第6話 襲撃(2/2)

「準備が整うまでこちらでお待ちください。体の痛むところがありましたら、いつでも仰ってください。」


先程の若い警察官は淡々とした様子で自分の持ち場に戻っていった。

僕らは現在、警察署の待合室らしきところで待機している。

警察署のどこか閉塞的な雰囲気に、僕は居心地が悪かった。

隣にいる大隈先生も警察署に着いてから、ずっと表情が暗い。

警察署員の出す機械的な動作音に囲まれて、思考がぼんやりと麻痺してきた頃、先に僕が取調室に案内された。



取調室の席には、白髪混じりの短髪、所々に擦れた跡としわが細かく入った黒のスーツに、ふた昔前のプリントタイを締めた刑事らしき人がいた。


「お待たせして申し訳ありません。如何せん人手不足なもので。どうぞお掛けになってください。」


僕は刑事さんに促されて席につく。

目の前の男性は柔らかい態度を取っているが、何とも言えない妙な圧があった。


「ええと、お茶でも飲まれますか?ここに来てから、どうせ水の一杯も出されなかったでしょう。」


言われてみれば、朝の打ち合わせから水分を取っていなかったので喉が渇いていた。

僕は素直にご厚意に従い、お茶をお願いする。


「熱っ!」


程なくして運ばれて来たお茶に口をつけると、あまりの熱さに思わず声が出てしまった。

向かい側から如何にも申し訳ないといった調子を作った声が聞こえてくる。


「失礼しました、加減を知らないものが作ったみたいで。では、始めましょうか。」



「状況は分かりました。それにしても先生は分かっていらっしゃる。」


言葉の意図を図りかねて、僕は黙ってしまう。


「先生は空手経験者だから、ずっと間を取って避けていたんでしょう?武器持ちの相手に戦っちゃいけませんよ、人間なんて簡単に死んじゃうんだから。私から言わせれば、そんなこと利口な大人のすることじゃない。」


