第15話 噴出(1/1)

「いやぁ、小日向さん凄かったですねえ!」


翌日、大隈先生は小日向の起こした騒動について興奮気味だった。


「本当に良い脚力だ。それに華がある。」


どうやら昨夜、運動部の顧問内チャットで話題になっていたらしい。


「陸上部の宇佐うさ先生は二階で目撃したそうなんですが、注意するのも忘れて見惚れてしまったらしいですよ。兼部でも良いからと声を掛けておくべきだったと後悔してました。」


「小日向は一応マネージャーですから、声を掛けてみればよかったのに。」


「彼女には一年生の時の件があって、簡単に声を掛けられなかったんですよ。今は転任された当時の顧問と水内さんが、職員室の雰囲気を一気に作ってしまいましたから。」


「本人と部員から聞きました。あいつ、かなり無茶をしたんですね。」


木塚が小日向の様子に涙ぐむほどの事件。

いつか真相を聞ける日が来るのだろうか。

それほどまであの二人の信頼に足る顧問に成れるだろうか。


「あの件は、僕の責任でもあります。同じ武道場を使っていながら、上の階で起こっていた生徒の様子に気づけなかった…。」


大隈先生はがっくりと肩を落とす。

『そんなことない』、僕の言葉が喉まで出かかった、その時だ。


「鷹村君、昨日は面白そうなことしていたじゃない?」


ぐっと一瞬呼吸が止まるのを感じるのと同時に、鼻をくすぐるハワイアンフレーバーコーヒーの香り。

後ろから中道花子なかみちせんせい

本日は、南アフリカ共和国の国旗のようなプルオーバーシャツだ。


「あれはですね、はい…。言い訳の仕様もなく、僕の監督責任です…。」


「駄目よ、生徒に危ないことさせちゃ。誰かが怪我をしてからじゃ、遅いんですからね。」


僕は平謝りするしかなかった。

お白洲であれば、土下座している。


「でも良かったわねえ。昨日は校長も教頭も、ついでに水内君も午後から出張で。」


「おっしゃる通りです。」


彼女はつい口に出てしまった僕の発言を、軽い拳骨で諫める。


「うるさいのがいなくて助かったわ。特に皿屋敷教頭のほうね。彼はあれが賢い手段だと思っているから困るわ。」


「その代わり、今朝出勤してから他の先生の視線が痛かったです。まさに針の筵でした。」


「一部は大盛り上がりでした。」と大隈先生が笑顔で付け足す。


「とにかく危険なことしちゃ駄目よ。世間一般の基本的なルールは必ず守りなさいね。」


おほほほほほ、と手をぷらぷらと振って、中道先生は自席に戻っていった。


「ところで鷹村先生、僕にも手伝えることがあれば言ってください。力になりますよ。」


大隈先生は向かいの席から身を乗り出し、僕だけに聞こえる声で言った。


「気づいてましたか。でも、先生にこれ以上迷惑をかけるわけには…。」


「良いんですよ。一緒に警察にご厄介になった仲じゃないですか、今更です。」


彼は言い淀む僕を温かい笑顔で一蹴した。


「では、何かあったときはよろしくお願いします。いっそのこと今度はブタ箱まで。」


「妻と子がいるので、そこは勘弁してください。」


僕らはガハハと笑い合って、互いの拳を合わせた。



昼は恒例となった部活の時間だ。

特殊な形ではあるものの、これが日常になっていることに少し違和感があるが、部員は元気そのものだった。

ただ一人を除いて。


「先生、今から保健室について来てくれませんか?」


昨日、様子がおかしかった小日向がいつになく真剣な顔で話しかけてきた。


「僕は問題ないけど…、指導はいいのか?」


「英美里に任せてあるので大丈夫です。」


僕らは木塚に後を頼み、保健室に向かう。

その途中、今にも降り出しそうな鈍色の空から冷たい空気が吹き下ろされ、嫌に肌寒いものを感じた。



