第19話 氷解(1/1)

視線を感じない。

これが今朝の職員室の違和感だ。

目の敵にされているといった敵意も、見張られているといった類の視線もない。

急に無関心になった?

それとも避けられているのか?

必ず声をかけてくる中道先生も本日は時間ギリギリに出勤しており、職員室全体から纏わりつくような不気味さが感じられた。



「これじゃあ事実上の貴重品袋係じゃないか。」


朝の打ち合わせの後、後藤が三度貴重品袋を持ってきた。


「いやー、ここで喋るのが楽しくなっちゃって、ついついね。鈴ノ木先生は何とも言えない顔してたけど。」


(あの人、丙の一件で分かったけれど『モトサン』をよく思ってないからな。)


「楽しいと言われると、こちらも悪い気はしないよ。ねぇ、大隈先生。」


会話に入りたくて、ちらちらと僕らの様子を伺っていた大隈先生に声をかける。

好きに加わっていいのに、本当に律儀な人である。


「先生も嬉しいぞ。後藤の話は聞いていて面白いからな。特にファッションの話。」


自分のサイズの服がないのでお洒落に縁遠かったところ、子どもが両方とも男子のため、どうしてもその方面に疎くなってしまったらしい。

『ファッション』のアクセントも、どこかぎこちない。


「えー、それなら流行の事までバンバン話しますよー。」


二人で盛り上がり始める前に、僕は後藤を手招きして耳を貸してもらう。


「小日向に伝えてくれ。今日の昼、保健室に来いって。」


彼女は僕の顔をじいっと見た後、何も言わずにサムズアップをした。

続けて、大隈先生に耳を貸してもらう。


「昨日、氏子先生に会ってきました。お元気そうでしたよ。」


彼は驚きで目をまんまるに見開いている。

だが、その直後何かを言わんとしたため、僕は咄嗟に自分の口元に人差し指を当てた。

彼は両手で口を塞ぐと小声で謝罪し、「安心しました。」と小さく呟いた。


「鷹村先生、また疲れてませんか?ささくれ始めてますよ。」


「そうか?確かに今日は疲れてるかもな。気にしてくれてありがとう。」


僕は「頼んだぞ」と、小声で後藤を送り出す。



「鷹村先生、どうやって氏子先生に会ったんです?」


大隈先生がこちらの席に回ってきて、僕の隣にちょこんとしゃがみこんだ。


「中道先生が教えてくれたんです。メモに今の勤め先を書いて。」


「ははぁ、中道先生なら間違いないですね。不思議な方ですから。」


(そういう認識でいいのだろうか。とにかく、今日の昼が勝負だ。)


一日の始まりを告げるチャイムが鳴った。



部員への指示出しを終えて保健室前に行くと、北側昇降口で小日向と後藤が待っていた。

僕はまずげんなりとした表情の後藤に声をかける。


「どうした後藤?というか、後藤まで来なくてよかったのに。」


「そんな殺生な事言わないでよ、先生。乗り掛かった舟ってやつ。」


そう言うと、彼女はムッとした表情で僕の目の前まで駆け寄り、いきなり裏拳で僕を小突いてくる。


「それより先生。櫻子どうにかしてよ!さっきから不気味で仕方がないんだけど!」


小日向の様子は、尻尾をぶんぶんと振って『待て』に耐える犬を思い出した。

やっぱりこいつは柴犬だ。

どことなく表情も浮かれているというか、期待に目を輝かせているというか。

耳でもあれば、きっと小刻みに動いているところだ。


「気分が良さそうだし、放っておいていいんじゃないか。でも、そろそろ切り替えてくれると助かる。なあ、小日向。」


「はい、先生!」


小日向は浮ついていた気分を一瞬で切り替え、動画撮影の時に見た真剣な顔つきになった。

だが、猛烈な勢いで動いている尻尾が未だ見えるのはなぜだろう。


「基本的なことは僕がやる。と言っても、ほんの少ししかないけどな。それが終わったらフォロー頼むよ。」


二人とも同時に頷いた。

小日向の表情は変わらないが、後藤は少し緊張しているようだった。

僕の意図を感じ取ったのか、小日向の雰囲気がゆっくりと治まっていく。


「大丈夫。僕に出来ることなんて、ほんの少ししかないんだ。」



保健室には、窓際の河津と榎田先生の二人だけ。

照明で明るく照らされた、よく物が整理してある保健室。

外光を取り込みやすくするため窓が多く、外には練習をしているサッカー部の様子が見えた。

本日の空模様は、ここ数日の天候が嘘のように晴れ渡っている。


(さて・・・。)


