第13話 疾走(1/1)
午後の授業は三年一組と三年三組。
一組に小日向、三組に金井なので動きやすくて助かった。
一組の授業が終わると、小日向は一目散に教室を出て行った。
(号令は徒競走のピストルではないのだけれど…。)
廊下の話し声から、どうやら金井が教室から出たところを捕まえたらしい。
しかし、金井は取り付く島もないようだ。
「なんで他クラスの保健委員から呼び出しを受けなきゃいけないわけ?」
「いやー、純子ちゃ…じゃなくて、榎田先生があなたの落とし物を拾ったらしくて…。」
(嘘が下手か!)
「何やっているの?あのバカ。」
僕が一組の入り口で呆気に取られていると、普段はゆるい雰囲気の後藤智代が眉間に皺を寄せて僕の隣にいた。
「先生は櫻子に用?」
「いや、用はない。余りにも下手な嘘に頭を抱えているところだ。」
「あいつ、単純バカだからね。それなら要件は、金井のほう?」
「金井には…あると言えばあるんだが、僕からは声を掛けられない事情があるんだ。」
「ふーん。」
後藤は僕の顔をじっと覗き込む。
「私、次は移動教室だから。先生、じゃあね。」
何か得心したのか、彼女はすたすたと行ってしまった。
(話しぶりから小日向と知り合いなんだろうけど、雰囲気からして犬猿の仲か何かだろうか。)
「先生…。」
萎れた声に振り返ると、心中相手から海に突き落とされた後のような小日向がそこにいた。
『しょんぼり』という表現が、まさにと言わんばかりの雰囲気を纏っている。
「何なの、あの子。こっちが心を込めてお願いしてるのに…。」
本人は大真面目にやったのだから、こちらも馬鹿には出来ない。
「変に嘘をつかなくていいから、次は素直にお願いしてみなさい。」
「はい…。」
力なく返事をすると、彼女は教室に戻っていった。
「起立、気を付け、礼。ありがとうございました。」
「はい、お疲れ様でした。質問がある人は来てください。」
三年三組の教室を見渡すと、廊下側の席の先頭にいる金井は早々に鞄を背負い、帰ろうとしていた。
「先生、さっきの板書なんですけど。」
こういう時に限って、質問があるものだ。
僕は目の前の質問に答えつつ、思わず小日向に『急げ!』と念を送ってしまう。
「金井さん、ちょっとごめんなさい!」
すると廊下から、如何にも品の良いお嬢様のような声が聞こえてきた。
(一体何をやってるんだ、あの子は…。)
「さっきから一体何なのよ!小日向櫻子!」
「ちょっ、待ちなさいよ!」
不機嫌を煮詰めたかのような怒声が聞こえてきたかと思うと、いつもの小日向の声が廊下に響いた。
驚いて廊下に出ると、そこには怒りに震えて立ち尽くす小日向櫻子。
明らかな怒気を放っており、心なしか髪の毛が逆立っているようにも見える。
周囲には下校しようとする生徒が、彼女の間合いに入らないように、遠くから慎重に視線を送っている。
「もう、あっっったまきた!!!!!」
怒りに燃える少女は力強く駆け出した。
中央階段を下る生徒を威嚇して、空いた階段のスペースを
タッ、タッ、タッ!
と小気味良く翔け下る。
直後、着地点から波紋が広がるように鳴り響く衝撃音。
地面からの反作用は、バネのように力を貯めている彼女の脚を伝わる。
力が全身を伝い、彼女の長い黒髪まで伝わりきると、黒いしなやか総髪はその場に黒い残像を残した。
(いや、動きに目を奪われている暇はないだろ!)
僕は呆気に取られている生徒の隙間を抜け、慌てて彼女を追う。
タン、タッ!
二歩分の音の後に、不自然な音の空白。
最悪の事態が起きたのではないかと、僕は手すりから身を乗り出す。
すると、眼前には空を翔ける少女の後ろ姿。
幅跳びの選手が空中を歩くように、そして空力が働いているかのように濡羽色の黒髪が空ではためく。
すらりと伸びた両腕は階段の幅一杯に大きく広げられ、階下から見た景色はきっと鳥が着陸する寸前のように見えただろう。
僕の眼はハイスピードカメラになったように、一連の出来事を克明に捉えていた。
完全に魅入られ、数秒を何十倍にも感じていた。
数秒前の優雅さと対照的な着地音が再び階下に響く。
着地の衝撃を完全に逃がしきった少女は、すっと立ち上がり左を見据えてニヤリと笑う。
『ミ ツ ケ タ 。』
獣の鋭さを宿した両の眼が物語る。
『オン・ユア・マーク』
『セット』
まるで号令が聞こえているかのように、彼女は全身を低くする。
突然現れた三年生が、今まさに蹴り出さんとする二年生のフロアは、喧騒の真っただ中にあった。
憧れの先輩を見た歓声と、発散される怒気に触れた者の悲鳴、絶対服従の格上にする堅苦しい挨拶、世話になっている先輩への親しげな声掛けが、混ざりに混ざってカオスを作り上げている。
だが、そんな周囲の様子など露ほどにも気に掛けず、仮想の号砲を合図に彼女は疾走する。
床を思いきり金属バットで叩いたような衝撃音を出しながら、獲物がいる南側階段に一直線。
教室から生徒が出てきてもお構いなしに突っ込み、アメフトのランニングバック顔負けのステップで華麗に躱す。
僕は周囲に謝りつつ、必死に追い縋った。
しかし、南側階段に辿り着くと、またしても彼女は踊り場を通り過ぎようとしていた。
ちらりと一瞬だけ見えたその表情は、輝くような満面の笑み。
純粋に自らの運動能力の全力を楽しむ、一点の曇りのない笑顔だった。
ダンッ!