保健室の前に着くと、小日向は目を瞑り、呼吸を整えた。

まるで一勝負する前であるかのように。


「櫻子ちゃん、先生。こんにちは。」


保健室には、いつもと変わらない河津郁久乃がそこにいた。

ボブカットで背が小さく、目がくりくりとした、リスを思い起こさせる、所謂小動物系の女子生徒。

一見どこにでもいる中学三年生だが、誰かが辛いときには心を寄せる優しい少女。

彼女は昼食を食べ終えて、片づけをしているところだった。


「榎田先生なら、お散歩に行ってますよ。」


にこやかに微笑みかけてくれた彼女だが、僕らの、いや、小日向櫻子の異様な雰囲気にすぐ気づいた。


「どうしたの、櫻子ちゃん?」


小日向は答えない。

保健室に入る前に呼吸を整えていたのに、この場で同じ動作を繰り返している。


「先生、櫻子ちゃんどうかしたんですか?」


「河津、あのな…。」


小さく手が震えている小日向の覚悟が決まるまで、僕は場を繋ぐ。

目の前の河津はおろおろと小日向と僕を交互に見ている。


「昨日、金井あすかが言ってたの。二年生の春に欠員が出たから、自分は密告係になったって。」


腹の底から絞り出すような声だった。

だが、先程見られた小さな震えは声から感じられない。


「それを聞いた時、郁久乃がクラスに顔を出さなくなったのって、二年の春ってことを思い出したの。」


目の前の小さな女子生徒の瞳から、突然感情を無くなったかのように光が消えた。


「一時期、郁久乃が学校に来なくなったのって、始業式の後だったよね?」


「そうだよ。」


彼女の声は平坦そのもので、何の感情も感じさせない。


「郁久乃は一年三組だったよね?」


「そうだよ。」


彼女は少し俯く。

何かを隠しているのか?

それとも、ただ僕らを見ないようにしたのだろうか?


「…郁久乃は密告係だったの?」


小日向の声が、微かに震えた。


「そうだよ。でも…、関係……。」


俯いた少女の声はボリュームが一気に絞られたかのように、聞き取ることが出来なくなった。


「今、なんて…?」


「櫻子ちゃんに関係あるの!?」


絶叫にも似た声が部屋中に響き渡る。

あまりに予想外の出来事に、僕らは言葉を失った。

普段から大声を出し慣れていないのだろう、河津郁久乃の呼吸が乱れる。


「あなたには関係ない!あのクラスの子じゃないんだから!外から見てた人に何が分かるの!私の何が分かるの!卑怯者の私のことなんか!ズルい私のことなんか!」


彼女の感情の堰が切れた。


「だから私は、郁久乃の力になりたくて…。」


「自分が何でもできると思ってるの?自分ってすごいと思ってるの?昔から悪者を一人で勝手にやっつけて、一人で勝手に満足して!助けられたほうの気持ちって考えたことある?ないよね?あなたはそんなこと、考えたこともないよね!」


顔を真っ赤にする河津と対照的に、小日向は真っ青になっていた。


「どうしたの、郁久乃ちゃん?外まで声が響いていたけど。」


榎田先生が開けたドアをめがけて、呼吸を荒くした興奮状態の河津は走り出す。

僕らを顧みることなく、一直線だ。


「ちょっと待て、河津!」


僕の静止を振り切り、榎田先生の脇を刷り抜け、彼女はどこかに行ってしまった。


「ちょっと、鷹村君。説明!」


右手で頭を抱えた先生は、僕に鋭い口調を向けた。


「先生、僕はあの子を追います!説明は後で。」


「待って!郁久乃ちゃんにはこっちで話を聞いておくから。その前に状況説明と、…櫻子ちゃんの介抱を手伝って。」


振り向くと、時間が止まってしまったように呆然と立ち尽くす小日向櫻子がそこにいた。


(しまった…。この子の様子を見てたら、真っ先に傷つくのはこの子だろうが…。)


