第22話 部屋(1/1)

校長からの最後通告だ。

一旦引いて体勢を整えるべきか?

榎田先生と作戦を練り直すべきか?

いや、僕はまだ氏子先生の件を伝えていない。

心中覚悟で突き付けて、無理やりにでも交渉に持ち込めれば…。



席に戻った僕は足りない思考を無理やり回した。

正直言って、周囲からどう見られるか考える余裕がない。


(今の時間なら榎田先生がいるかもしれない。まずは保健室で話し合いだ。)


「鷹村先生、ちょっといいか?」


聞こえてきたのは、生徒から評判の良く響く低い声。


「水内…。」


ゆるいストライプが入った濃紺のスーツに糊のきいた白いシャツ、無地の濃紺のネクタイという重々しい、いや落ち着いた雰囲気を纏い、生徒の前でだけ見せる警戒心を与えない笑顔を張り付けた水内満がそこにいた。


「さんを付けろよ、こっちは目上だぞ。校長に言われたばかりじゃないのか?」


顔面から即座に生徒用の仮面が取り払われ、職員室での顔と声に切り替わる。


「鷹村先生に話があるんだ。ついて来てくれるか?」


「話ならここで聞きますよ。僕に聞かれて困るようなことはないんで。」


彼は意外とでも言いたげな表情をわざと作る。


「本当にそうか?そんなに職員室ここで聞きたいか?なぁ、『淫行教師』。」


最後の単語を僕にだけ聞こえる大きさにして、彼は意味不明なことを言った。


「何だって?」


「興味を持ってくれたか?丙紗耶香の件だよ。」


僕は思わず立ち上がった。

先程の単語と丙の名前が、どう結びつくのかは分からない。

ただの挑発ではなく、目の前の男が何かをしたのは間違いない。

だが、ここで僕は自分の視界に違和感を覚えた。


(戻ってきているはずの大隈先生が戻ってきていない?中道先生も?)


「どうした?大隈先生と中道先生なら緊急の会議だ。そうだな、あと三十分は帰ってこないんじゃないか。」


わざとらしく時計を見て、水内は無感情に言葉を発する。

周囲の先生たちは、何事もないように仕事をしていた。

明らかにこちらを向いている人も、視界から僕らを消しているようだ。

余りにも歪な光景に僕は思わず身構える。


「おいおい、暴力反対だ。状況は理解しただろ?静かな場所で話そうぜ。」



僕は水内に従って職員室を出た。

この男が僕を先導する形だ。

たとえ命令されたとしても、こいつと仲良く横並びでなんて歩きたくない。



廊下は外壁塗装工事のための防音シートによって、取り込む光が制限されていた。

水内は放課後の仄暗い廊下のど真ん中を悠然と、そして堂々と歩いていく。


「あの犯罪者が割ったガラス、全部直ったな。」


窓側に顔を向け、水内が呟く。

僕は無言を貫く。

一週間以上前に廃墟同然となった校舎の窓ガラスは、先日新品に取り換えられた。

廊下の壁には痛々しい打撃の跡が残っている一方で、新品のガラスの光沢は異様に目立っている。


「馬鹿や無能は理解できない。あいつらは生きる価値が全くない。」


二年二組の教室の前まで来ると、二人の女子生徒が飛び出して来た。


「水内先生、さようなら!」


生徒は二人とも、に向って会釈する。


「さようなら。下校時刻はとっくに過ぎているから、次は注意しなさい。」


元気な返事をして、二人は中央階段をぱたぱたと下りていく。

慕っている先生とやり取りが出来て、如何にも嬉しそうだった。


「だが、従順なのは恩情で許してやる。俺の邪魔をしないからな。」


生徒向けの優しい声は、元の冷たい声に戻った。

きっと表情も一瞬にして切り替わったに違いない。



水内が三階への階段に足をかける。


「先日の報告書、見せてもらったよ。鈴ノ木先生は先に帰ったそうじゃないか。」


僕は無言を貫き通す。

あの男が踊り場に出るまで、階段の下で待たなければ。

足場が悪い所では何をされるか分かったもんじゃない。


「どうした?話はここからだ。」


上から次の階段に足をかけた音を聞いて、僕はゆっくりと踊り場に向かって階段を上がる。


「俺は状況が気になってな。彼女に裏を取ったんだよ。」


コツコツと上から足音が響く。


「お前が彼女を先に帰らせたそうじゃないか。しかも強引に。」


違和感のある不穏な発言に、僕は踊り場まで駆け上がった。

だが、見上げても水内の姿はない。


がらがらがらがら


ドアが滑らかにレールの上を走った。


(…目の前から?)


「彼女はお前の態度が怖くなって、思わず逃げたそうだ。一体、何をした?」


無機質だが、嘲笑うような声が階上から響く。


「女子生徒と二人。」


「噂でも聞いたのか?」


「いくら払った?」


「あの売女に。」


「水内ぃ!」



僕は感情を剥き出しにして、階段を駆け上った。

その反動と興奮で、呼吸が乱れる。

目の前には口元だけを酷く歪めた水内と、その横に真っ黒な空間が口を開けていた。

照明が点いておらず、カーテンも閉め切られているのか、中の様子が一切分からない。

その部分だけ切り取られたように、ぽっかりと開いた穴。

黒で何度も、念入りに塗りつぶされたような洞穴。

ネームプレートに書かれた文字は―、


進路指導室


目の前の空間の異質さに、僕は唾を飲んだ。

背中に一筋冷たいものが流れ出た。

本来なら何の変哲もないただの小部屋だ。

空き教室が多いこの学校の、なんの変哲もない一室。

僕が副担任をしている三年二組の隣にある、受験を間近に控えた生徒が利用する進路指導室。


「さあ、入れよ。思う存分、たっぷりと話し合おう。」


口元を除けば無表情を決め込んでいるが、全身から満ち溢れている余裕が憎たらしい。


(氏子先生もあそこに入って退職を迫られた。進路指導とはとんだブラックジョークだ。)


「どうした?淫行教師の疑いを晴らしたくないのか?それとも、丙紗耶香みたいに追い詰めたほうがいいか?」


「てめぇ…!」


確信した。

こいつはまだ画像を残している。

画像を手に入れれば、丙の証言を裏付ける動かぬ証拠だ。

それだけじゃない。

この場でこいつを止めないと、いつまでも被害者を作り続ける。

なによりこいつの行いは、人としての限界を超えている。



僕が一歩を踏み出したことを確認して、目の前の男は右手で恭しく部屋の中へ誘う。

まるで宿泊客を迎えるホテルマンだ。


「中に入ったら目の前の椅子に座れ。」


近づくほどに黒い部屋の様子が鮮明になってくる。

椅子と机しかない、まるで取調室のような部屋だった。

しかし、こちとら本職の刑事さんから事情聴取を受けている。

今更、怖気づくようなことはない。

進路指導室の入り口まであと三歩、二歩…。

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