ナイフで刺されたプロレスラーや、喧嘩で大立ち回りをしたというボクサーの例を出す刑事さんの笑みにゾッとしたものを感じ、僕はぎこちなく頬を上げる。


「おまけに先生は災難ですなあ。明光台第一中学校あのがっこうは、ここ数年地域でも有数の落ち着いた学校で通っていたのに。昔とは比べ物にならないって聞きましたよ。」


同僚とそのお子さんが、明光台第一中学うちの出身らしい。

刑事さんは、過去にあった事例をつらつらと挙げ始める。


「この地域じゃ喧嘩三昧、非行三昧で荒れていたのは有名な話なんですが、ご存じない?」


「僕・・・臨時的任用職員ってやつ、よく言う臨時採用の教員なんですよ。あと…その、別の県から来たものですから。」


説明の度に言葉にすると、自分が嫌になる。

成れない自分に耐え切れず、家族の元から逃げ出した半端者のよそ者。

図々しくもよそ様のテリトリーに紛れ込んだ異邦人。


「先生も大変だねえ。」


僕の雰囲気を察したのか、刑事さんは一度お茶を啜ると話題を変えてくれた。

僕が剣道部の顧問だと聞くと、うちの剣道部が強豪だったと教えてくれた。

署内にOBも数多くいるらしい。

その他に学校の目の前にある運動公園は、学生たちの決闘場だったらしい。

時代もあるのだろうが、なんとも物騒な話である。

そんな話がつらつらと続き、事情聴取よりも雑談のほうが長かったと気づいたときには、お茶がすっかりぬるくなっていた。


「長々とすみませんでした。いやぁ、頭の良い人と会話するのは楽しいね。」


満足した表情で刑事さんは僕を入り口のドアまで送る。

だが、僕はドアノブに手をかけようとしたとき、一瞬だけ得体の知れない何かを感じ取った。


「最後に一つ、ヒノエサヤカさんってご存じですか?」


「ええ、丙紗耶香は僕のクラスの生徒ですが。」


昨日の保健室でも話題になった少女、人と一線を引いている印象が心に残っている少女。

声の方向へ顔を向けると、刑事さんの真っ黒い瞳が僕をがっちりと捉えていた。

僕は思わずドアノブから手を離す。


「あらま、失礼しました。どうぞ、今日はもう結構です。」


数秒前が夢や幻だったかのような柔和な笑みを浮かべ、刑事さんは僕を解放した。



待合室に戻ると大隈先生の姿はなかった。

仕方なく一人で待っていると、やはり警察署というやつは締め付けられるような居心地の悪さを感じる。

そもそも安易にお世話になるものではないが、二度と来ないと僕は心に決めた。


しばらくすると、肩を落とした大隈先生が戻って来た。

その表情は沈鬱そのものと言っていい。

あの廊下での声を聞いた限りだと、やはり犯人と面識があったのだったのだろうか。


「鷹村先生、これからご飯行きませんか?」


無理やり作ったのが丸わかりのぎこちない笑顔だった。



時刻はとっくに就業時刻を過ぎ、飲み屋が活気づく時間帯だった。

警察署の近所には昔ながらの個人営業の飲食店が数多く残っており、暗い道をぼんやりと光る看板が照らしていた。

その中で、僕らは長崎ちゃんぽんをメインにしている中華料理屋に決めた。

警察署で気分をやられていて、お互い温かいものを求めていたのかもしれない。



店内はピークが過ぎたのか、お客が数人いるだけで話をするにはうってつけだった。

僕らは奥のテーブルに案内され、特選長崎ちゃんぽん大盛とライス、特選餃子をそれぞれ注文する。


「お飲み物は?」


僕は大隈先生に向かって、口元にグラスを運ぶ仕草をする。

彼が意外そうに、また少し嬉しそうに頷いたのでビールを瓶で一本注文した。


「乾杯。」


最初だけ注ぎ合って、あとは手酌。

それだけを決めて、お通しのザーサイで飲み始める。

僕ははっきり言って酒に弱い。

だからグラス四分の一を目安にちびりちびりとゆっくりと飲んでいると、隣のグラスに入っていたビールが一瞬にして消えた。

僕が目を丸くしていると、大隈先生は人差し指を立てビールに注ぎ、グラスを口元に近づける。

そして何の躊躇いもなく一気にグラスを傾けると、黄金色の景色を映していたグラスは、一瞬にして周囲と変わらない色彩を取り戻した。

もはやちょっとした手品の類だ。

僕は感嘆の声と共に、小さく拍手を送らずにはいられなかった。


「これ、持ちネタなんです。」


大隈先生が頭をぽりぽりとかきながら言う。


「僕は酒で酔えない体質でして。」


「羨ましいですよ。僕は弱いので。」


グラス二杯分を立て続けに入れたとは思えないほど、先生の顔に変化はなかった。


「ですがね、酔えないって僕には辛かったんです。周りが祝勝会で騒いでいるでしょう?でも、僕は素面なんです。そこにただ一人、取り残されるんです。大学に入ってからそれは顕著でした。」


先生は空っぽになった手元のグラスをじっと眺めている。


「昔から柔道が好きで、好きで仕方なくて、練習ばかりしていました。十歳で体がでかくなったら、周りが期待してくれるようになりました。でもそこからですね、狂い始めたのは。周囲の期待が僕を追い立てるんですよ。休もうなんてするなら、それはもう追い詰めてくるんです。期待に応えなければと思って、僕は必死でした。」


彼はグラス半分だけビールを注ぎ即座に飲み干すと、ザーサイをぽりぽり齧り始めた。


「大学に入学したら、何度も何度も祝勝会。その度に周りは人に期待するだけ期待して、勝手に舞い上がりました。僕は周囲の勝手ぶりに柔道が好きなんて気持ちも忘れて、追い詰められに追い詰められた。そんな時です。」


彼は箸でつまんだ大きなザーサイを半分だけ、がぶりと齧り取った。


「二年生で出場した大会で、左ひざのじん帯がプッツリ切れました。そうしたら、全部どうでも良くなったんですね。周囲へ感情も、選手としての未練も責任も何もかも。それから今の僕が出来上がりました。」


