すなんてものじゃない芸当を高尾がやっているということだけは分かる。やっぱり山の神は違うのな。そんなことを考える。余裕はあんまりない。

「っあー、そろそろきつ……った、ぶね!?」


-数刻後。

もう何個目になるか。目の前の枝を割って、砕いて、空間に足を入れて右に飛ぶ。下がって、頭を振ったら屈んで前に出る。枝を割って、砕いて、半歩下がりながら足を入れて左に飛ぶ。


体を傾けながら立ち上がると弾幕は嘘のように無くなっていた。

もう手の届きそうな距離に高尾がおり、大きさの割にごつごつ、くねくねとした小木によりかかっている。改めて紹介しよう。この人外が高尾。高尾山の神だ。厳密には「高尾山を信仰する寺社への信心」が神格化した、というのが正しいのだが……まあ違いを理解するのは至難だろう。


すらっとした体つきと顔。光に当たると少し青みがかってみえる髪の毛は細く、編んだり下ろしたりで毛先はくねくねとあそんでいる。暗いタートルネックにパンツ。腹を出しているのになぜ着物を羽織るのか、私には分からない服装感覚をしている。

そしてなにより、人外を人外たらしめているのは耳と指。本来耳のあるところにそれはなく、代わりに真っ黒な天狗の羽が生えている。また、ぱっとみ見逃しがちだが、指の本数もよく見ると数本多い。


そんなタコ指人外はこちらを見ると、たいそう嬉しそうに預けていた背中を起こした。絡めて遊んでいた指を離して、シワが寄った手袋をはめ直す。

「うん、うん。ラクシュミィ……ふふっ、ラクシュミィ。本当に楽しいよ。ありがとう」

手袋越しの拍手がぱた、ぱたと音を立てる。滑らかな絹製の手袋。明らかに特注。

「暇つぶしになるなら良かったですよ」

暇つぶしにしてはだいぶ神経をすり減らした感じはするが……。まあ埃一つ付かなかったわけだし、いいか。


「あと私は一応ラクシュミーじゃないんですけどね」

「ん?んー、吉祥天と功徳天どっちがいい?」

「厳密にはどっちも違うんですけどね……名前で呼ばないという選択は?」

「君の役目は一緒だよ、ラクシュミィ」

「そうですか」

なんかむかつくな。その距離約3m。ばちん、と弾を撃ってみる。避けられる。なんでやねん。

「あっはは……」

もう笑うしかない。


「あ、そういえばくみ子ちゃんだけど、縁談五件目ですって」

「あの、あの子か。君が美人だと言っている子。それはそれは。選びたい放題だねぇ。でもその子ばかり贔屓しちゃダメだよ?……純粋な神からの恩恵には代償が伴う」

「まさかの不干渉ですよ」

「そう?……うん、でもね、そろそろ『口』に来てもいいと思うんだよね、ラクシュミィ」


始まった。

「ちゃんと『お口付け』してさ、こっちに来て体を持つ気はないかい?今なら―」

「永久寿命保証付き。手付かずの自然と美味しいご飯、ご機嫌な仲間が君を待っている?」

「おおぅ完璧」

「お断りします」

「良い仕事紹介するから」

「怪しいですね」

「信じてよ……真面目にさ」


人外の目がすっとこちらを向く。まっすぐ見てくる。

「君にはまだ名前が無い。そう、人の心が産んだ概念……概念なんてすぐ消える。消えるんだよ?ラクシュミィ。君は今奇跡的に存在している。儚い……あまりにも儚い幼虫としての概念神。繭玉で包まれた『お口』には永遠の居場所がある。蚕の最も素晴らしい瞬間を知っているだろう?幼虫は非力だ。成虫は死ぬだけだ……ね?繭だ。蛹だよ。蛹になるんだ。成長して、層が変わるだけだ。恐れないでよ。君には資格がある。純粋無垢なる概念神のみの世界で暮らす資格が。君の概念は美しい。毎日のように人と縁を結び、分け隔てなくご利益を授けている。美と幸福の女神の加護……かのインド神その御方のようだよ。消えていくにはあまりにも惜しい」

「……この話、いつまで続きます?」

「いつまでもだよ、ラクシュミィ。」

高尾は余裕が無さそうにぎゅっと手を握る。

「私は人と世界を隔てる気はありません」

「『口』からでも『底』には干渉できる」

「知っています。知ってますがっ……!」


理解は。理解はしているのだ。神は神の世界で暮らすべきだと。

(でも……)


思い出す。鳥が、虫が、私を感じるかのように風が騒ぐ。思い出す。日の出とともに若い男女が肩を寄せ合う。夢を語り合う。娘が空を見上げ微笑む。

『きっと女神様のお陰だわ』


「この日々を……っ、やめられません」

やめられるわけがない。人の、『底』の世界で彼らと私が直接触れ合って、繋がっているような感覚。私を私たらしめているのはまさにあの感覚でしかない。それは永遠とか、上位世界『口』だとか、そういう類の勧誘では靡かない、私のアイデンティティだ。

「改めてお断りします」

「それが無常としても?」

「人の心ですから、私は。その時は潔く消えます」

「そぅ」

腕を組んで木に寄りかかり、高尾は少し思い巡らす。少しイラついたような空気を感じる。分かりにくいが少し眉間にシワがよっている。呼吸もわずかに大きい。彼は冷静に、というふうに目を閉じて開ける。僅かな迷いが見える。それでも、というように口を開けかけて、閉じかけて、また開けかける。

「あの子は、こちらで寂しそうに―」「怒りますよ」


「っ……すまない」

高尾ははぁ、と地面に座り込む。絹の床がわずかに張る。

「すまなかった。諦めきれなくて嫌なことを言った。……ごめんなさい」

「えっと、あぁ……ぅ、い、いえ」

気まずい。

「もう誘わない。嫌なことも言わない。忘れた、とかついうっかりも今後ありえない。そういう風に、確実に言わないよ。誘わない」

「本当にありがたいです……すみません」

「謝らないでよ……ラクシュミィ」

高尾はふっと笑って言う。

「単なる、ね。信じてもらえればでいいんだ。単なる暇つぶしだから、また遊びに来てよ」

「はい。次はいつにしましょうか」

「さんよ……や、二日後がいい」

「はい」

「うん。じゃあ……またね、かな」

「もう、いいお時間ですね」

「またね、二日後ね。寒いから、あかぎれには気をつけてね。」

「肌無いですけどね……ふふっ」

鳥居をくぐる。五感が消えていく。澄んだ概念。それだけになっていく。

「あ、あとね。酒盛りの場でね、ぼや騒ぎがあったんだよ」

高尾はいつもぎりぎりまで喋る。

「はいはい、愉快ですね。二日後聞きますよ……じゃあまた」

高尾がもとの感じに戻ってくれたことに安堵しつつ私はまた、いち概念に戻り帰宅したのだった。

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