第24話 分岐(1/1)
保健室のドアを開けると、部屋中が癖のあるスパイスティーの香りに満たされていた。
これがホームに帰ってきた安心感というやつだろうか。
僕は気が緩んで、ドッと体全体が重くなった。
蛍光灯によって全体が明るく照らされている部屋で、榎田先生はデスクに腰かけ書類を読んでいた。
負傷したことになっていた小日向はベッドの上で腕組みに胡坐をかいていて、河津から解いた髪に櫛を入れてもらっている。
トリミングか何かだろうか。
達磨じゃあるまいし、腕組みに胡坐ではせっかくの容姿も台無しだ。
「遅い!」
頬を膨らませた小日向が吠えた。
後ろの河津は、それを宥めるように微笑みながら頭を撫でる。
「鷹村君、智代ちゃんお疲れ様。お茶の準備が出来ているから飲みなさい。」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて頂きます。」
僕は小日向の抗議を無視して、勧められた椅子に崩れるように座った。
一方、後藤はカップを持って、二人の友達のところへ行った。
早速ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めたが、今の僕にはリアクションをするだけの余裕がない。
五感全てが分厚い膜に包まれているようだった。
正直に言えば、カップを口に運ぶ動作だけで手一杯だ。
重い腕を持ち上げて、ゆっくりと口に含んだお茶は、口の中を複雑な香りで一杯に満たしてくれた。
胃に辿り着いたお茶から香りが立ち昇り、鼻腔から抜けていく様子が実に心地いい。
それに疲れた体に甘さが沁み込んでいく。
脳へ栄養が補充されている感覚が如実に分かった。
「かなり絞られたのね、ひどい顔しているわ。」
榎田先生は追加の糖分と称して、お菓子を手渡しながら僕を診断する。
「今日の授業が終わって一時間かそこらのはずですけど、数日分疲れた気がします。」
「ひとまず栄養補給して落ち着きなさい。私も話すことがあるから、食べながら聞いて。」
先生曰く、校長が保健室に来たらしい。
僕らとほぼ入れ替わりのタイミングだったそうだが、その辺りは言及されなかったそうだ。
「『余計なことをするな』だってさ。脅すならもっと洒落た文句にして欲しいものね。」
「その辺のユーモアが欠けているんでしょうね。僕も大隈先生も同じ文句でしたから。」
「人間たるもの頭の柔軟性を失ったらオシマイね。どうせなら『家族がどうなってもいいのか?』みたいなテンプレを聞いてみたかったわ。」
冗談めかして笑う先生だったが、そんなことがあれば別の大騒動が生まれそうだ。
「そんな脅し文句でこっちが手を引くかって話よ。こっちはくぐった修羅場の数が違うっての。」
「榎田先生と普通の公務員では、人生経験が比較にならないですよ。それより他に何か言っていませんでしたか?」
「いいえ、自分の言いたいこと言ったら帰っちゃった。あの校長、完全に自己完結しているみたい。こっちの話を聞いている気配もなかったし。」
「それで、先生はどうします?」
僕は答えが分かり切ってはいるものの、確認のため聞いておく。
「引くわけがないじゃない。既に使えそうな書類は準備出来たし、追加で指示があっても即座に対応できるくらい確認済みよ。」
手渡されたリストには、簡潔に要点がまとめられていた。
仕事が出来る人はどこまでも違うらしい。
機会があれば鍋島に会わせてみたいくらいだ。
「ありがとうございます。友人に連絡しておきます。」
「お友達が必要とするなら、私の連絡先を教えちゃってもいいから。って、そこの二人は少し落ち着きなさい。」
後ろを振り返ると、小日向と後藤が唸りながら睨み合っていた。
さすがの腐れ縁だけあって、本当に仲が良い。
しかし、取り残された河津が櫛を手にあわあわと動揺して、少々気の毒である。
「よくあの酷い演技で私がやるなんて言えたものね…。」
「私だってやれば出来るもの!それに何かあれば、水内をちょちょいっとすれば…。」
「あんたは加減ってものを知らないでしょ。それにあんたは演技となると、全部棒読みのヘタクソじゃない。」
小日向がややひるんだようだ。
「私の演技だって褒められたのよ、学芸会のとき!」
「あれはあんたの太刀筋が見えないって、時代劇好きのジジババにウケてただけ。今更小四だった頃の話を持ち出してどうするのよ。」
完全に後藤が言い負かしたようなので、合図をしなければ。
「今日はお開きにするからもう止めなさい。三人とも今日はありがとう。榎田先生もありがとうございます。お茶もご馳走様でした。」
年相応の元気な返事が部屋中に響くと、僕らは撤収準備に入った。
「鷹村君、適当な所まで送るわ。」
三人娘を先に帰し、僕と先生は戸締りをして目の前の北側昇降口に出た。
僕が下駄箱に手をかけると、隙間に何やらメモが差し込まれていた。
