第28話 祝勝(1/1)

扉をくぐり視界が開けたと思うと、僕の視界は緑色の巨体で埋め尽くされていた。


「お疲れ様でした、鷹村先生。」


緑色の巨体の深々とした一礼が終わると、大隈先生は感極まりそうになるのを必死に抑えているようだった。


「大隈先生ありがとうございます。先生の力が無かったら今頃は…。」


「そんなことありません。僕が出来たことなんて、このデカい図体を使うことしか出来なかったんですから。」


彼は校長室に乗り込もうとする一団を阻もうとする教頭の腰を掴んで、天井すれすれまで持ち上げたらしい。

思わず天井を見上げ高さを確認してしまう。

教頭の声がぷつりと途切れた原因に、僕は納得せざるを得なかった。

ちょっとした逆バンジーってやつだ。



当の教頭は自席の側の床に転がっている。

日ごろから教頭に理不尽な扱いを受けている先生方が、今こそ恨みを晴らすべしと笑みを浮かべながら色々と対処したらしい。

対処した先生方は一様に笑みを浮かべていて、聞きたければ喜んでと言わんばかりだった。

今は不気味さのほうが興味よりも勝るので、話を聞くのは後にする。

教頭もここまでしっぺ返しを食らえば、考えを改めるか、もしくは大人しくなるだろう。



「ほら、そんなところで突っ立ってないで。さっさとこの場から離れるのよ。」


背後から中道花子なかみちせんせい

相変わらず動きに一切の気配を感じないのが恐ろしい。

しかも本日は黒の上下を身に着けているので、まるで黒子だ。

さらに校長室のドアはいつの間にか閉められており、あまりの早業に彼女は忍者ではないかと疑ってしまった。


「榎田さんが外で待っているから、あなたたちは先に行きなさい。ここの後始末は私がやっておくから。」


僕と大隈先生は反論する間を与えられず、強引にどんどん入り口まで押し出される。


「中道先生、ど、どうして私まで?」


「あなたが何の打ち合わせもなく、行動したことには感謝します。ですが、殿を務めたんですから、鷹村君たちと行動するのは当然です。それにこの場は口下手なあなたより、私が対応したほうが早いの。」


容赦ない中道先生の言葉に、大隈先生は申し訳なさそうな表情を浮かべている。


「鷹村君、あなたは河津さんをうんと労ってあげなさい。きちんと戦ったあの子のケアは、あなたの大事な役割です。」


「はい。」


そう、一番勇気を出したのは河津郁久乃だ。

粛々と証言し、辛酸を舐めさせられた男の視線にもひるまず、校長を圧倒した。

小さな体で大人二人と戦ったのだ。

あの子には一番の感謝を伝えなければ。


僕らは職員室の中間辺りまで押し出されると、中道先生にぴしゃりと背中を叩かれ、残りを自分たちの力で脱出した。



「ようやく来た!急いで移動よ!」


榎田先生は待ちくたびれたと見え、僕らに鞭を入れた。

だが、その傍らにはぼろぼろと泣く小日向とそっぽを向いている後藤がいた。


(ちょっと待て、なぜ小日向が泣いている?それも竹刀袋を抱えて?横にいる河津が困っているじゃないか。)


