第20話 前進(1/1)

「氏子先生が辞めることになったのは、私のせいなんです。」


目を真っ赤にした河津が呟く。


彼女は今、左隣に座っている小日向にもたれかかっている。

小日向も満更ではない様子だ。

ときより河津の頭を撫でているが、このシチュエーションで頭を撫でるのが正解なのか僕には分からない。

撫でられている当人は何のリアクションも示していないので、不快ではないのだろう。



僕らは榎田先生の用意した椅子に座り、河津の話を聞いている。


「掴み合いの事件の後、私は先生を元気づけたくて色々なことをしました。学級日誌もその一つです。自分がされて嬉しかったこと、小学校の時に教えてもらったことをどんどんやっていました。」


「授業を褒めるのもその一つか。」


「はい。初めて授業の質問をしたとき、たくさん準備をしているからと言ってました。だから、自分が一生懸命やったことを褒められるのは、絶対に嬉しいと思ったんです。」


彼女は二年前を思い出しているようだ。

懐かしむように笑っている。


「確かに氏子先生の授業は分かりやすかったよ。板書も見やすかったし、話も論理がきっちりしてた。数学トリビアなんてのも、私には面白かった。」


後藤は窓の外を見ながらコメントを付け足した。


「後藤さんの言う通りです。ちゃんと聞けば分かるのに男子たちは…。とにかく、私はあの状況の先生を助けたくて、出来ることなら何でもしてあげたかった。」


前のめりになって彼女は後藤に同意する。


(もしかして、この子も少し暴走気味だったのか…?)


「監督の先生が付いて少し経った頃です。水内…先生に声をかけられたのは。」


保健室に緊張が走る。

緩んでいた隣の小日向の眼が、一瞬にして鋭いものになった。


「『氏子先生とクラスを良くする相談をしたいから、一年三組の事を教えてくれないか』と声をかけられました。今思うと私、馬鹿みたい。」


「成績を条件にする、と言ったことではないんだな?」


「はい。今言った通りです。私は氏子先生が楽になるならと思って…。」


隣にいた小日向の表情が少し緩んだ。


「具体的にどんなことを?」


「基本的にあの人の質問に答える形でした。仲の良いグループと悪いグループ、成績が良い人と悪い人、クラスで積極的な子と消極的な子、氏子先生を嫌っている子、学級委員の二人の様子に…。」


「そのうちの一人が金井さんか。目をつけられていたのね。」


榎田先生が悔しそうな声を出す。


「氏子先生の授業が表面上落ち着くに従って、あの人から人間関係について詳しく聞かれることが増えていきました。そして…。」


彼女は一呼吸おいた。

喉を湿らせたのか、喉が少しだけ動く。


「私は報告してしまったんです。クラスでいじめが起きていると。」


「そんなっ…!」


後藤が今まで聞いたことのない動揺した声を出す。


「どうした、後藤?何か心当たりでもあるのか?」


「なんでもない。ごめん、続けてー。ハハハハハ…。」


彼女は雑に笑って取り繕うと、窓の外から視線を外し、俯いて考え込み始めた。


「年が明けてから、先生の表情は以前よりも暗くなっていました。だから私は心配だった。そんな時、放課後の教室で偶然見てしまったんです。源君たちがいじめをしてる所を。」


「源君って、あの源和平か?」


「はい、彼と彼のグループでした。教室で一人をみんなで叩いて笑っていたんです。相手の子は痛い、痛いって叫んでました。」


「ゲンペイがそんなことを?」


小日向は信じられないと言った様子で頭を捻っている。


「私はあの人に報告しました。そうしたら…あの人はいじめの話を使って、氏子先生を辞めさせようとしたんです。」


河津の小さな拳が固く握られた。


「あの場所で、先生に酷いことを…。」


女の体が強張る。

すかさず小日向が肩を強く抱いた。


「進路指導室か。…君は偶然聞いたってことで良いんだよな?」


「はい。部屋の中から大きな音がしたので、私はその場にしゃがみ込んだんです。だけど、中の様子が気になって…。」


「いつ水内さんって気づいた?」


「始めは分かりませんでした。でも、あの人が一度だけ廊下に出てきて、放課後に残っている子を注意したんです。その時の声で気づきました。」


「分かった、ありがとう。辛かったな。」


河津は無言のまま小さく頷いた。

だが、彼女はそこで止まらなかった。


「私…先生がお休みしても、きっと戻ってきてくれると思ってました。先生は教師の仕事が好きって言ってたから。でも、戻ってこなかった。始業式であの人が氏子先生は退職したって言ったとき、私、気が狂いそうになって…。」