『校長に報告した。明日の放課後まで震えているがいい。』
殴り書きとは言わないまでも、止め跳ねにストレスがにじみ出ていた。
(随分なラブレターだこと。上等だ。)
「鷹村君、ぼさっと突っ立ってどうしたの?」
僕はメモを握りつぶしポケットに隠したい心を抑え、先生にメモを見せる。
彼女は文面を見ると、好物が目の前に来た肉食獣のようにニヤリと笑った。
「こっちのほうが私の好みね。果たし状なんて素敵じゃない。」
「果たし状と取りますか。てっきり新手のラブレターかと。」
「私、ラブレターなら男女問わず貰い慣れてるからね。ひとまず歩きながら話しましょう。」
時刻は午後七時前。
ミッドナイトブルーに変化していく空を眺めながら、僕らは正門を出た。
「すみません、先生は逆方向ですよね?」
「若者は細かいこと気にしないの。私は反対車線のバスに乗ればいいだけだから。」
榎田総合病院は坂を越えた先だ。
校舎損壊事件の日に上った坂の先。
多少の興味はあるが、病院にも極力お世話になりたくないものだ。
「鷹村君は聞いたことある?この運動公園って、昔は学生同士の合戦場だったのよ。」
どこかで聞いたような話だった。
学校から道路を挟んで目の前の運動公園は、テニスコートが二面、小さなグラウンドに野球専用のグラウンド、小さな遊具施設を揃えているのでかなり立派なものである。
「私が学生の頃かな、喧嘩が余りにもうるさいって住民から苦情が入ってこうなったの。」
元は多目的運動場と、名前だけのだだっ広い野原だったらしい。
当時は野原に響く怒号と悲鳴に加え、彼らの愛車が出す騒音も酷かったそうだ。
「だから所々設備の古いところがあるんですね。この道の街灯も切れかかってる。ほら、あそこの。」
僕らの目の前にある公園の総合管理棟入り口の街灯が、今が取り換え時と言わんばかりに不規則な点滅をしていた。
「作ったはいいけど、整備まで手が回ってないのよ。当時の教育長が権力に任せて強硬策に出たらしいから、今でもお金がないのね。ほら、反対側の街灯も切れかかってる。」
「反対側は…幼稚園に寺ですか。確かに野原のままじゃ教育環境的によろしくないですね。」
日中賑わうはずの向かい側は街灯が道を照らしているものの、ひっそりとしてそのほとんどが暗闇に包まれている。
こちら側と合わせても人通りはなく、車通りもほとんどない。
今は偶々通り過ぎた車のタイヤと路面との摩擦音が大気に響き渡っていた。
(先日の校舎損壊事件では野次馬が集まっていたので、道を一本奥に入れば閑静な住宅地なんだろう。)
僕らは運動公園を右手にサツキの植え込みが両側を飾る道を下っていくと、繁華街へと続く大通りに出た。
「僕のバス停はあそこなので、もう大丈夫ですよ。」
僕はいつも使っている明光台運動公園前バス停を指差す。
朝と夕方の利用者は多いはずだが、今は誰もいなかった。
そもそもこの道を通過する車も疎らなので、夜の交通量も利用者も少ない場所なのかもしれない。
「榎田先生、今日はありがとうございました。友人から指示が来たら、またご連絡します。」
「了解。今日は早く休みなさいね。」
ここで彼女は意味ありげに黙り込み、大きな間を取った。
通過した車のエンジン音が周囲に景気良く響いた。
「鷹村君、君は皆を頼りなさい。あなたにとって一番大事なことよ。」
「頼る…ですか?」
「今日分かった。君は一人にしておくと、いつの間にか死んでるタイプだわ。」
「自爆や特攻なんて、趣味じゃないですよ。」
即座に僕は肩をすくめる。
そんな趣味があっては困る。
「笑い事ではないの。大人なんだから、きちんと自分を守る術を持ちなさい。人に頼るのもその一つ。一人でやろうと皆でやろうと、得られる経験値なんて大して変わらないんだから。」
「…人生って、そんなもんでしょうか?」
そもそもが僕のクラスの生徒から始まった事態。
納得いかないと噛みついたのも他でもない自分自身だ。
だからこそ、僕一人で解決しなければならないのではないか。
「今回はいつの間にやら生徒まで巻き込んでいるけど、割とこんなものよ。さっきの果たし状も皆でやればどうにかなるから、君は一人で戦っちゃ駄目。その思考に引っ張られちゃ駄目よ。」
その時、対向車線の車から目がくらむほどのハイビームが、彼女を後ろから照らした。
「君は女性の尻に敷かれてたほうが絶対に上手くいく。だから…、私にもちゃんと頼りなさい!」
予想外のことを満面の笑みで言われてしまったら、ずっこけるしかない。
「大丈夫みたいね。じゃあ私、行くわ。」
榎田先生は大袈裟に手を振ると、軸足を起点に一切のブレがないターンを決める。
そして、例のボンバージャケットに手を突っ込み、ブーツをコツコツと響かせて行ってしまった。
「あの人には勝てないわ…。」
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