「すみません、急ぎましょう。こら、小日向。泣くんじゃない。」


「だって、だって…。郁久乃が…一人でも……戦って…。」


「一体お前は何目線なんだか…。」


きっと合流してから、ずっとこんな調子で泣いていたんだろう。

小日向と河津の関係は大きて深い谷を越えたばかりだ。

大事な人が頑張ったのだから、それは嬉しいに違いない。。

理解できる気持ちのほうが大きい。

だが、今はそれを優先すべきでない。


「河津が反応に困っているじゃないか。ほれ、走るぞ。」


「ふぁい…。」


彼女は僕が手渡したポケットティッシュを全部使って豪快に鼻をかむと、真っ赤になった目を潤ませたまま走り出した。

鼻まで垂らして台無しだった容貌も少しはましになった。


「単純バカ、先生たちに迷惑をかけるな。」


「…うるさい!」


「こら、二人とも喧嘩するな。」


何かと締まらないけれども、勝利の雰囲気とはこんなものなのかもしれない。



「よし、お茶にしよう!」


保健室に入って早々に、榎田先生が音頭を取った。


「先生たちは座ってください。私たち、今日何もしてないから。」


いつもの調子を取り戻した小日向がそう言うと、後藤もやれやれと言った様子で動き出した。

だが、動き出して早々に小言の言い合いは止めて欲しい。


「櫻子ちゃん、後藤さん。私もやる!」


賑やかに準備をしている二人が羨ましかったのか、それとも見ていられないと思ったのか、河津はお茶の準備に加わってしまった。



「さて、大人組だけになったところで、話を始めましょうか。」


「そうですね。僕も何がどうしてこうなったのか知りたいです。」


大隈先生は自分に一切話が伝わっていなかったので、興味津々といった風だ。


「まず、大隈先生。何も話せずにいて申し訳ありませんでした。そして、先程は榎田先生たちを助けてくれてありがとうございます。」


僕はきちんと正対し、深々と頭を下げる。


「止してください。僕は粛々と職員室に入ってくるお三方を見たら、体が動いてしまっただけなんです。」


彼は大きな両手を開いて壁を作り、必死に照れを隠している。


「校長室の外から手を振ってくれたでしょう?あれで勇気を貰えました。」


「それは良かった。自分が殿を務めたら、ああいうことをしようとずっと憧れていたんですよ。」


彼の目は少年のようにキラキラと輝いていた。


「大隈先生ったら、もうすごかったんだから。邪魔な教頭を掴んだと思ったら、容赦なく上にポーンよ、ポーン!」


「あれでも天井にぶつけてしまわないように、細心の注意を払っていたんですよ。軽過ぎてびっくりしたんですから。」


柄にもなく興奮している榎田先生には悪いけれども、人間が人形のように投げられていた光景を目の前で見ている身としては、乾いた笑いが出てしまう。

きっと大隈先生は緑色の巨人となったに違いない。

だが、言葉の通り急ブレーキを踏んで、事なきを得たんだろう。

天井から垂れ下がる首無し教頭、なんて状況にならなくてよかった。



「では、改めて昨晩起こったことを教えてくれる?」


一通り笑い終えた榎田先生が、話を本線に戻した。


「昨晩、友人の弁護士に連絡を取った後、中道先生から非通知で電話がありました。『協力するからあなたの状況を教えて』と。」


「ははぁ、中道先生なら突然電話が来ても不思議じゃないですね。」


大隈先生は感心しきっているが、果たしてそれでいいのだろうか。

深夜に非通知はちょっとしたホラーだ。


「事情を説明すると、彼女は即座に今日の作戦を立ててくれました。」


「通りで手際が良いと思った。『呼び出しから七分後に突入』なんて具体的な指示、あなたじゃ無理そうだもの。」


「そうですね。校長の性格を知らないとあんな作戦立てられませんよ。白状すると、いつ助けが来るのか内心ドキドキでした。」


(…僕が普段着けない腕時計を忘れたことは黙っておこう。)


「だろうね。一人で耐え抜いて本当に偉かったよ。」


彼女は手元で小さく拍手をした。

つられて大隈先生も同じように大きな手を打ち合わせくれた。

動作がささやかだけれど、二人の気持ちを感じられて、僕は胸が一杯になった。


「ありがとうございます。中道先生との通話が終了したら、榎田先生にメールを入れました。後は友人に再び電話して、作戦会議です。これが困ったことに友人がノリノリになってしまい、日の出直前までやってしまったんです。」


「だから今朝、目の下に隈が出来ていたんですね。」


大隈先生が自分の目の下を指でなぞる。

隣の榎田先生は、納得と言うように小さく手を打った。


(昼休みは本当に危なかった。本当に仮眠では済まなかったと思う。)


