第29話 一撃(1/2)

「もうこんな時間!皆の者、撤収準備!」


榎田先生の号令により、撤収作業が始まった。

三人娘は勝手知ったる保健室なので、大人たちが考えている間にテキパキと片付けをこなしていく。


「かなり楽しんでしまいましたね。先生方は送っていきましょうか?」


大隈先生は部活でも大活躍しているというワゴン車で、本日通勤してきたという。

山を越えた先、榎田総合病院の側に住む榎田先生、それより先にある新興住宅地エリアに住んでいる中道先生はご厚意に甘えるそうだ。


「すみません、僕だけ真反対になってしまうので。」


「いえいえ、先生は今度約束通り飲みにいきましょう。例のお店に。」


彼はにっこりと笑う。

例の中華料理屋だ。

男の約束が果たせて本当に良かった。

祝勝会は僕もビール瓶一本くらい空ける勢いで飲んでみてもいいかもしれない。


「あら、二人だけで祝勝会かしら?水臭いわねぇ。」


「ですねぇ、中道先生。名前を出していないところから察するに、怪しいお店にでも行くんですかね?」


「男の人って、いくつになっても厭らしいわねぇ。」


そう来るか。

矢継ぎ早に言葉を浴びせかける女性陣は強かった。

大隈先生がたじたじになってしまったので、助け船を出さなければ収拾がつかない。


「お二人とも!子どもたちもいるんですから!」


僕はなんとか中華料理屋のことを説明し、後日大人たちで祝勝会を開くことになった。


「先生たちずるーい。私たちも働いたのに!」


自分の持ち場を片付け終わった小日向は、大変ご立腹の様子だ。

僕らの話を聞きつけると、素早く大人たちの前に立ち、抗議の視線を送っている。


「小日向は剣道部のお菓子もあるだろう?」


「あれはあれ、これはこれです。鷹村先生には、パフェをご馳走してもらわないと。」


まだ覚えていたか。

部活の買い出しとでも理由をつけて、木塚と二人で勝手にやってきて欲しいのだが。


「女の子三人は落ち着いたら、保健室でお茶会しましょう。お茶菓子は鷹村君が準備ってことで。」


華麗なフォローかと思いきや予想外の追撃に、僕は榎田先生をまじまじと見てしまった。


「私、今日食べた葉巻型のクッキーが良い!」


「私もあれ美味しかったー。」


「私…葉っぱの形のパイが美味しかったです。」


「はい…、わかりました…。」


三人娘の圧には、残念ながら屈せざるを得なかった。

立て続けに三連撃はずるい。

あのクッキーとパイは良いやつだから、それなりにお値段するんだけどな。

持ってくれるだろうか、僕のお財布。


「よし!じゃあ出ましょう!」



僕は大隈先生の車と南側通用口に向かう三人娘を見送ると、正門から一人、運動公園前のバス停へ向かった。

時刻は、午後七時過ぎ。

昨日よりもやけに暗い、黒に近い色をした空だった。

風もなく、しっとりと大気が体に纏わりつくような夜だ。

予報では丸一日晴れのはずだったが、あの手の物は予測範囲が広いので、多少の誤差があるのだろう。

それほど曇っていると感じられないが、月もちょうど雲に隠されてしまったようだ。

暗い夜道を歩くと、賑やかな保健室の祝勝会では意識されなかった自分の体調が少しずつ分かってきた。

目は腫れぼったいし、瞼がどこか重たい。

唾を飲み込むと、咽喉がチクリと痛む。

口の中も、いつも出来ているところに口内炎だ。

耳は周囲の音を拾っているけれども、二枚ほどフィルターをかけているかのように曇って聞こえている。

肘にウエイトが巻き付いているのかと錯覚するほど、腕を動かすのも億劫だ。

全体重を支えてくれている両足もパンパンに張っている。

きっとふくらはぎは疲労物質で一杯に違いない。

特に厄介なのは、頭だけが冴えていることだ。

きっと校長室で分泌されたアドレナリンとやらがまだ残っているのだろう。



僕はこのまま家に帰って、本当に眠れるのだろうか。

いや、バスに乗ったら終点まで寝てしまうのではないか。

どうせならば繁華街まで行って、終日営業しているスーパー銭湯で無理やりリセットするべきか。

明日の事は全部棚上げして、ひとっ風呂浴びたら休憩所で泥のように眠るのだ。

帰りは深夜で問題ない。

一日の老廃物を吸ったヨレヨレのみすぼらしい格好で繫華街をぶらつき、終日営業のファストフード店を見つけたら即入店。

お金に糸目をつけず、体に悪いものをたらふく食べて、満腹感と朝日を連れ合いに家に帰るのだ。



無駄に回転する思考をそのままに、僕は今朝も通ったサツキの花道を行く。

右手には街灯に幾分照らされているものの、遠くが闇に包まれたテニスコート。