箸の先をずっと凝視する大隈先生が心配になった僕はルールを破り、彼のグラスに残りのビールを全部注いだ。

彼はせり上がる泡をずずりと吸い取ると、もはや反射であるかのようにグラスを傾ける。

そして、同じ姿勢のまま数秒間固まったかと思うと、グラスを降ろし頭を振った。


「お気遣いありがとうございます。いやぁ、失礼しました。『酔う』って怖いですね。」


こちらを向いた顔はいつもの大隈先生の温かな笑顔で、僕はそれに小さく拍手を送った。



程なくして、特選餃子とライスが運ばれて来たので、僕らは温かい食事に移った。

餃子は白菜にちょうど良く塩気が効いていて、肉汁の旨味が引き立てられていた。


「塩気が良い塩梅で美味いですね。風味も良くって米にもよく合う。」


「今度、部活上がりに生徒を連れてこようかな。」


大隈先生は口をホクホクと動かし、とても満足そうだ。

だが熱い肉汁が噴き出したらしく、すぐさまお冷を手に取って口の中を冷ましている。


「あの…、ミナミザワタケシについてお聞きしてもいいですか?」


不意打ちになるが、聞くタイミングは今しかない。

先生は口に含んだ水を嚥下すると、腹を決めるように目を瞑る。


「あんなことがあった後です。先生にはきちんとお話しておきます。」


僕は居住まいを正した。


「南沢猛は五年前の卒業生です。五年前、学校が生徒の指導方針で割れた時、一番に関わった生徒でした。指導方針の変更を提案したのは、当時赴任してきたばかりの水内さんです。その提案に真っ向から対立したのが、南沢猛が最後に口に出した児玉先生でした。鷹村先生、今の学校の雰囲気をどう思いますか?」


「お行儀が良過ぎると思いました。校内を走る生徒もいないですし、昼休みも廊下で遊ぶことなんてしないでしょう?何と言うか、指導が行き届き過ぎている感じです。」


僕は赴任当初に感じたままの印象を伝えた。

世に言うお受験をくぐり抜けた子どもたちの学校なのかと錯覚したほどだ。


「五年前はその反対に近かったんです。良い意味で、生徒はみんな子どもらしかった。今は立ち止まって、一礼して、『こんにちは』ですけど、昔はもっと砕けていていました。何より教師と生徒の距離が近かったんです。教師と生徒で毎日話し合って、本音をぶつけて、生徒一人一人との勝負が、学校中で繰り広げられていました。」


「今は逆に、教師が生徒を組織的に管理するって感じですよね?」


脳裏に浮かぶのは、昨日の体育館とは比べ物にならない厳重で緊張感に包まれている普段の全校集会だ。


「今年赴任した鷹村先生がそう感じているなら、水内さんの取り組みは成功しているんですな。まさに徹底して管理を強めたんです。」


話の潮目変わりそうなところで、ちょうど特選長崎ちゃんぽん大盛が運ばれてきた。

山盛りの野菜はボリュームたっぷりで、まさに栄養たっぷりと言わんばかり。

あさりの出汁と野菜の甘みが染み出た乳白色のスープは五臓六腑に沁み込んだ。

僕らは暗黙の了解で、食べながら話を進めることにする。


「猛がいた三年生は『受験のため』と称して、徹底的に生活態度を改められました。また一年生も『将来のため』という理由で、厳しい指導が取られました。学校と家庭の強い連携の名の下に、生徒の態度が悪ければすぐに三者面談です。反発する生徒は大勢いました。しかし教師側の指導が繰り返されると、生徒も怖くなったのでしょう。いくらも経たないうちに生徒たち、そして学年全体の生活態度は改まっていきました。」


「児玉先生はどのような立場だったんですか?」


「『新しい方針は、生徒の人格を無視している』と仰っていて、毎日芦名校長と話し合っていました。残念ながら、話し合いはずっと平行線のままでしたが…。この状況に対して、児玉先生の職員室での旗色はどんどん悪くなりました。結果的に生徒への指導回数が減り、手間も減ったとして、若い先生を中心に水内体制への支持が集まったんです。何より致命的だったのは…、児玉先生がその年一杯で定年退職ということでした。」


大隈先生は乱暴に米をかき込んだ。

すぐさま、どんっと茶碗がテーブルに置かれる。


「次の年にいなくなる人の支持はしませんよね。しかし、私を含めた学校の古株は、児玉先生を支持し続けました。ですが、『これからの立場がある人を巻き込めない』と言われ、泣く泣く反対派は解散しました。」


彼は空になった茶碗を無念そうに見つめる。


「間もなくして、児玉先生は体調を崩すようになりました。」


「そこで南沢君ですか。」


「ええ、猛はヤンチャなやつでしたが、気の良い素直な子でムードメーカー的存在でした。そして、一番に児玉先生を慕っていました。」


大隈先生は箸を置き、一呼吸入れた。


「日に日に瘦せていく児玉先生を見るに見かねたんでしょう。猛は水内さんに職員室まで直談判しにいったんです。そうしたら、水内さんに無下に扱われたらしく、机にあったコーヒーをぶっかけて、殴りかかったんです。」


