第21話 権力(1/1)

本日の授業を終えて職員室に戻ると、向かいの席の大隈先生が肩を落として小さくなっていた。

普段はこんもりとした山が席から顔を出しているのだが、今は一回りも二回りも小さく見える。


「鷹村先生、ちょうど良かった!」


「な、何なんです!?」


先生は僕を見るなり一瞬で間合いを詰め、クラッチバッグを持つかのように小脇に抱えると、急いで職員室を飛び出した。


「今の時間なら、今の時間なら…。」


彼は同じ言葉を繰り返している。

表情からは余裕が一切見られない。

僕は昨日と同じように一階の渡り廊下まで運ばれた。



「鷹村先生、申し訳ありません。」


「一体どうしたってんです?緊急事態ですか?」


「校長に目を付けられました。先程、校長室に呼ばれたのですが、『余計なことをしないように。これは最後通告だと』と言われました。」


大隈先生は無念そうに眉間の皺を深くする。


「色んな交渉材料を出され、挙句には生徒や部活のことにまで…。」


「脅されたってことですか?」


「いいえ、匂わせ程度です。しかし、どう受け取っても最後の一言は柔道部のこととしか考えられんのです。」


彼は両手の拳を握り締め、自らの腿に叩きつけた


「校長も大胆にやりましたね。…先生は生徒を守るために従ってください。あとは僕がやります。」


「そんな!昨日の今日ですよ、先生の力になると言ったのは!男が約束したんですから、恰好付けさせてください!」


先生の必死さが分厚い壁のような圧力となって、僕に向かってくる。


「分かってます。でも、先生にはここに来てからずっと助けてもらっています。どこの馬の骨とも知れない僕を、何度も試験に落ちている、いい年齢としした情けない男を。僕は心の底から感謝してるんですよ。」


たじろぐことの知らないはずの緑の障壁が、一歩後ろに引き下がる。


「先生からもらった気持ちと一緒に、校長と一勝負やってきますよ。こっちには虎の子で氏子先生の件があるんです。学校側にとって、この問題はどうしたって避けようがない。仮に僕が当たって砕けようとしたって、砕けるのは校長の側なんです。」


「先生、そういうことでは…。」


「それに、先生にはご家庭もあるじゃないですか。先生がいなくなったらどうするんですか?」


彼は岩のような右手を固く握り、胸元まで持ってくる。

だが次の瞬間、彼は大きなため息を噴き出した。

同時に右腕も脱力して、肩からぶらりと垂れ下がる。


「わかりました。でも、約束してください。後生ですから、無茶はしないでください。先生は一緒に警察にご厄介になった、大事な友人なんですから。」


心からの言葉を受けて、胸がじんっと熱くなる。


「ありがとうございます。そうだ、今回勝ったらあの中華料理屋に行きましょう。」


「いいですねえ。特選長崎ちゃんぽん、ライス大盛、餃子セットで。」


「もちろんビールも付けて乾杯しましょう。」



僕らは時間をずらして別々に職員室へ戻ることにした。

小細工だと分かっていても、多少なりとも大隈先生の立場を守りたかったからだ。


先に戻ることにした僕が職員室のドアを開けると、予想通り教頭が仁王立ちで待ち構えていた。


「どこへ遊びに行ってたんですか、鷹村先生。待ってたんですよ。」


ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、大層機嫌が良いようだ。

常日頃それくらいの態度なら、教員からの評価が高くなりそうなものを。


ドンッ!


