第10話 旧交(1/2)

翌日の土曜日、僕と大隈先生は午前中に学校へ集合し、仕事を少し片づけた。

職員室には土曜出勤をしている先生が数多くいて、口を揃えて『部活動が制限されている今のうちに、片づけられるものを片付ける』と言っていた。

なんとも世知辛い話である。



その後、正午前に軽い軽食を取り、僕らは児玉先生との待ち合わせ場所である児童館へ向かう。

大隈先生によると、設備の整った四階建ての新しい児童館らしい。


「よく来たな。」


中肉中背だが、しっかりと密度のある体つきで、ポロシャツを着た白髪交じりの角刈り頭の男性が、入り口で僕らを迎えてくれた。


「大変ご無沙汰しております、児玉先生。ご病気から快復されたようで何よりでございます。」


大隈先生は今まで僕が見たことがないほどに畏まっていた。

その証拠が、今日の服装である。

いつもの全身緑色ジャージ姿ではなく、学生時代に特注で仕立てたという紺色のダブルのブレザーに、白のTシャツ、白のチノパン姿である。

まるで屈強な船乗りが、海から陸に上がってきたばかりの姿だった。


「君も元気そうで何よりだ。大隈君、ご家族は元気かね?」


「はい、今年で上の子が大学生になりました。下の子は高校一年です。妻には相変わらず尻に敷かれております。」


照れたような、そして幸せに満ち溢れた笑顔だった。


「結構、結構。それでそちらが例の…。」


「はい、鷹村三四朗と言います。今年赴任した…臨採です。よろしくお願いします。」


僕が会釈すると、児玉先生は武道経験者のような背筋がピンと通った礼を返した。


「さて、ここに来てもらったのは、僕が現在何をしているのかを見てもらいたくてね。」


一番癪なのは、定年して一気に弱り果てたと思われることだったそうだ。


「今は、ここの職員をしている。」



午後の児童館では様々なレクリエーションを行っており、館内に子どもたちの元気な声が響いていた。

外光がしっかりと取り入れられた明るい館内を、僕らは児玉先生に案内してもらう。

どの場所でも元気に駆け回る子どもたちの荒っぽい歓迎を受けて、学校とはまた違う刺激だった。


(なんというか、絶対に超えてはいけないラインだけは分かっているって感じだ。それ以外は、子どもの選択に任されているのかな。)


「学校があまりに静かなので刺激的です。子どもが自発的に動いている、ってのが良いですね。」


大隈先生が隣でうんうんと大きく頷いている。


「お気に召したようで良かった。」


館内を案内されていると、児玉先生が職員と子どもたちに慕われているのがよく分かった。

若い職員にとって、彼は安心できる最終防衛ラインであり、良きアドバイザーだそうだ。

そんな様子に大隈先生は、終始ニコニコとして機嫌が良かった。



一通り案内が終わり、四階の休憩スペースに案内されると、児玉先生がお茶と茶菓子を準備してくれた。


「さて…。」


児玉先生は椅子に腰を下ろすと、顎に手を当て言葉を選び始めた。


「南沢猛君のことは、心中お察しします。」


僕は思い切って話を切り出す。


「気を使わせてすまないね。ニュースで知ったよ。」


彼は寂しそうに笑った。


「素直で律儀で、感情的になりやすい子だった。子どもらしい子どもだったよ。」


「そうでしたね。だけど理由を説明すると、怒りを抑えることができる子でもありました。」


「だからあの時だけか、猛が抑えられなかったのは。」


児玉先生が、紙コップの中身をじっと見つめる。


「職員室へ抗議しに行ったという事件ですか?」


「そうだ。水内が一年間で行ったことを考えれば、誰かが爆発するかもしれないという予感があった。私がしっかりしていなかったばかりに…。」


無念そうに児玉先生は目を瞑る。


「まず校内行事の見直しで、各期末に行われていた球技大会と、受験終了後に行っていた三年生の卒業研修が無くなりました。生徒の息抜きと思い出作りの場が、一度に無くなったんです。」