河津の体が再び強張った。

外側から押しつぶされるように彼女の体が縮みこむ。


「郁久乃ちゃん、思い出さなくていいわ!大丈夫だから!」


榎田先生は彼女に駆け寄り、小さな手を包み込むように握る。

同時にゆっくりと呼吸するよう指示した。

隣にいた小日向は、呼吸を落ち着ける河津を不安そうに見つめている。

後藤は人差し指を動かしつつ、ずっと何かを考え込んでいた。


「大丈夫か、後藤。話に引っ掛かることでもあるのか?」


「ううん、ちょっと話をまとめてるだけ。だから、私のことは放っておいていいですよ。」


そう言われては従う他にないので、僕は再び目の前の光景に目を向ける。

河津は落ち着きを取り戻したようで、榎田先生を席に戻した。

そして、彼女は小日向櫻子に向き合う。


「櫻子ちゃん。私、小学校の頃あなたに助けてもらったみたいに、氏子先生を助けたかった。でも、駄目だった。それどころか先生を辞めさせるきっかけまで作ってしまった。それが悔しくて、本当に悔しくて…。

途中から声が震えて、最後には声が掠れてしまっていた。


「ごめんなさい。酷いこと言って、傷つけてしまってごめんなさい。」


彼女の目から涙が止めどなく流れる。

それは頬を伝い、雫となって、足元にぽたり、ぽたりと降り注ぐ。


「大丈夫だよ…、私は大丈夫だから。私こそごめん。郁久乃の気持ちを考えるなんてしたことなかった…。無神経な私で本当にごめん。」


お互い涙を流し、泣きながら何かを言っているが、もうぐちゃぐちゃになっていて、言葉ははっきりと聞き取れない。

ただ、二人の仲が結び直されたことは間違いなかった。

僕はほっとして、榎田先生を見る。

すると、彼女なぜか自信を持って頷いた。

何かの合図と勘違いしたのだろうか。


「よしっ!お茶にしようか!」


思わず椅子からずっこけそうになった。

そういう意図ではなかったのだけれど。

しかし、今まで泣いていた二人は笑っている。

今まで緊迫していた保健室の空気は、間違いなくほどけていった。



「まず鷹村君、昨日はお疲れ様でした。あの子たちが近くにいるから、詳細は聞かないけれど。」


三人娘はお茶菓子争奪ジャンケン大会の真っ最中だ。

以前だったら河津が遠慮していそうなものだが、見事に三人で楽しくジャンケンをしている。


(おっ、早速小日向が一人負け。)


また随分と悔しそうなリアクションだ。

唸りながら負けた腕を上げるやつがあるか。


「ありがとうございます。流石にあれは気づきますよ。ところで、榎田先生じゃ駄目だった理由って何です?」


彼女は銀縁の細いリムの眼鏡を光らせ、悪戯っぽく微笑む。


「理由は三つ。まず、私は自分に降りかかる理不尽に徹底的して戦うタイプだから。次に、彼は私みたいなおばさんに尻を叩かれても、やる気になるタイプではないから。最後に、私は負ける者の気持ちが分からないから。」


二つ目の理由は置いといて、それ以外は勝ち気そのもので思わず口笛を鳴らしたいくらいだ。


「それでも子どもは別よ。そうでないと、この仕事やってないしね。少なくとも法律上の大人までは、理解しようとする気持ちとテクニックで頑張るわ。」


「そうですね。金井あすかのときもそうでした。」


あの怒り狂った金井を鎮めた手腕は見事としか言えない。

僕も教えて欲しいくらいだ。


「だけど、正直一番難しいのは愛しい我が娘ちゃんかなー。あの子、人間が出来すぎてて逆に怖いのよ。」


「え!先生、娘さんいるんですか⁉」


「ほら、これ。榎田家自慢の娘ちゃんです。」


先生のスマホには、天然茶髪で彫りの深い東欧系の美人が映っていた。

それも隣には榎田先生がいて自撮りスタイルだ。


「可愛いでしょ。今、高校二年生なの。」


「高二って、先生!」


(榎田先生も若々しすぎるし、ハーフの娘って。また情報が増えた!)