僕はあまりの出来事に呆気に取られ、先生を凝視してしまった。


「完全な悪手です。結果的に、児玉先生は水内さんに頭が上がらなくなりました。猛は職員室出禁、接触の可能性がある行事は本人に監督付です。その後は、なし崩し的に今に繋がる体制がどんどん作られ、児玉先生と猛の卒業となりました。」


言葉の一つ一つに悔しさが滲み出ていた。


「昨日の件に付随することもお伝えしておきますね。あれは、猛とその仲間による水内さんへの宣戦布告だったそうです。」


僕はこちらでは聞かされなかった旨を伝えた。


「あとから来た雰囲気のある刑事さんに今の話をしたら、お礼にと教えてくれました。ですが、僕はそれを聞いて気が気でなくなってですね…。」


驚きのあまりの机に身を乗り出してしまったらしく、刑事さんに笑われたそうだ。



腹も八分目で満たされてきた頃、僕は大隈先生に質問してみた。

この言葉がなぜ口を突いて出たのか、自分でも分からない。


「大隈先生は…、水内先生のこと嫌いですよね?」


お冷を口に含んでいた大隈先生は、吹き出しかけてむせてしまった。


「急に何を言い出すんですか。嫌いに決まっているでしょう。あんな人でなし。」


「否定じゃないんですね。」


思わぬ本音と勢いにツッコミを入れざるを得ない。


「そりゃあそうですよ。児玉先生のこともありますが、根本から彼の方針は気に食わんのです。何が旧帝大出身のエリートですか、何が博士課程ですか、何が立派な論文を出して認められているってんですか。自分のシンパとそうでない人で、態度を露骨に変えるんですよ。生徒にだってそうだ。まったく、同じ人間の血が通っているとは思えない。でも、それを言うなら…鷹村先生もでしょう?毎日当てつけみたいに雑用をたんまり押し付けられて。当の本人は押し付けたら『ハイ、サヨウナラ』なんてあんまりだ!」


僕は毎日淡々と回される仕事の山を思い出す。

お向かいから大隈先生が、毎回心配の目を向けていることは知っている。

周囲の憐れむような、何とも言えない視線のことも知っている。

先生がここまで話してくれた以上、僕も腹を割って話さねばならない。

ずるいと言われることを承知で。


「僕には…まだ判断がつきません。赴任初日から、彼に好ましく思われていないのは気づいてます。ですが、どうしても人間だから長所の一つもあるんじゃないかと考えてしまうんです。この人は悪いと即座に断ずることが出来ないんです。」


一呼吸置く。


「…という前提はあるんですがね。やはり『気に食わない』のは、一点の曇りもなく同意です。」


言うつもりではなかったことが、つい漏れてしまった。

これが酒の勢いというやつだろうか。

僕がにいっと口角を上げると、「でしょう。」と大隈先生は同じように笑った。



以降は何気ない雑談と笑い話が続いた。

その中で僕らは児玉先生に会いに行くことを決めた。

提案は大隈先生からで、僕と話しているうちに会いたくなったらしい。

他にはお互いの地元のこと、学生時代のことで笑い合った。

特に盛り上がったのは大隈先生の学生結婚秘話で、こちらはお店の女将さんを巻き込むほど盛り上がってしまった。

日中の出来事を忘れてしまうほどの本当に穏やかな時間だった。



「ご馳走様でした。」「はーい、またいらしてください!」

奥で調理していた強面の親父さんの会釈と女将さんに送り出され、僕らは帰路に着く。

ぼんやりと暗い夜道はほんのりと明るく見えた。


「鷹村先生。ちょっと手をグーにして、僕に突き出してくれませんか?」


突然の提案に僕は意味が分からず、素直に右手を突き出す。


「イエーイ。」


僕の拳より二回りほど巨大な大隈先生の拳が、コツンと軽く当てられた


「これ、フィストバンプって言うんでしたっけ?近頃子どもに教わったんです。」


無邪気で安心感を与えるような笑顔だった。

それを見て、僕もすかさず返す。


「イエーイ。」


お互いを見合ってガハハと笑い、二人とも明るい夜道の帰宅となった。

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