大隈先生が気を利かせて話を進め始めた。


「生徒指導は今と同じですね。でも、導入当初の方が厳しかったです。『内申を書かない』、『親を呼び出す』と言った文句を、時間と場所を問わず、今よりも大声で言っていたので。今思えば、あれは周知のための威圧でしたね。」


「少なくとも水内式のやり方は、子どもの教育を考えたものではなく、大人が楽をすることを最優先に考えられたものだと感じた。だから、私は真っ向から反対した。」


しかし、ひと月も経たないうちに効果が出てしまったらしい。


「可哀そうなのは、生徒だけではなかった。そういったことに慣れていない教師もいたんだよ。新人、ベテラン関わりなくね。彼らも毎日辛そうだった。」


「僕たち反対派は、それぞれフォローに回りました。でも…」


「校長の方針は変わらなかったんですね。」


児玉先生は小さく頷いた。

顔に刻まれた皺が先程より深くなったように見える。


「水内の方針は都合が良かったんだ。赴任して数年の間、あの小心者はいつ問題が起こるのか、ずっとビクビクしていた。だからこそ、落ち着いた自分好みの学校にするため、水内の案に飛びついた。水内は現場と研究の場を行き来していたエリートという触れ込みだったから、差し詰め地獄に仏とでも思ったろうさ。加えて、水内はこの地区で有力な教育関係の家の出だ。」


そう言い終えると、彼はまだ熱がしっかりと残る飲み物を一気に飲み干した。

苦悶の表情を浮かべ、唸りながら熱さに耐える。


「上手くいけば、退職後も世話してもらえるとでも思ったんだろう、クソッタレめ!」


空になった紙コップはくしゃりと音を立てて、紙くずに変わった。


「私は情けないよ。慕ってくれた猛に心配をかけてしまった。大隈君、君たちにもだ。」


「先生、そんなことはありません。」


大隈先生は即座に否定する。

だが次の言葉が見つからずにいるようだ。


「その…、南沢君は職員室の事件の後、どうなったんですか?」


「私とはずっと話さず仕舞いさ。卒業式も…あいつは出なかったよ。」


下の階で子どもと接していた時と同じ人に見えないほど、児玉先生の表情には影がかかっていた。


「そうですか。ありがとうございます。」


口に入れたぬるい日本茶が、やけに渋く感じられた。



「大隈君、君はこの後どうするかね。」


児童館の入り口で、大隈先生と児玉先生がこれからの打ち合わせを始める。


「申し訳ないのですが、妻と買い物の予定がありますので、今日は失礼させて頂きます。」


珍しく正装をしているから、と奥さんに誘われたそうだ。


「相変わらず仲が良くて良いことじゃないか。奥様には宜しく言っておいてくれ。今度は…そうだな、焼き鳥でもつまもうか。」


児玉先生がグラスを傾ける仕草をすると、大隈先生は人懐っこい笑顔で同意した。


「ところでだ、君とはせっかくだからもう少し話をしないか?」


予備動作なく、急にこちらを向いた児玉先生の突然の申し出に、僕の反応が少し遅れる。


「羨ましいなあ、鷹村先生。ためになる話が聞けますよ、楽しんでください。」


大隈先生はそう言うと、大きく手を振って行ってしまった。



「好きなものを頼みなさい。」


僕らは近所の喫茶店に入った。

僕はアッサムティーに苺のショートケーキ、児玉先生はジャムと蜂蜜が添えられたロシアンティーに季節のパフェを頼んだ。

昔からストレスが溜まったときは、甘いものを食べているらしい。

彼は山盛りのパフェが来ると、美味しそうにスプーンを進め始めた。


「早速だが鷹村君、大隈君を頼む。彼は『気は優しくて力持ち』の典型だ。優しすぎるから、周りの人間のことを優先する癖がある。それなのに義理を優先して、突然無鉄砲になる。彼には助けるもの、守るものが山ほどあるにも関わらず、だ。」