「二十五の頃、その子の父親と海外ボランティアの現場で出会って、仕事が終わったらそのまま相手の国に行ったの。そのうち妊娠が分かったんだけど、伝えたらあの男動揺しやがってさ。私、その場でブチギレてそのまま別れちゃった。」


先生は、さらりととんでもない過去話をする。


「先生、待ってください。情報量が多い。」


「当然のように両親には呆れられたんだけど、産まれてみれば初孫だから、両親はもうベタ惚れよ。上の兄貴二人もそれぞれ結婚するまでベッタベタ。みんな揃って英才教育するんだーって騒ぎ立てる始末でさ。あの子、今では英語に加えてドイツ語に、あと一つくらいはそれなりに…。」


「先生、だから情報量が多いです。」


先生とその親族の属性が渋滞している。

それも雪崩のように次から次へと情報がやって来て、文字通り止まることを知らない。


(榎田一家、どうなってるんだ…。)


どうやらまだまだネタがあるらしく、先生は喋り足りない様子だ。

家族と娘さんの話をしている時、先生は本当に幸せそうな顔している。

目の奥が幸福で満たされているのだ。

一つあやかりたいところだが、そろそろ真面目な話に戻しておきたい。


「ところで、今回分かった水内の件ですけど…。」


僕は出来る限り声のトーンを低く抑えて、話題を切り替えた。


「パワハラってことでお友達に打診してみていいかも。あと丙さんの件も、何かしらのハラスメントよね。」


この辺りは鍋島に相談だ。


「学校というか、校長はどの程度関知しているんでしょうね?」


「それは校長に聞いてみないと分からないよ。その辺は協力してもらうしかない。」


協力か。

そもそも校長にどう接触するか、上手くタイミングを合わせて有無を言わさず直訴するか?


「先生は話にあったいじめの報告書って、提出されたと思います?」


彼女はデスクに肘をつき、頬杖をついて悩み始めた。


「分からない。私が以前聞いたのは、あくまで『らしい』のレベルまでだから。ただ、水内君が嘘の報告書を作成していて、そのまま校長に提出してたら楽なんだけどね。」


「確かに。でも、そんな危ない橋を渡ることはしないでしょうね。」


「そうだね。彼の本来の性格がどうかは知らないけど、少なくとも能力的には優秀だし、その辺の判断能力が欠けているとは思えないな。」


自分から離れたところに、あの男が客観的な証拠を残すとは思えない。

寧ろ証拠を残してくれたら、僕はトラップを疑ってしまう。


「先生が探してくれた過去の業務記録はどうします?」


「既に大した意味は持たないでしょう。大きなネタも出来たことだしね。でも、記録媒体に残っているって、何かと大事だから揃えておくよ。あなたのお友達の指示もあることだし。あっ、智代ちゃんが負けた。」


壮絶なあいこの末、河津が一位、後藤が二位、三位が小日向となった。

二位の後藤は、河津の手が読みづらいと敗者の弁を連呼している。

そりゃあ、一年以上秘密を守ってきた女の子だ。

性格的に強かになっているのかもしれない。


「先生たちは何を話していたんですか?」


勝者の河津は、好きなお茶菓子を獲得してホクホク顔だ。


「大人の話よね、鷹村君。」


「ええ、大人の話です。榎田先生。」


「じゃあ、今はいいです。関わりたいときに関わります。」


その方向で行くのか。

少なくとも少し前と違って、気持ちにゆとりが出来たらしい。


「協力して欲しいときは、僕から連絡するよ。」


「はい!お力になれることなら。」


彼女は元気に返事をすると、再び子どもの輪の中に帰っていった。



憧れていた人のように出来なかったもどかしさ、出来なかった上に最悪の事態まで招いてしまった絶望と後悔。

河津郁久乃は小学生から中学生に環境が変わり、温めていたことに挑戦した結果、失敗した。

彼女の場合、おそらく思い入れが強すぎた。

失敗に付随したものも大きかった。

何より、関わることになった相手が邪悪過ぎた。


しかし、相手にするだけの手札は十分こちらにある。

あとはどのように手札を切っていくかだ。

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