第26話 決行(1/1)

「次は明光台運動公園前、明光台運動公園前。お降りの方は…。」


僕は目の前のボタンを最小限の動きで押す。

いつもよりも遅い時間のバスに乗ったため、車内はぎゅうぎゅう詰めだった。

普段自分が占有しているスペースを確保されたことに不満があるのか、隣のスーツの男性がじろじろと見てきて、朝から地味に神経をすり減らしてしまった。



バスを下りると、肌を撫でる少しだけ水分を含んだ冷たい風。

先程まで人肌で蒸されていた空間にいたので、風が心地よい。

僕はシャツの袖をまくり、大きく伸びをして、解放感と共に風を体一杯楽しんだ。



さて、ここから先は明光台第一中学校まで一本道。

昨晩通ったときには暗闇で目立たなかった、サツキの赤紫色が快晴の空に映えている。

赤と紫の中間色、半端者の僕にお誂え向きの特注レッドカーペットとは、どうやらお天道様にも祝福されているらしい。



「おはようございます、鷹村先生。って、大丈夫ですか?目に隈ができていますよ。」


始業時間ぎりぎりに出勤した僕の顔を見て、大隈先生が心配の声をあげる。


「おはようございます。昨日は夜が更けてから、特に忙しくなりまして。」


「そんな無茶しないでください。今日は教頭がやけにご機嫌で不気味なんですから。何か仕掛けてくるかもしれないですよ。」


「きっと何かあるでしょうね。大丈夫です、昨日の約束は忘れていませんよ。」


不安げな顔をする大隈先生に目一杯の笑顔を向け、僕も始業の準備をする。



職員室の様子は昨日と異なり、凪いでいる海のようだった。

視線も何も感じられないのは昨日と同じなのだが、雰囲気が落ち着いている。

既に僕は無かったことにされている、ということだろうか。

これが仮に作られた雰囲気だとするならば、よく根回しされているものだ。



今朝の打ち合わせでは、今週中に外壁作業が完了し、来週から部活が通常通り再開される旨が伝達された。

来週からは元通りの学校が再開される。

平凡な日常が戻って来る。

僕もその日常に帰るのだ。



「果たし状ってものは、時間を守るものなんじゃないかな?」


待機場所としてお邪魔している昼休みの保健室で、榎田先生はマグカップを片手に笑う。


「どこぞの二天一流ってわけでもないしね。水内君はプライド高そうだから大丈夫だよ。」


「でも校長もいますし、教頭の動きが特に読めないんですよ。」


「君は余計なことを考えず、どんと構えておきなさい。それと、午前中に丙さんが来たわ。」


「何か言っていましたか?」


「『よろしくお願いします。』だって。彼女に今までの事を全部伝えたら、驚いてた。」


顔色も良く、メンタルも安定しているように見えたので、安心したそうだ。

特に、ほんの少しでも笑顔が見えたことが一番の変化だったらしい。

経過良好でこちらも一安心だが、丙が驚くのは当然だろう。

がさごそ僕が動き出したと思えば、氏子先生に接触して、その後クビが危うくなってるんだから。


「良い報告しなきゃいけませんね。」


「当然よ。女の子を泣かせたんだから、鬼の腕一本じゃなくて、首をすっぱり頂かないとね。」


「ですね。最高のサプライズプレゼントです。」


僕たち二人は顔を見合わせて微笑んだ。



窓から差し込む正午の陽で一杯に満たされた保健室は、実に居心地が良かった。

淹れてもらったチャイの香りも、居心地の良さに一役買っている。

スパイスと果実系の複雑に絡み合った贅沢な香りで、全身から力が抜けてしまいそうだった。

このままベッドで横になれば、丸一日は眠れること間違いない。


「仮眠取ってく?二十分くらいしたら起こしてあげるよ。」


先生に顔に書いてあったことを読み取られてしまった。

この人には本当に敵わない。


「いえ、一度眠ったら今日は起きそうにないのでやめておきます。ところで河津がいないようですが?」


「郁久乃ちゃんならお散歩よ。今日は綺麗に晴れているからって、武道場の方に行ったみたい。憑き物が落ちたんじゃないかってくらい、すっきりとした顔してたわ。」


小日向に会いに行ったのだろうか。

ひとまずあの二人の仲が結び直されて本当に良かったと思う。


「そうですか。では、僕はそろそろ失礼します。今日の授業が全て終わったら、また保健室を使わせてください。」


「もちろん。きちんと呼び出されるようにね。」


「はい。今日のチャイは特に美味しかったです。ご馳走様でした。」


「良いってことよ。フランス製のちょっと良いやつだから、全部終わったらまた淹れてあげる。」


「ありがとうございます。では、後ほど。」



「鷹村先生。至急、職員室に来てください。」


校内放送で繰り返される良く響く低音。

スマホを見ると、表示が変わったばかりの授業終了からきっかり十分後。


(さぁ、処刑台に行ってきますか。)


「いってらっしゃい。」


僕は背中をポンと押され、保健室を出た。

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