彼はパフェを食べる手を止め、「僕の経験則だ。」と終わりに呟く。


「分かりました。大隈先生にはいつもお世話になっています。お安い御用です。」


彼は柔和にニコリと笑う。


「次に、中道君はまだ学校にいるかい?転任の記事をまだ見かけていないのだが。」


「いますよ。中道先生にもお世話になっています。毎日後ろから驚かされているくらいに。」


「まだやってるのか。相変わらずのようだ。もし校内で困ったことがあったら、彼女に頼りなさい。」


かっかっかっと彼は高らかに笑う。


「困ったことがあったら、とは?」


「彼女は教職を天職だと思っていて、非常に仕事熱心だ。それに記憶力も途轍もないほど良いので、きっと力になってくれる。どうやら君は彼女に気に入られているようだしな。」


聞けば、何月何日いつどこで誰の発言か、まで答えられるらしい。

議論で不用意に発言しようものなら、『宗旨替えしたんですか?』と笑顔で問い詰められるそうだ。


「確かに、朝から晩まで楽しそうに働いている姿を見かけます。」


「そうか、相変わらずか。昔から楽しそうに、そして猛烈に働いていた。一昔前の、火の玉のように云々ってやつだ。当時の明光台第一中学校がっこうは腕白坊主ばかりだったから、彼女にとって天国だったろうさ。」


「おほほほほ、と笑いながら仕事している中道先生が、浮かんでくるようですよ。」


「昔は楽しかったよ。生徒一人一人と向き合って、事が起きたらまた向き合って。職員室では、個々の生徒の対応について議論の毎日だ。中道君とも方針をどうするかよくやり合った。それが故に…。」


彼は明らかに言葉を濁した。


「彼女は校内政治、大人の派閥争いを嫌悪する。彼女はそれを仕事の邪魔だと思っているからね。」


「ということは…、五年前の件には関わってないんですか?」


「もちろん。『私の仕事の邪魔をしないでもらえますか?』と言われたよ。彼女も猛と同じく、最後は話せず仕舞い、謝れず仕舞いになってしまった。僕が体調を崩して、皆に迷惑をかけまいとしたら、全て中途半端に終わってしまったよ。」


児玉先生は、蜂蜜をたっぷり入れたロシアンティーを無造作にかき混ぜる。


「…私は情けないね。」


「そんなことないです。僕はおかしいと思ったことに、たった一人でも立ち向かえる先生を尊敬します。」


「ありがとう。だが大隈君から聞いた限りだと、君も一人で戦えるタイプだと思ったのだが、違うのか?」


残りわずかとなったパフェを食べながら、先生は意外そうだった。

彼の目線は僕を再度観察し直している。


「そんなことないです。近頃、生徒にも耳の痛いこと言われています。もちろん大小関わらず失敗もしていますし、職員室では良い評価をもらえるように…顔を作ってます。」


「そうか、君は立場的にそうだな。他県から来ているんだったか、な。」


余程僕の表情が悪かったのだろうか、先生は悟ったような表情をして居住まいを正す。


「顔を作っているか…、それに生徒の言葉は心に突き刺さるものがあるな。だが、もし君が生徒に慕われているなら、君は間違いなくこの仕事に向いている。自分が如何に不出来に見えても、それは才能だ。」


彼は僕の表情を見て続けた。


「今の段階で一つ一つの仕事に生徒の顔が浮かぶのであれば、この先何があっても教師生活をやり遂げられるはずだ。君の場合はそうだな、生徒の前に立つ君とそれ以外のギャップに押しつぶされちゃいかん。」


最後に、甘い香りが漂うロシアンティーを一口つけて、


「試験に何度も落ちたことがある老人より。」


ぼそりと付け足した。


僕はすっかり感じ入ってしまっていたが、その後すぐに心からの感謝を伝えることが出来たはずである。


「何かあったら相談に乗るから連絡なさい。社交辞令ではないぞ。」


差し出された名刺には、各種SNSとその連絡先が記されていた。


「先生、お若いですね。」


「伊達に約半世紀、子どもたちと接してないよ。」


その顔は今でも青春と言わんばかりに若々しい、爽やかな笑顔だった。

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