「で、落としどころはあれで良かったのよね?」


「はい。公益通報しなくても、より簡便な内部調査にさえ漕ぎ着ければ勝ちですから。第三者である友人が関わった以上、校長の性格では逃げられませんよ。」


「校長は始めから外部との接触を徹底的に禁止していましたからね。それに自分より上の権力に従順ですから。」


「問題発生を恐れる性格か。法律の後ろ盾とリークをちらつかせればいいのだから、楽な勝負ね。」


事を大事にする前に交渉で済むなら、それに越したことはない。

そもそも内部処理で終わるような問題ではないのだ。

事実が判明していく度に、上にあげる報告書が必要になるだろう。

それを隠そうものなら、鍋島の力を借りればいい。

熱中するくらいやる気満々だったあいつのことだ、きっと嬉々として対応してくれる。


「膿がそれだけ溜まるだけ溜まってたんです。あっ、良い香りがしてきましたね。」


昼に頂いたフランス製のチャイの香りだった。



「みなさーん、お茶の用意が出来ましたよー。」


小日向がカップ同士をカチャカチャと音をさせながら運んでくる。

カップが全員に行き渡ると、椅子を車座に並べてお茶会が始まった。


「いやぁ、美味しいお茶ですね。」


大隈先生が感嘆の声をあげると、小日向がてへへと照れ笑いをする。


「櫻子が照れてどうする。ほとんど河津ちゃんが準備してただろうが。」


「そりゃあ、この手のことは私より郁久乃と智代のほうが上手いからね。で、結局本日の私は働かず仕舞いでした。」


後藤のツッコミを意に介さず、小日向は照れたようにポリポリと頬を掻く。

その顔を見て、僕は小日向に問いただすことを思い出した。


「ところで、その後ろにある物騒な物はなんだ?」


僕は壁に立てかけてある竹刀袋を指さす。


「あれは先生が危なくなったら、廊下から校長室に殴りこんでやろうと思って。二対一で数的不利だったでしょう?」


「この子、殺気立って大変だったんだから。校長が怒鳴ったときなんて、押さえるのにどれだけ大変だったか。この馬鹿!」


躊躇なく小日向は言うが、その場面での後藤の苦労が思いやられた。

そして、鼻をすする音の正体はお前だったか。

確かに外に控えていることを知っていれば、僕は心強かったに違いない。

しかし、だ。


「停学にはならないけど、セーフラインをオーバーするようなことをするんじゃない。力を借りると言っても、無茶してもらってはこっちも困るぞ。」


その気持ちは途轍もなく嬉しいのだ。

だが、大事な教え子が追い詰められるようなことが起きると困る。



まだ納得のいかないようでむくれる彼女を他所に、和やかに時間は過ぎていった。

食べ盛りの三人娘が、榎田先生秘蔵のお菓子を食らい尽くさんとばかりにしていたその時である。

保健室の外に人の気配があった。

校長か教頭かそれ以外か、部屋の中に緊張が走る。

大隈先生と小日向は素早く警戒態勢に入っており、二人が真剣勝負の世界に身を置いていた者だと感じずにはいられなかった。

ドアのすりガラスに現れる真っ黒い人影。真っ黒?


がらがらがらがら


扉が丁寧に開かれる。


「相談、いいかしらぁ?」


「お疲れ様です、中道先生!」


僕と大隈先生は素早く椅子から立ち上がり、直角に近い形で礼をする。

ちょうど視界に入った河津は僕らの様子に何事かとおろおろしているが、こればかりは申し訳ない。

大人の条件反射的なものだ。


「もちろんです。中道先生もお茶いかがですか?」


「あら、ありがとう。うん、本当に良い香りね。」


彼女はおどけるように香りを楽しみ、るんるんと気分が良さそうに部屋に入ってくる。

僕は自分の椅子を素早く差し出す。

小日向と後藤は、僕と大隈先生の様子を察したのか、静かにお茶の準備に動いた。


「はい、ありがとう。鷹村君、今日はお疲れ様でした。」


「ありがとうございます。先生がいなければ、あそこまで一方的に事を収めることが出来ませんでした。」


「当然よ。私は校長が赴任したばかりの頃、職員室に現れては右往左往していた姿を知ってますからね。問題が起きることに毎日怯えていたあの人を。」


そういえば児玉先生が小心者と言っていた。


「彼は何かと柔軟性の足りない残念な人ですが、現状を維持する力には長けています。私はあの場で色々と言ったけれども、だからと言って全てが悪いという人ではないのよ。」


「その辺りは理解しているつもりです。」


僕は校長室でやはり頭に血が上っていた。

校長は追い詰められても仕方なしと思っていたが、誰だって問題が起きるのは怖い。

自分から役職に就いたとはいえ、責任を取ることだって怖いはずだ。

特に危なっかしいことばかり報告されては、胃がいくらあっても足りない。

情状酌量の余地ありってやつだ。

思い返してみれば、僕も小日向の行動にひやりとさせられることもあるのだから。


「大隈君は私を恨んでいるかしら?児玉先生の時は協力しなかったのに、と。」


突然話題を振られ、大隈先生がびくりと体を上下させる。


「いいえ、しかしゼロと言ったら嘘にはなりますが…。当時から中道先生のお考えは、理解できないわけではなかったんです。『生徒のため』と謳っていても、大人の権力争いの一面はどうしても否定できません。」