左手は時折通過する車のハイビームが、やたらと視界に入ってその度に刺すような刺激を感じた。

少しくらいふらついても問題はなかった。

どうせ目の前には人っ子一人見えないのだから。



街灯の下を一つ、二つと進んでいく。

昨日は榎田先生とこの道を歩いたっけか。

あの時は確実に勝てる目途が立っていなかったが、たった二十四時間で状況は激変した。

人生は思った以上に急激な変化が起こりうるものなのかもしれない。



三つ、四つ。

街灯は間隔が狭く設置されているものの、その割に明るさが足りていなかった。

昨日は気にしていなかったが、整備されていない古い街灯は音が鳴るらしい。

モスキート音とも違う、如何にも古い機械の不調ですと言わんばかりの音だ。

いったいどんな仕組みで音が鳴っているのやら。



五つ。

昨晩、話題に挙がった公園の総合管理棟入り口だ。

未だ街灯が不規則に点滅している。

街灯の真下に入りかけた瞬間、僕の視界が体感で数秒、ぷつんと電源が切れたように真っ暗になった。


(ん…タバコ?………ミント臭?)


からん


(水筒が落ちた音?水と…⁉)


突如、右肩に走る鈍い衝撃。

肉の繊維を潰すような衝撃が突然肺に届いたせいだろうか、声が出ない。

首から下が脳に危険信号を送っている。

手放した鞄から書類が零れ落ち、僕はその場に膝をつきかける。

しかし、衝撃で叩き起こされた本能が叫び声をあげた。


『飛べ!』


僕は全体重が乗った足の裏で地面を押し出し、前方に飛び込んだ。

胴体が地面に触れるか否かの瞬間、最後までその場に残っていた右ふくらはぎに衝撃が走る。

一瞬だけ膝から下の骨が揺れる感覚。

だが、すぐに右足の感覚が無くなった。

僕は乱暴に着地した体の痛みを無視して、半ば四つん這いで体を反転させる。


「なんだ、外したか。」


半笑いとも取れる嫌味ったらしいニュアンス。

温かみに溢れたよく響く低音でも、冷たく突き放すような無感情でもない。

言葉のうちに怒気を孕んだそれでもない。


痛みで霞む目が、点滅する街灯に抵抗するように必死に焦点を合わせる。

地面から歪むことなく縦に伸びた長身、肩からだらりとぶら下がる長い腕。

そこに握られているのは棒状の獲物。

そして、闇に浮かぶはチカチカ輝く一対の目玉


「水内…。」


右肩の痛みで呼吸が浅くなっているため、声が掠れる。


「なんだよ、さっきみたいに声が出せないのか?あの威勢はどうした、ん?」


二つの眼が怪しく笑う。

ドクンドクンと血流の音が邪魔をして、言葉を上手く聞き取れない。


「まあいい。予定通りしっかりいたぶってやるよ。」


水内は棒状の獲物を片手に垂れ下げ、じりじりと間合いを詰めてくる。

宣告の通り、後悔する時間でも与えているつもりだろうか。

彼が叩き頃とでも思ったとき、獲物は肩に担がれる。

担いだ凶器は、上に下にと小刻みに揺れていた。

どうやらやる気に満ち溢れているのは間違いない。


「そこの公園に逃げ込んでもいいぞ。人目につかないからな。」


僕の左手はちょうど管理棟の入り口だった。

管理棟前は広くなっていて待機場所になっているようだが、闇が深くて奥が見えない。

点滅する街灯も、夜目に慣らすことを邪魔している。


「ほら、余所見すんじゃねえよ!」


振り下ろされた一撃を右に飛んで躱す。

思い切り踏み込んだので突っ込まざるを得なかった植え込みの枝が、僕の右半身を容赦なく突き刺す。

地面に当たった獲物は余程強く握られているのか、音を響かせることなく、鈍い金属音を立てた。


(鉄パイプか。そんなもんどこから…⁉)


「ほら、いつまで持つかなっと。」


大振りの横薙ぎを左足に力を込め、後ろへ飛ぶ。

右半身は植え込みに擦りつけられて、まるでおろされる大根の気分だ。

僕は体勢を整えきれず、尻もちをついてしまう。

だが、相手が余裕を持っていることが幸いし、追撃が即座に行われることは無かった。


「お前、避けるのは得意なんだっけか。でも、あの南沢猛はんざいしゃの時みたいに出来るかな!」


またも大振りの振り下ろし。

再び後ろに飛んで距離を取る。

打たれた箇所…、右足は力が入れられるくらいに感覚が戻ってきた。

だが、動くたびに激痛が体中を走るこの体はいつまで耐えきれるだろうか。


さらに追撃の一撃。

仕留めることではなく、いたぶることを目的とした趣味性に溢れた打撃。


「そらそらどうした!」


左に転がって躱すと、今度は派手に植え込みに突っ込んだ。

メキメキッと細い生木が折れる音が耳元に響く。

細かい枝が露出している肌を容赦なく引っ掻く。

左の目尻がやけに熱い。

深く切ったか?