突然、乱暴に校長室のドアが開く。

ドアが開けられた勢いのまま床のストッパーに衝突し、派手な音を立てたらしい。

中からゆらりと現れたのは、凄みのある笑みを浮かべた中道先生。

自然な笑みに違いないのだが、それが却って恐ろしい。

明らかに近寄ってはいけない雰囲気を纏っている。


だが、僕は目の前に教頭がいることを思い出し、頭を切り替えた。

頬を叩くこともできない、首をぶるぶると振れないので、イメージで対応だ。


「で、校長の用が今まさに済んだみたいですけど、行ったほうがいいですか?」


「とっとと失せろ!目障りだ!」


先程までの余裕と丁寧口調はどこへ行ったのか、こめかみに浮かんだ青筋がピクピクと返事をした。

相変わらずの瞬間湯沸かし器である。



「失礼します、校長。お呼びとのことですが…。」


「おお、鷹村先生。皿屋敷君に呼ばれたんだね、そこに掛けなさい。」


校長室はカーテンが閉め切られ、蛍光灯の光が煌々と室内を照らしている。

緞帳のようなカーテンが重苦しさを演出していて、どこか息苦しい。

応接用テーブルセットの横にあるガラスケースには、数々のトロフィーが飾られていた。

その一際目立つ場所には、『教育環境優良校』と書かれたトロフィーが鎮座している。

他の物は古びて雑に扱われているように感じるが、それだけは明らかに新しく、ピカピカに磨かれていて、自分の存在を誇るように光を反射していた。

また、壁にかかった賞状の中でも『教育環境優良校』の賞状だけが、特に目立つところに飾られている。

どうやら他の額よりも良いものが使われているようだ。


「こら、いつまで立っているつもりだ。そこに座りなさい。」


校長は部屋の中を見回す僕の様子が気に食わなかったらしい。

まじまじと時間をかけて見ていたわけではないのだけれど。



「で、どうだね。」


席に着くなり校長は、気軽な茶飲み話でもするように話題を切り出した。


「どう、とはなんでしょう?含意が広すぎるように思います。」


即座に恵比寿様のような顔から感情が消え去った。


「言葉の意味が分からなかったか?鷹村君。」


「質問にきちんとお答えしたいので、的外れな回答をしたくなかったんです。申し訳ありません。」


僕は相手の表情を探ることなく、素早く、そして軽く頭を下げた。

そもそも『どう』では意味も何もない。


「なるほど、悪いとは思っているのだな。」


(こちらは悪いと一言も言っていないのに、余りにも解釈が過ぎる。)


彼は右手でがっしりとしたあごを擦り、何か考え始めた。


「では、要望通りの質問をしようか。先日、私が君と大隈君に言ったことを覚えているか?」


「はい。『余計なことをするな』でしょうか。」


「そうだ。私は君に『余計なことをするな』と言った。では、ここ最近の君は何をしている?」


「はい、普段通り仕事をしています。」


途端に彼の切れ長で細い目が、針のように尖る。


「責任者である水内君に反抗することが君の仕事か?駆け回る生徒を指導するでもなく、好き勝手にさせるのが君の仕事か?周囲の先生方の手伝いもせず、熱心に保健室通いするのが君の仕事か?」


一つ一つ案件を羅列する度、声が怒気を帯びていった。

こちらの動きはやはり筒抜けらしい。


「校長、水内さんの件について聞いて頂きたいことがあります。彼は、僕のクラスの丙紗耶香を脅しています。条件を飲まないなら彼女…。」


「まず私の質問に答えんか!」


ドンッと丸い拳が机を叩いた。

骨が太く、硬い皮膚が拳を保護している、ゴツゴツとした手だった。

若い時分は破壊力で有名な拳だったのだろう、部屋中に衝撃の余韻が響く。

どうやら直訴が出来る機嫌ではないらしい。

ルールに従って会話しなければ。


「まず水内さんには反抗ではなく、疑問があったので機会を設けただけです。不明瞭な点を質問することは、仕事の範囲内だと思います。次に先日校舎を走り回った生徒には、事情を聞いて指導しました。教員としての責任は完了したと認識しています。最後に僕の周りの先生方は、優秀なので…。」


「あー、君。返事は短くだ。それにしても君は…、随分と自分を良く見せたいようだな。」


(頭からこちらの返事に興味を失い、顏を逸らして言う言葉がそれか。)


「そうだ、水内君が何かした件だが…。」


(早速対応を考えていたか。融通が利かないと思って申し訳ない。)


「それに問題があるのか?あと証拠はあるのか?証拠だよ、証拠。」


瞬間、全身の血管を煮立った血液が一気に駆け巡った。

だが、まだ抑えなければならない。

氏子先生の件も伝えなければならないのだから。


「証拠は水内さんが持っている、と彼女は言いました。まずは話を聞いて…。」


「だから証拠はないのかと言ってるだろう!いい加減質問に答えろ!」


僕は言葉に詰まる。

確かに写真のデータは水内のスマホにしかない。

まずは調べてもらわないと何も始まらない。


「大体、水内君がそんなことして何になるんだ?」


二の句が継げない僕に、校長が畳みかける。


「彼の取り組みの結果、本校は一気に変わった。今や県内有数の優良校だ。荒れているという評判は、もはや過去のものになった!」


「それでも、一人の生徒が教師に脅されたと言ってるんですよ!」


気分良く語っていた校長だが、僕の一言が癪に障ったのか、一気に眉間の皺を寄せた。


「脅された?そんなもの、生徒が大袈裟に言っているだけだろう。そもそも該当生徒は、問題を起こしたクラス出身ではなかったか?そこのクラス出身なら、何でもかんでも大袈裟に、それこそ針を棒みたく言いそうなもんじゃないか。」