当然のことだが、一階も上と同じく騒然としていた。
上の階から上級生が、笑みを浮かべて降ってきたのだ。
先日の襲撃事件が記憶に新しいこの学校では、異常事態に恐怖を感じないほうがおかしい。
「先生、金井がいない!金井が消えた!」
目の前の南側昇降口と北側昇降口へと続く廊下を交互に警戒しつつ、小日向が叫ぶ。
「馬鹿…野郎。消える…わけない…だろう。お前…は速過ぎる…。」
僕の心臓は比喩表現などではなく、限界を通り越し破裂寸前だった。
聴覚の八割は心臓の鼓動で占められている。
運動の機会に恵まれない社会人の体たらくぶり、ここに極まれり。
「そんなこと言っている暇ないでしょーが。ここで行くべきは…北側昇降口!」
目標を定めると、放たれた矢の如く彼女は走り去って行った。
制服と共地の紺色ベストが遠ざかる。
猛スピードで走り抜ける彼女の姿を見た先生方は、注意する間もなくその場に固まっていた。
そんな彼女を僕は平静を装い、競歩のような姿で後を追う。
唖然としている先生方には、もちろん笑顔で会釈だ。
正直な所、明日のことを考えたくなかった。
「なんであんたがここにいるのよ!私、急いでいるの!」
前方の北側昇降口から、誰かを威嚇する小日向の声がした。
相手は、あの色の時計は…。
「先生、お疲れ様。この単純バカに付き合って大変だったでしょ?」
「ああ…、申し訳ないが、今は…気の利いたこと一つも言え…ない。フォロー…出来ない。」
心臓が飛び出そうな僕は、不機嫌そうな後藤智代の言葉をなんとか全肯定した。
「だから急いでいるんだってば。智代!あんた金井見た⁉」
「声がでかい。どうせ…。」
如何にも面倒臭いといった表情を浮かべた後藤は、僕たちが来たばかりの南側昇降口を指差し、次に僕たちのいる北側昇降口を指差した。
意味ありげな行為だが、僕にその意図は掴めない。
しかし、小日向にはピンとくるものがあったらしく、
「あっちか!」
とだけ言うと、来た道を猛スピードで戻っていった。
「馬鹿野郎!廊下は…。」
言いかけたところで、暴走した紺色の獣は既に指先程の大きさになっていた。
本当になんというフィジカルの強さなのだろう。
「本当にお疲れ様、先生。まったく、あの単純バカは。」
然程負の感情が含まれていないと思われる彼女のため息。
事情を聞くタイミングは、今しかあるまい。
「あの…、二人はお友達なんでしょうか?」
「そんなわけないでしょ。ただの腐れ縁です、幼稚園の頃からのね。」
まるで苦手な物でも口に突っ込まれたような顔をして、彼女は米粒ほどの大きさになった何かを見つめている。
「腐れ縁くらいの一つくらい良いじゃないか。持っておくと楽しいぞ。」
「楽しくないですー。私の方がいっっっつも後始末で、大変なんだから。」
(表情もそうだが、後始末ってことは苦労したんだな。小日向と接するようになって、大して日が経ってない僕がこれだから。)
「それはお疲れ様。苦労したんだな。」
「そりゃあね!小学校の頃、私があいつの代わりに何度事情を説明したことか。相手を懲らしめた理由は正しくても、行動に移すまでが早過ぎるんだっての。」
本当にエピソードが積もりに積もっていそうな様子だ。
「でもさ、あの真っ直ぐさは羨ましい。悔しいけどね。…あと、あのスタイルッ。小四まで私より背が低かったくせに何なのよ…。」
握りしめられた拳には、積年の思いが込められていた。
途中までは良い話だったのに。
「あのモデル体型か。さっきの追いかけっこでも存分に発揮されてたな。」
「無駄に勘が良くて、運動神経も良いのが余計に腹立つよね!小五の頃、剣道で全国行ったのは確かにすごいけれどもさ。」
「ちゃんと相手を見てるんだな。素直に良いところを認めてやれる後藤は偉いよ。」
「なっ…誉め言葉は、素直に受け取らせて頂きます。」
腕を組んでそっぽを向いていた彼女の耳は真っ赤だった。
「そんなことより捕まえてきたね。金井は南側昇降口から外に出て、壁伝いに北側昇降口まで来ようとしていた。櫻子の隙を見て靴を回収して、逃げるつもりだったんだ。だけど、今日からうちの従業員たちが施工の準備に入っていた。だから何も出来ず、その辺に隠れるしかなかったってね。」
「なるほど。ところで、後藤のお家は建築関係なのか?『うちの』って。」
「そうだよ。『地域の皆様と、共に歩んで百年余年』の後藤工務店。」
思えば、そんな広告がバスの中にあった気がする。
アナウンスでも聞いたことがあるかもしれない。
「朝のアレはそういうことだったのか。世間は狭いね。」
「ところで先生。金井を連行しているあの絵面、マジで怖いんだけど。獲物捕まえてきた猟犬かっての。私、テレビであんなの見たことあるよ。」
「猟犬というより、小日向は柴犬じゃないか?僕の地元にいたぞ、あんな感じで尻尾がくるんと丸まっている柴犬のシーちゃん。」
「シーちゃんって…あんな柴犬は嫌よ、私。」
後藤は想像すらしたくないと言わんばかりの渋い表情を浮かべていた。
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