「そうね。私のポリシーは『学校がどうあろうと、目の前の生徒に全力で仕事をする』ですから。五年前の件はどうしても相容れません。」


「だから、児玉先生たちと個々の生徒の方針について毎日議論していた、なんて話があるんですね。」


僕は優雅に足を組む中道先生に思い切って質問する。


「そうです。私たち公立校の教師は、職場環境が数回がらりと変わります。その中で変わらないものは、目の前に生徒一人一人がいるという事実だけです。そこに注力しないでどうしますか。」


彼女の目は真剣そのものだった。

これが三十年以上の教員生活から生まれた信念。

校舎損壊事件の日の言葉を、僕に向ける日頃の言葉を裏付ける彼女だけの真実。


「それにしても懐かしい話ね、本当に。児玉先生と言えば、先日電話がありましたよ。」


「児玉先生からですか?」


「詳細は伏せますが、鷹村君のことを頼む、とね。相変わらず不器用な人。」


クスクスと笑う先生の隣で、大隈先生が何やら感じ入っていた。

当時のことを思い出しているのだろうか。

僕もあとで児玉先生にお礼と報告をしなければ。


「さて、こんな話ばかりしていると河津さんが可哀そうだわ。」


先生が河津の正面へ体を向ける。

慈愛を込めた優しい目だった。


「河津郁久乃さん、あなたはよく戦いました。私たちでは到底分からない苦しみをたくさん味わったことでしょう。ですが、あなたは自分の思いを伝えるために、勇気を出してあの場に立った。そして、自分でその一歩を掴んだ。私はあなたに敬意を表します。」


「そ、そんな私…敬意を表するだなんて…。」


中道先生の全力に河津はたじろいでいる。


「郁久乃ちゃん、あなた凄いのよ。ゼロをイチにすることが、どれほど大変なことか。」


榎田先生の眼鏡の奥が若干潤んでいるように見えた。


「あとで手紙を書いてあげるといいわ。今では手書きのお手紙なんて貴重になってしまったから、氏子君も喜ぶかもしれない。鷹村君、郵便屋さん役よろしく。」


突然のご指名に驚いたが、僕は快く返事する。

中道先生は納得した様子で小さく頷くと、勧められた榎田先生秘蔵のお菓子、葉巻型のバタークッキーに舌鼓を打ち出した。



程なくしてお茶が運ばれると、いつもの掴み所のない彼女に戻った。


「ところで鷹村君、河津さんのことは労ってあげたかしら?」


「あ、すいません。タイミングを逃していました。」


じっとりと責めるような中道先生の視線が刺さる。

労う気持ちがあったのは本当だ。

僕も小日向の物騒な持ち物の件を問いたださなければ良かった。

次の瞬間、彼女は行って来いと言わんばかりに僕の背中を叩く。


「河津、今日は色々ありがとう。そして、お疲れ様。」


「本当にそうですよ、先生。学校指定のネクタイなんて、校内では一年生のとき以来使ってないから、武道場で木塚さんに借りたんですよ。」


お昼の散歩の真相か。

意外なつながりがあったものだ。

小日向経由だろうか。


「申し訳ない。けれど、ばっちり決まってたぞ。」


「ありがとうございます。…ところで先生、後ろを向いて貰えますか?」


照れ笑いをしていた彼女の謎の申し出に、僕は素直に従う。

中道先生には、俯き足元だけを見るよう促される。

これでは周囲の反応が全く分からない。

随分と間が空いたが、何をどうするつもりだろう。


「おーい、大じょ…。」


すると、肩甲骨の間にパシンと衝撃が走る。

小さな平手打ちが見事ど真ん中に決まった。


「あいたっ!」


僕は予想外の出来事にたまらず声を漏らしてしまう。


「先生、ありがとうございました!本当に色々、沢山の事を!」


「…どういたしまして。」


参考にした師匠たちの影響なのだろうか、随分と大胆になったようで。

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