先程全身を巡った血が一気に冷めていった。

この人とは会話が成り立たない。


「君と話していても嚙み合わないな。さて、君を呼び出した本題に入ろう。」


僕が呆れて動けない目の前で、彼はどっかりとソファーに座り直す。

表面の皺が深いソファーの座面が、鈍い音を立てて沈み込んだ。


「私は『余計なことをするな』と言った。だが、君はそれを守っていない。だから、しっかりと警告しておこう。次があれば、私はこの学校の管理者として、君に何らかの処分を下さねばならない。」


判決を下す裁判長にでもなったつもりだろうか。

威厳たっぷりに発された言葉に、思わず僕は短く声を漏らす。


「静かにしたまえ。私の方針は絶対だ。」


「…脅しですか?」


「脅しとはまた物騒な物言いだな。君、まずは落ち着きなさい。」


僕の眼は、敵意を宿した鋭いものになっているのだろうか。

校長は僕に負けじと睨み返し、しっかりと握られている拳を膝の上に置いた。


「よく聞きなさい。君の勤務態度は、巡り巡って君の将来に関わるかもしれないんだ。その勤務態度を評価するのは誰だ?答えてみなさい。」


『将来』という言葉に、突如『不合格』の三文字が脳裏に浮かんだ。

自室の対策をまとめたノートの束、部屋の隅に積んである解き終わった問題集の山、不合格になる度に自分を慰めてくれた家族の姿が、次々に視界に映っていく。


「どうした?こちらは質問してるんだぞ。」


「…校長先生です。」


僕は体中から声を絞り出す。


「少し違う、減点だ。も含まれる。」


一本取ったと言わんばかりに顎が上がり、こちら見下すような目線のまま、彼は話を続ける。


「目上の者に反抗して何になる?そして何をしたい?君はわざわざ県外から来て、貴重な人生の一年を棒に振りたくないだろう?もっと利巧になりたまえ。」


三度目の試験のあと、狂ったように採用倍率が高い地域を調べ、今いる地域を見つけたときの安堵感。

家族や昔から世話をしてくれる人たちと離れた日の、身を刻まれるような感覚。

院生時代ぶりにこちらに戻ってきた、あの日の決意が一気に湧き上がってくる。


「どうした?イエスかノーか、しっかり答えなさい。」


僕は今まで現実味のなかった、間近にまで突き付けられた四度目の『不合格』に言葉が紡げなかった。

心臓をがっしりと掴まれているかのようで、締め付けられた胸が苦しかった。


もちろん想定していなかったわけじゃない。

初めから『余計なことをするな』と釘を刺されていた。

水内に対峙せず、そこと繋がっている生徒たちにも接触しない。

職員室の雰囲気に従い、行動も起こさない。

手を引くタイミングはいつでもあったのだ。


(でも、それでは…。いや、だが・・・。)


「まあ、いい。今日のところはこれで良し、とするか。君が大人として、組織人として、真っ当な判断が出来ると信じているよ。いつまでも半端者なんて君も嫌だもんな。」


校長はソファから身を乗り出して、慰めるように僕の肩を叩く。

重く、そして余りにも粗雑な叩き方だったので、僕はその衝撃と不快感で正気を取り戻した。


「君にも分かる日が来る。平穏な学校というものがどれほど素晴らしいか。生徒が誰一人として問題を起こさず、全生徒が礼儀正しい。最高じゃないか!私はこの学校で定年を迎えることが出来て、本当に幸せだよ!」


校長の抑揚たっぷりに、そして感慨たっぷりに勝ち誇る。


『不愉快』、それ以外の感情が浮かんでこなかった。


「話は以上だ。出て行きなさい。」


言いたいことを言い終えたのか、はたまた興味を失ったのか、校長は無造作に言い放つ。


(お互いに離れる口実が出来て結構だ。)


僕は気合をいれるため、ぱしんっと音が出るほど強く両膝を叩く。

その勢いのまま立ち上がると、僕は校長室から素早く退散した。

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