僕は先生の指示に大人しく従った。



「状況は分かったわ。でも、郁久乃ちゃんがあんな形で爆発するとはね。」


「すいません。呆気に取られて反応できませんでした。」


僕は深々と頭を下げる。


「仕方ないわ、あの状況で反応できたら人間じゃないもの。」


先生は肩をすくめると、心が抜け落ちた小日向を見る。


「櫻子ちゃん、具合どう?」


小日向の手には、先生が作ったチャイの入ったマグカップが握られていた。

ゆっくりと揺れながら立ち昇る湯気とは対照的に、彼女は未だピクリとも動こうとしない。

目は虚ろそのものだ。


「…教室に戻ります。ここは郁久乃の場所だから。」


言葉とは裏腹に、動く意思が感じられない。

その様子を見た先生は大きくため息をつく。


「それがいいわ。一度、心の整理の時間を取りましょう。鷹村君、それでいい?」


僕は何が正しいのか判断がつかないので、言われるがままに従う。


「それと、授業が終わったら保健室に来て。話しておきたいことがあるから。」


「分かりました。小日向、昼の授業までもう少し時間がある。ここで先生の指示に従いなさい。僕は武道場に戻って、部員に指示を出してくるから。」


「…はい。」


魂が掠れ切った声を聞いて、僕は保健室を出た。



渡り廊下に出ると、いつの間にか雨が降り出していた。

雨は水はけの悪い体育館と武道場の間に、薄っすらと水たまりを作るほど降っていたらしい。


「鷹村先生、櫻子ちゃんは…?」


予鈴と共に部員が片付けを始める中、木塚がおずおずと心配そうに尋ねた。


「今は保健室の榎田先生とお話し中だよ。ちょっとダメージ食らってるから、何か話したらそのまま話を聞いてやってくれ。」


「ダメージ?本当に大丈夫なんですか?それに私に出来ることは…?」


「木塚部長に任せる。無責任な言い方だけど、長年一緒にいた木塚のほうが、僕より小日向の扱いを分かっているだろ?」


「それは…確かにそうですけど。…荒っぽくなるかもしれませんよ?」


予想外の回答に、僕はむせてしまった。


「笑わないでくださいよ!でも、分かりました。私、やります。」


「頼んだぞ、部長。」


力強い返事と共に、木塚の瞳に火が灯った。



授業後、僕は細かい用事を済ませて保健室に行く。

ドアを開けると、今まさにお茶の支度が済んだところらしく、あとは招待客が席に着くのみとなっていた。

榎田先生は本当に読みが鋭い。


「いらっしゃい。まず、郁久乃ちゃんは気分が悪いってことで早退したわ。」


「でしょうね。原因が分かっているだけに少しズルいですが。」


榎田先生は肩をすくめて同意した。


「次に、櫻子ちゃんはあなたがここを出た後、一通り泣くだけ泣いて教室に戻りました。あの子がちゃんと泣くための時間を作ってあげた判断に、私から花丸をあげちゃう。」


「偶々ですよ。あの子に何が出来るのか、僕には全く分からなかったんですから。」


「最後に、丙さんから言伝があるわ。ついさっき顔を出してくれたの。」


「元気そうでしたか?」


「顔色は良くなっていたわ。メンタル面もあの日よりは回復したって感じ。」


僕は胸をなでおろす。

あの日、泣くだけ泣いて、言葉を吐き出すだけ吐き出した効果があって何よりだ。

八つ当たられた甲斐がある。


「それでね、『のために無茶しないでください』だってさ。」


「『』、ですか。」


僕は一瞬感情が沸きあがったが、深呼吸でそれを処理する。


「無茶の範疇に入ってないので、自由にやらせて貰います。」


「おっ、鷹村君も分かってきたね。楽しくなりそうだ。」


先生はワクワクが抑えきれていないようだ。


「でもね…まずは、と。」


彼女は全てを切り替えるように大きく拍手をした。


「情報のすり合わせしようか。鷹村君は郁久乃ちゃんのこと、一年三組のことをどれだけ知ってるの?」


「河津のことは、保健室登校ということだけ。一年三組については、小日向から学級崩壊したってことを大まかに聞いてます。」


「分かった。私は以前も言った通り、情報を制限されているっぽいから、すべてを知っているわけではないの。だから、知っている情報ことだけを話すね。」


僕は同意する。


「流れを考えると、初めに一年三組のことから話そうか。当時の一年三組の担任は、氏子貴文うじこたかふみという先生だった。彼は新卒の数学の先生で、その年度の末に体調を崩して退職してる。」


「一年で退職ってそんな…。」


「希望に満ち溢れた新卒の先生が、一年で退職って悲しい話よね。だけど、ホームルームや授業が成立しないレベルの学級崩壊が、ちょうどこの時期に起きたの。」


「小日向から中心人物の一人は、源和平という生徒だと聞いてます。丙紗耶香や金井あすか、特に金井あすかは昨日の様子だと、巻き込まれた側みたいですね。」


「金井さんは完全に巻き込まれたって言ってたわ。あと、昨日の話しぶりから後藤さんもそうみたいね。」


「最後に河津。河津郁久乃も一年三組。」


先生は強く頷いた。


「でも、少し話を本線に戻すね。学級崩壊が起きてから、すぐに対策が取られた。氏子先生が一年三組の前に出る時は、監督の先生が付くようになったの。」


「それなら、体調を崩して退職までいかないんじゃ?」


「でも、そうはならなかった。一度だけ、氏子先生が相談に来たことがあるの。秋頃にね、『生徒が心を閉ざしてしまった』と言ってた。そして、何度も『僕のせいだ』とね。」


自分が同じ立場に置かれたどうすればいいのだろう、考えるだけでも眩暈がしそうだった。


「あとは…一月頃だったかな、一年三組にいじめが起きてるって疑惑が上がったの。この結果は私には分からないけど、その直後に氏子先生は体調を崩している。」


「そして、退職…ですか。」


先生は小さく頷くと、紅茶とクッキーに一口つけた。


「それで、河津はどういう経緯でここに?」


彼女はクッキーの包み紙を丁寧に折りたたむと、椅子に座り直す。


「郁久乃ちゃんは、二年生のゴールデンウィーク後に保健室登校になったの。教室が怖いって理由でね。体調が悪くなったのは始業式の当日だった。過呼吸でここに担ぎ込まれたの。」