「どうしたんですか、鷹村先生。何だかカルガモの親子みたいですね。」


真顔の河津は早速辛辣な言葉を浴びせかける。


「違いないな。河津、伝えたいことがあって来たよ。」


彼女は僕をきっと睨んだ。

もう少しで声を上げて威嚇しそうな様子だった。


一方、榎田先生はじっと僕を見つめている。

握られた拳にはかなりの力がかかっているようで、手の甲にうっすらと筋が見えていた。


「意味が分かりません。この前は後ろにいる人との出来事であって、先生は関係ないですよね?」


「そうだな、関係ない。でも、大事なことを伝えに来た。君にとって。」


僕は丁寧に深呼吸して、大きく間を取る。



「氏子先生から伝言だ。」



名前を聞いた途端、敵意に満ちていた少女は大きく目を見開いた。

その瞳には明らかな動揺の色が浮かんでいる。


『僕はあなたに助けられていました。ありがとう。そして、あなたの期待に応えられなくてごめんなさい。』


部屋に存在するすべての物が止まった。

目の前の少女でさえも。


「…そんな嘘、つかないでください。一体どんな権利があって、私に嘘をつくんですか?人の気持ちを弄ぶのもいい加減にしてください!」


紛れもない彼女の心からの叫び。


「昨日の夜、氏子先生に会ったんだ。その時、一年三組で何があったのか全部聞いたよ。氏子先生がどんな思いで教卓に立って、どんな思いで生徒に接して、失敗して、後悔して…。」


「やめて!そんなこと聞きたくない!」


「掴み合いの事件の後、クラスの雰囲気が変わってしまったことも聞いた。それが先生にとって辛かったことも。」


「だからもうやめて!」


彼女は椅子がどうなろうともお構いなしの勢いで立ち上がり、僕の言葉を退けようとする。


「だけど、君の存在が教師を続ける理由だと言ったんだ。救われていたって言ったんだよ。」


次に口を開けば飛び掛かってやる、と言わんばかりの勢いが彼女から消えた。

そして、焦点も定まらないまま立ち尽くす。


「授業を聞いてくれて嬉しかった。質問をくれて嬉しかった。学級日誌にぎっしり書いてくれた君の言葉が、本当に嬉しかったって。」


「そんなの嘘です。作り話です。そんな………。」


「君から貰ったものを返せずに辞めてしまったって、ひどく後悔していた。ずっと君に謝ってたよ。」


「私…せい…です。…先生が………ることなったのは。」


声が掠れて聞き取れない。


(私のせい…?話の限りでは河津が原因になることなんてないはず…。)


「ここまで僕が喋ったけど、正直、信じられないだろ?だからこれを。」


僕はシャツのポケットから、折りたたんだ一枚の紙を取り出す。


「真夜中に先生からメールが届いたんだ。君に渡してくれって。僕は印刷しただけで読んでない。氏子貴文先生から河津郁久乃宛の手紙だ。」


そっと手前に差し出した手紙を、彼女はおそるおそる受け取る。

手紙を開くその手は小刻みに震えていた。

ここから先、どう転ぶか僕には分からない。

保健室の空気が張り詰めていた。

息苦しいと感じるほど、何らかの圧力がかかっていた。

喉が渇いているが、つばを飲むことすらできない。


くしゃり


紙の端が折れ曲がる。


「ごめんなさい…ごめんなさ……ごめん………。」


絞り出された声が徐々に大きくなるが、どんどんぐちゃぐちゃになっていく。

河津は端の折れ曲がった紙を抱きしめ、膝から崩れ落ちた。


「私は、私は…。」


「郁久乃!」


小日向が飛び出し、彼女の側に駆け寄る。

河津は小日向を見ると、頭を彼女の肩に当て、堰を切ったように泣き出した。

どうやら小日向も一緒に涙を流しているが、見なかったことにしてやろう。


榎田先生を見ると、眼鏡の奥が潤んでいた。

彼女は僕の視線に気づくと、微笑みと共に膝の上で小さくサムズアップをしてくれた。

僕がそれに笑顔を返していると、後ろから後藤に小突かれた。

振り返っても小さく何度も彼女に小突かれた。

笑顔でいることだし、ここは褒めていると受け取ろう。


もう少しこの光景は続きそうだが、たぶんこれで良かったのだろう。

河津も氏子先生も、これで少し前に進めたなら良かった。

『止まっていた時間が動き出した』ってやつは、こういう光景を言うのかもしれない。

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