「ほーら、もういっちょう!」


掬い上げるような横薙ぎ。

当てにいくための引っ掻けるようなスイングだ。

鋭くはない。

だが、左顔面の異常に気を取られて反応が遅れた。

表面を走る軽い衝撃が右腕に伝わる。

それはそのまま肩に情報を伝え、刺しまわるような痛みが全身に広がった。


「っん…!」


思わず苦悶の声が漏れる。


闇に輝く歪んだ双眸。

悦楽だけをその身に宿す、悪魔の目玉がしっかりとこちらの姿を捉えている。


(まずい!大上段!)


周囲を照らす点滅する光が獲物の位置を教えてくれた。

間一髪、体重が載っていた左足で地面を蹴り出し、後ろへ飛びのく。

こんなところを土壇場にしてたまるかってんだ。


体勢は左手を後ろに尻もちをついている。

地面に触れている部分から、ちくちくと刺す痛みがある。

右足は…どうやら地面に触れている感触がある。

次からは少しは使えるか?


(にしても、大して距離進んでねえなぁ。一向に逃げられてないじゃないか。)


「おいおい、こっちはまだまだ溜まるもん溜まってんだよ。」


水内は思い切り顔面で不機嫌を表す。

エリートの仮面が剝がれると、チンピラが出てくるのか。

燦然と輝く高学歴様がどこでそんなもの覚えたのやら。

どう考えても荒っぽい環境とは無縁のはずなのに。


「エリート様ってんなら、もっとお上品にやって下さいよ。」


「あぁん…?もういっぺん言ってみろ。」


余裕の皮が少し剥がれたのか、彼は荒っぽく獲物を担ぐ。

返答次第じゃ、きつい一発でも食らわしてやるとでもいった様子だ。


。」


「…なんだと。一緒にすんじゃねえよ!」


水内から一気に怒気が噴き出した。

大きく間合いを詰め、力一杯袈裟斬りに振り下ろしてくる。

躱したあとには鈍い反響音が周囲に響いた。

そして、間髪入れずに振りかぶられた大上段の二撃目を、両足の力でもって後ろへ飛ぶ。



挑発が成功して、相手の動きが単調になってきた。

プライドが高いと扱いやすくて助かる。

だが、明らかに顔面狙いの一撃が増えてきたので、当たることは出来ない。

当たったら………確実になぶり殺される。


「裏でこそこそ根回しは得意だけど、表に出ればそんなもんですか?」


「黙れ!てめえのそのスカした態度が最初はなっから気に入らなかった!人を値踏みしているその眼も気に入らねえ!自分が利口だと思っているその口ぶりも気に入らねえ!自分が正しいと思っているその性根が、何より気に入らねえ!」


…僕はそう見えていたのか。

人の良いところを探したくて、物心ついた時からずっとそうやってきた。

良いも悪いもごった煮で人の中には詰まってる、と教えてくれたのは家族と地元の皆だ。

悪いところばかりを見て、これこそこの人全部である、なんて言えないじゃないか。

良いところを見つけてやって、この人はやれば出来ると言いたいじゃないか。

土壇場だけだっていい。

その気骨を、気概を、根性を、染みったれていようが関係ない。

パッと輝くその瞬間を見たり聞いたりなんかして、褒めて相手が喜べば円満そのもの一件落着だ。

誰が損する訳もない。

みんな笑顔だ。


もちろん、これは綺麗事だ。

誰にも触らせていないまっさらな無地のキャンパス、理想論も良いとこだ。

僕の胸三寸で決まってしまう、他人からすれば身勝手極まりないものだ。

それに僕だって傷つくことも十分にある。

大人になるに従って、何度も何度も傷ついた。

でもな…こっちも曲げらんねぇんだ。


「随分と気に掛けてもらっているようで嬉しいですよ!」


「人を舐めんのもいい加減にしろ、この半端者がぁ!てめえが余計なことをしなければ俺の計画は!」


(計画ね。さぞ壮大な計画を立てているんだろう。)


「校長は上手く踊ってくれたみたいですけど、あんたの計画なんて、所詮その程度です。」


「黙れ、黙れ、黙れ!馬鹿も、無能も、何もかも、大人しく俺の踏み台になっていればいいんだ!てめえも、生徒がきも、全部、全部だ!」



増々大雑把になった振り下ろしを転がりながら躱し、僕はようやく六つ目の明るい街灯の下に来た。

これでようやく視界が安定する。

しかし、このまま大通りに出られるかと言えば、望み薄だった。

何よりも痛みによる体力の消耗が激しい。

呼吸が一定の深さを超えると、胴体を貫くような痛みが走るので、浅い呼吸しか出来ないせいだろう。

いや、そもそもこの状態で全身に、脳に酸素は回っているのだろうか。


「ちょろちょろしやがって!死ぬまでいたぶってやるから、大人しく当たれ!」


水内が大きく肩で息をして吠える。


「運動不足はお互い様みたいですね。生徒に人気の見目麗しい先生が台無しですよ。」


「くそったれがあああああ!!!!!」


咆哮と共に水内が獲物を振り上げた瞬間。


「先生!!!」

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