「過呼吸って、始業式に何か事件があったんですか?」


「何もないはずよ。集まって、話聞いて、ハイ終わりのどこにでもある始業式だから。その前にあるとしたら、クラス分けくらいだよね。」


「一緒になりたくない元一年三組の生徒モトサンでもいたんでしょうか?」


「可能性は捨てきれないけど、一年間同じクラスでも我慢できた生徒が、二年生になったら急に体調を悪くするかしら。」


「難しいところですね。その後はどうなったんです?」


「郁久乃ちゃんは当面自宅で療養ってことになった。あとは親御さんと学校側で話し合いが行われて、妥協案的にここにね。」


「教室が怖いなら、保健室ではどうだってことですか。」


「そういうこと。問題になるのを恐れた学校側が提案したみたい。まだ義務教育の範囲だから、学校を完全に休ませたくなかったんだろうね。親御さんは問題が解決するまで、学校に行かせたくなかったみたいだけど。この辺りは郁久乃ちゃんから聞いたわ。『お父さんとお母さんが必死になって守ってくれた』って。その後は私が勉強見たり、お話したりの生活。あなたが知っている今の生活よ。」


「先生から見て、河津の気になるところはありますか?」


先生は顎に拳をつけて悩んでいる。

今までの記憶から回答をまとめているようだった。


「あの子、弟さんがいるのね。それだから『しっかりしなきゃ』とか『強くなりたい』みたいなことは常に言っているかな。あとは、櫻子ちゃんのこと。」


「一方的に小日向が懐いていると思っていましたけど、ちゃんと仲は良かったんですね。」


「『小学校の頃から助けられてる』、『あの子は強くて格好良い』とかね。ただ、鷹村君はその場にいたから分かってるだろうけど、郁久乃ちゃんが櫻子ちゃんにあれだけの感情を溜め込んでいるとは、正直思わなかった。完全に誤算だったわ。」


榎田先生は、右の人差し指でこめかみをぐりぐりと押し始めた。


「私、人に憧れるって感情が本質的に分からないからなぁ。勉強も運動も苦労しなかったし、今の仕事もテクニックと相手の気持ちに寄りそうって精神でどうにかしているから。」


「大丈夫ですよ。僕も心だけでもどうにかしようと思っているので。先生よりも圧倒的にスペック低いですけど。」


僕はフォローにならないことを承知で、自分の胸を軽く叩く。


「そんなこと言いなさんな。君は良い先生になると思うよ、このまま頑張んなさい。と、また脱線したね。ひとまず郁久乃ちゃんは、強さへの憧れがあるって感じかな?」


「その線は有りだと思います。小日向への怒りがそれっぽいので。」


「現状はそうと仮置きしておくとして、そうなると一年三組で起きたことを具体的に知っておきたいわね。」


「そうですね。生徒から聞ければいいですけど、最善はやはり退職した氏子先生から直接聞きたいところですね。」


彼女は大きく頷いた。


「でも、私は連絡先知らないからなぁ。だから、過去の保健室の業務記録から調べてみるね。氏子先生の記録があったはずだから、何かメモ書き程度でも書いてたかも。」


「お願いします。氏子先生の相談記録があれば、また思い出せることもあるかもしれないですし。」


「君のお友達の指示にも沿うから、他にも色々さらって調べてみるよ。」


「よろしくお願いします。あいつも数があればあるだけ仕事がやりやすいと思うので。」


「承った。」


先生はにっこりと快く笑った。


「丙や金井に加えて、河津のことも先生にお任せして、本当に申し訳ないです。」


僕は改めて深々と頭を下げる。


「そんなこと良いのよ。私はそのためにここで仕事しているんだから。なにより好きでやっている仕事だからね。」


彼女はさも当然と言わんばかりだった。


「代わりに、櫻子ちゃんはよろしくね。あなたにしか出来ないことがあるはずよ。」


真剣な眼差しが返ってくる。

僕は身が締まる思いで返事をした。

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